映画とは、カメラが撮影している過程で結果として被写体が画面上を左右に動くというものではありません。
その点では素人のホーム・ムービーとは違います。
映画は、あらかじめ画面の右なり左の先に、ゴールがあると設定して、そこに到達するまでの葛藤を被写体の左右への動きで表現するというものです。
『月世界旅行』"Le Voyage dans la Lune / A Trip to the Moon/Viaje a la Luna"(1902)
映画ができたばかりの頃のこの短編映画は、画面向かって⇨右側に月世界があると設定されています。
そして、そこまでの行程は⇨向きの移動で表されており、月からの帰還は逆の⇦向きの移動で表されています。
つまり画面の動きのイニシアチブを握っているのは、被写体ではなくカメラであり、画面に映るものは基本的に撮影する側によって管理されたもの、もしくは編集の過程で管理されたものでもあります。
こちらは月面基地から木星に向かう宇宙船ディスカバリー号。画面に気を付けていると、その進行方向はひたすら⇨であることがわかります。
特殊撮影技術ではこの二作品は雲泥の差がありますが、目的地は⇨の彼方にあり、そこから地球への帰還は⇦方向になされる点に関しては全く同じです。
2001: A Space Odyssey - Original Trailer #1
『月世界旅行』
<レビュー> 『月世界旅行』
つまり、一貫した目的地を追求する場合、その人物の進行方向は画面上同じである。
そして、もう一つ重要な映画画面の特徴というのは、
同じ価値観、同じ内面を持つ人物は同じ方向で表現するということ。
『孤立した邸宅』 グリフェス
D.W. GRIFFITH'S THE LONELY VILLA 1909
邸宅に強盗が押し入る話ですが、強盗⇨ ⇦家人 で左右に分かれてあたかも陣地戦のような画面です。
『サウンドオブミュージック』
奔放なジュリーアンドリュースを弁護する側⇨ ⇦批難する側。
頑ななフォントラップ大佐の心を矯正するために歌う子供たちは⇨、その対象である大佐は⇦。
90年前のグリフィスの作品ですと、主役 と 敵役 を向かって左と右に割り振ることはまだ行われていません。
今日の映画(現在の日本映画以外)では、主役は向かって左 敵役は向かって右に割り振ることがお約束事となっています。
『生きる』
かなり古い日本映画です。
末期ガンの患者志村喬が人生の目的を見出したいと苦悩する場面。その状況にどう対処していいかわからない女の子は、おしゃれな店に冴えないじいさんと同席していることが少々辛い。自然と同世代の恋人に羨望の視線が流れる。
<レビュー> 『生きる』
『オズの魔法使い』
エメラルドシティーを目指すドロシーは⇨方向に画面を進む。そして、彼女の同行者、トト、かかし、ブリキの木こり、ライオンも同じ方向に進む。
The Wizard of Oz (1939) - Trailer
『スターウォーズ』
後にミレニアムファルコンに乗り込んで共に戦うメンバーは、別々に画面に登場してきます。しかし、彼らが皆自由の闘志であり後に共同して戦うことの画面的伏線として、彼らの初登場画面は、皆⇨方向です。
<レビュー> 『スター・ウォーズ』
ちなみに、『スターウォーズ』は『オズの魔法使い』の構造を取り入れたと言われており、ドロシーはレイア姫、トトはR2D2、ブリキの木こりはC3P0、ライオンはチューバッカと言われているから、じゃあ案山子は誰なんだろう?服装から考えて、オビワンだろうな。
まあ、どちらの作品にしても歴史が200年ちょっとで過去にファンタジーの世界を見いだせないアメリカの辛いところがミョーな痛々しい妄想力につながっている。
まとめると以下のようになります。
画面の進むべき方向を⇨と設定し、その先には目的地がある。
そして、その方向を向いているのは主人公・の同調者たち。
それに対し、逆向きの人物たちは、その主人公の目的地到達・目的達成を容易ならざるものにする妨害者・対立者・ライバルもしくは異質な他者・対話者。
よくよく考えると、これは、サッカー中継の画面とそっくり。
それぞれのチームのメンバーは、みな協力して敵のゴールを目指します。つまりチームのメンバーは基本的に同じ方向を向いているということです。
尤も、この論理というか傾向というべきでしょうか、これは、特定の映画人の発明発見というよりは、自然発生的なものと私は考えております。
そのくらい、誰でも思いつきそうな単純で自然なものでして、
そしてあまりにも単純で自然であるが為に観客に意識されることがほとんどありません。このことに気づいて映画を見ている人はおそらくほとんどいないでしょうね。
すべての作品が、宇宙航海のように実際の航程を画面に左右の方向で示しているわけではありません。普通の物語の場合は、物語の目的の達成をゴールとみなし、その達成の過程を被写体の左右の動きで示しています。
『チャップリン キッド』
捨てられた子供が、実の母親にめぐり合うまでのお話です。そしてその間、浮浪者のチャップリンがその子供の面倒をみるのですが、
この映画、子供に愛情を注ぐことを肯定した映画であり、子供に愛を注ぐことで大人も幸せになれるというメッセージがあるのですが、それを画面上の方向で示すと、
母親が金持ちのお屋敷の前に子供を捨てて逃げるときには ⇦
子供を捨てたことに後悔し、ひっかえした時は ⇨
捨てられた子供をチャップリンが引き受けることになったとき、⇨
チャップリンの『キッド』の画面は決してサッカーの中継のような俯瞰画面ではなく、限定的な空間を映したカットをつなげたものですが、それらの場面々々をすべてつなげて俯瞰図のように図示すると、このようになります。
この映画の場合はゴールは母と子の再会になります。
捨て子の少年をサッカーボールのように扱い、彼を「家族」というゴールに向かって叩き込もうとする人たちと、それを阻止しようとする人たちのサッカーの試合のような映画です。
映画がサッカーと似ている点は、ゴールの方を向いてプレイできなければ得点することはできず、ひたすらピンチに耐えるだけの場面が続くということ。
子供がいなくなったチャップリンは ⇦
うちひしがれています。
そこに警官がやってきて、彼を車に乗せてどこかへ行きます。その車は⇨の方向にすすみ、子供が母と暮らす豪邸の前に乗りつけます。
物語の進行が⇨の方向になされることを理解しておく、もしくは無意識的にそのことを了解しておくと、この車にチャップリンが乗った時点で、ハッピーエンドが来るだろう予感が強く沸き起こるのですね。いわば、この画面の進行方向操作が映画に於ける伏線として機能しているわけです。これは文学的な伏線の在り方とは完全に異なるものです。そして、文学よりもはるかに人間の心の在り方にそぐうもののようです。
なぜ映画が、このように恣意的に画面の方向を操作することを思いついたのかということですが、
このように画面の方向を操作することで、観客はストレスなく物語を追うことができるのが理由の一つでしょうか。
映画が誕生して最初の三十年間は、サイレントの時代であり、頻繁に画面に文字が映され、観客はそれを読むことで映画のストーリーを追っていました。
それら文字の読み方は⇨なのですから、⇨方向の動きは文字との関連から目に心地よいストレスの少ないものです。
それに対して⇦方向の動きは、文字の流れと逆になりますから、なるべくなら少なくして欲しいのですね。
基本的に映画はハッピーエンドに向けて物語が進展しますから、二項対立的に分類するなら、ポジティブな場面の方が多くなります。
ポジティブなシーンを文字を読む方向に一致させるなら、映画全体としてストレスが少なめになるのですね。
もう少し新しめの映画で、『ブレイド・ランナー』、
そしてその舞台裏ドキュメンタリーの『デンジャラス・デイズ』
ナイト・クラブで蛇使いをやっているレプリカントをハリソン・フォードが射殺するシーンです。
レプリカントが⇨の方向に走って逃げるのを背後から射殺するのですから、ハリソン・フォードも⇨の方向に発砲します。
奇妙だと思われるのは、ハリソン・フォードの二発目は⇦の方向から発砲されていること。
ハリソン・フォードが二発目を撃つ前にレプリカントの逃走コースに先回りしてから撃ったわけではありません。
ただ、恣意的にカメラの位置を左から右に変えただけです。
何気なく見過ごしてしまいそうなカットの方向変換ですが、ここでおそらく画面が伝えたかったことは、一発目と二発目の画面の向きの違いというのは、サブリミナル的な情報として観客に届いているはずです。
つまり、映画において基本進行方向は⇨に設定されていますから、レプリカントの逃走というのは、実は、物語の中でポジティブな意味を担っているのですね。
「生きたい,死にたくない」という気持ちに素直に従うことは生き物としてはポジティブなことなのでしょう。そしてそのようなレプリカント、ある意味では普通の人間よりもずっと人間らしい欲望に突き動かされているレプリカントを平然と射殺する態度は、卑劣な行為と言えるのかもしれません。
そんな意見を、このカットのつなぎは表現しているようです。
最初の発砲が⇨なのは、ハリソンフォードが⇨に走るレプリカントを背後から撃ったことを示すため。
それに対し二発目の発砲で彼が逆の方向に発砲しているのは、生命を渇望するレプリカントを虫けらのように撃ち殺したことへの作者側からのネガティブな評価の提示と考えられます。
そして、このような情報というのは役者の演技で表現されているのではないのですね。演技の下手な役者というのは本来何やっても下手なんですが、映画では全く無表情でありながらも、音楽、色彩、画面の向きで演者の内面を表現するという技法がありますので、時と場合によっては役者は何もしない方がいいのですね。常に表情で何かを表現しようとやっきになっている役者は、かえって大根に見えたりするものです。
クレショフ効果はモンタージュの効果についてソ連での研究です。
映画では、役者は何にもしなくてもその前後のカットによって何思っているのかが観客に邪推されてしまうということについての研究です。
つまるところ、観客は役者の顔色を読んでいるのではなく、前後の文脈を読み取っているだけなのですね。
この、観客の邪推を引き起こす要因は何もモンタージュに限ったことではなく、画面の方向変換や色彩や光量の変化でも可能なようです。
そして、私には、進行方向の操作というのは見てる人がほとんど気に止めていないという点で実にサブリミナル的な道具だと思われるのです。見れば誰でもわかる明白なことであり、右か左かの脅迫的な二項対立を提示しているわけですから。
サブリミナル的手法で登場人物の内面や未来への予感を提示し、それを無意識的に観客に了承させることで、強い共感を引き出している。謂わば映画の無意識と観客の無意識を直に結びつけているわけです。
こういうことに考えがいたると、どうして映画が効果的なプロパガンダ道具として用いられてきたのかがよくわかります。
そして、こういうことが分かってしまうと、もう二度と素直に映画を見ることができなくなるのですね。
- つぎはぎされた主張
アマチュアであっても映画を語る人間はやたらと上から目線なもんですが、あれはどうしてかというと、映画では登場人物の限界・欠点も提示しているからではないでしょうか。観客は登場人物が自分に与えられた駒であり、それをよりしろとして映画という仮想現実の中に入り込んでいるというように考えやすいものです。それゆえ主人公の限界を見せられると、自分に与えられた駒は自分の知的サイズに合わない、つまり「自分はこの映画自体よりも知的な存在ではないか?」などと錯覚するのですが、映画はそのあたりの観客の知的レベルもすでに想定ずみです。
映画は、常に主人公の知的レベル道徳レベルの限界を示し、その限界に対する映画作者側からの態度を別の人物で示しています。
「映画の主張」は登場人物AとBとCと…の主張をその場その場でつぎはぎしたようなものである場合がほとんどだと思います。
その主張のつぎはぎをどのようにチェックしていけばいいのか?
登場人物の立ち位置が右側であるか左側であるかに着目していると、大体正確な答えが出てしまうような気がします。
赤側の人物には物語の目的が見えています。主役であろうと善玉であろうと青側にいるときにはそれが見えてない場合が多い。
『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』
別にヨーダとルークは戦争しているわけではありません。ヨーダには見えていることが未熟なルークには見えていないのです。
主人公が敵陣に入って、ゴールの方向を向くことができない。つまりこの状態にある主人公は、誰かに導いてもらうか、何かの幸運をつかむかしないとゴールにたどり着くことはありません。
この場合は、ヨーダがその導師です。
前作では単なる素朴な好青年だったルークですが、帝国の逆襲では短気という欠点を抱えた人として描かれます。その短気で感情を統御できない資質はダース・ベイダーと共通しており、父親の方はそれゆえに暗黒面に落ちたわけです。
『マネー・ボール』
チームのスタッフに今後の方針を語るブラッド・ピット。主役ですが彼のポジションは、画面上の中程です。そして今後採用していく確率論の主導者の中立的な紹介者に徹している場面です。
今後の物語はこのピザオタの理論に沿って流れます。
- 地理的イメージはしばしば踏みにじられる
ドイツとイギリスの戦争映画を作るとして、あなただったら両軍の配置を左右どのように割り振りますか。
ほとんどの人が地図のイメージ通りにイギリス⇨ ⇦ドイツという配置にするはずです。
映画画面の進行方向は⇨ですから、
イギリス軍人を主役にするならこの通りで何の問題もないのですが、もしドイツ軍人が主役だったら、いったいどうなるでしょう?
『ブルー・マックス』
この映画ではドイツ軍が主役ですから
ドイツ軍⇨ ⇦イギリス軍 と配置されています。
つまり、画面の左右の配置なんて誰も気にかけて映画見てないんですよ。そして気にかけない故に、この恣意性にまんまとハマって情感を操作されているのが普通の観客なわけです。
映画の画面においては、進行方向が⇨に恣意的に決められており、そこに進めるか進めないかで物語状況のポジティブとネガティブ評価を示している、ということをとりあえず了承してみてください。
そうすると映画のお約束というものが、芋づる式にゴロゴロわかってきます。
映画の観客というものは、基本的に教養を求められてはおらず、文盲で無教養でも構わないと考えられています。それゆえ映画は共産主義やファシズムの洗脳道具として重宝されてきた、もしくは資本主義の手先として重宝されているのですが、
これら「お約束事」はあくまでも制作サイドにとってのお約束事であって、ただ見ているだけの一般観客にとってはサブリミナル的にしか受け止めていないことばかりです。
- 旧情報 ⇨ 新情報
物語が⇨方向に進展するということは、新しいもの・新しい人は画面の向かって右側から登場するということです。
『オズの魔法使い』
ドロシーが旅の随伴者に出会うときは、彼らは必ず⇦側。
主人公はエメラルドシティ目指して⇨の方に進むのですから、その過程でばったり出くわす輩は⇦向きであり、
主人公が、新しい人物、新しい事物に出会うとき、それら新情報は⇦向きです。
- 非一般的な主人公
主人公とはどんな人のことを言うのだろう?と考えるとき、この画面上のポジションがひとつの指針を与えてくれます。
『シャーロック。ホームズ』 グラナダテレビ制作
『シャーロック・ホームズ』に於いて、ホームズは本当に主役なんでしょうか?それともワトソンが主役なのでしょうか?
通常、ホームズが主役であり、ワトソンが語り部という扱いだと思いますが、
グレナダ・テレビ制作のジェレミー・ブレット主演のホームズ・シリーズでは、ワトソンの方が⇨になり、ホームズの基本の立ち位置は⇦になります。
これはどういうことかと申しますと、
普通、私たちは映画を観る時、必然的に画面の進行方向に重なる⇨向きの人物に共感しやすい状態になっています。
ところが、ホームズみたいな天才が主役だと、なかなか私たちは共感できないのですね。ワトソンくらいの知能がちょうどいいわけです。(ワトソン博士を馬鹿にしちゃいけませんよ、一応お医者さんなんですからそれなりに頭良いんです)
旧情報つまり、観客が既に知っている人物以外にも、観客にとって普通であり特に知る必要のない人物、容易に理解できる人物は、⇨に親和性が高く、
新情報つまり、観客にとって未知な人物、理解を超えた人物は⇦に親和性が高い。
つまり、物語の目的を追求しているのは主人公のようにみえはしますが、本当のところはどうなのでしょう?観客は物語の場面々々において一番共感できるキャラクターを選択して自己裁量で物語にのめり込んでいると思い込んでいますけれども、本当は製作者にほぼ完全に操られて、場面場面で感情移入の依り代を与えられているだけなのです。
逆に言うなら、画面上のキャラの左右の立ち位置をチェックすることで、制作側の目論見を知ることも可能なわけです。
『ガンジー』
あくまでも白人の側から見た歴史であり、東洋人には理解不能の神秘が存在する。そのような類型的な見方を残した映画ゆえ、白人と並ぶときガンジーは⇦側。
『燃えよドラゴン』
『ガンジー』以上の白人の視点を通したびっくりアジア!の映画。
白人の視点から新情報=異質な存在としてのブルースリーは⇦側。
上映時間が後半に差し掛かった頃、白人観客にはブルースリーとほかの中国人の顔の区別がついてきた頃、初めてブルースリーのポジションは⇨に変わる。
『ランボー』
ランボーは規格外な存在ですから、正直なはなし一般人には取り付く島がありません。彼が悲しみを背負った存在だということはわかりますし、その悲しさの正体を見つけることが、この物語の骨格なのかもしれませんが、どちらかというと、私たちはランボーに狩られる立場の警察に感情移入しながらスリルを味わってはいないでしょうか?
世の中の一般的定義では、どう考えてもランボーが主役のはずなのですが、彼の立ち位置は、どうもそうなっていません。そしてランボーが物語の目的を追求するというよりも、彼を理解できない一般人が彼の心の悲しみににじり寄ることが物語の目的なのだろうか?と私は考えてしまいます。
- 過去・回想
また、このようなことも言えます。
画面の向かって右側に物語が進展するということは、時間経過もその方向に進むということです。
『キッド』
「そして五年の時が流れた」バックの雲の動きは⇨
時間は目に見えないものですから、「時が流れる」というような言い方、つまり「流れる」は液体の移動を示す動詞ですが、そういう比喩的な表現を用いないと表すことができません。
このように画面を⇨に進めることももちろん比喩の一つであります。映像的比喩表現とでも申しましょうか。
だから、タイムスリップで過去に向かう場合や、過去を回想するシーンは、⇦向きの画面と親和性が高いです。
『ある日どこかで』
ベットで寝転がりながら、自己催眠だけでタイムスリップするという、かなりアレな設定の映画ですが、
過去にタイムスリップするとき、主人公の向きは⇦
『愛の嵐』
収容所時代のセックス奴隷に偶然再会。そこから過去の回想が始まる。
題名からして回想を軸にした映画と言っているわけですが、デニーロの回想が始まると⇦向きと親和性が高い。
年老いたデニーロがかつて憧れていたジェニファー・コネリーを覗いた穴をもう一度覗いています。
これは、単に穴を覗くことではなく過去を回想する行為であり、この時点から映画も過去に舞台を移します。
覗いた先には、ジェニファー・コネリーの姿。
今度は、少年時代のデニーロの目がのぞき穴の外側からのカットで映されます。
ここから少年時代を舞台に話が進みますので、子役にバトンタッチした視線は⇨のものに切り替わります。
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ(完全版) [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
- 発売日: 2017/03/03
- メディア: Blu-ray
- この商品を含むブログを見る
- 転換・断絶
ターニング・ポイントという言葉があります。日本語に直すなら転換点とでも言えばいいのでしょうが、映画の画面においてはこのターニング・ポイントでは文字通り登場人物の向きが転換することが多いです。
『ゴッド・ファーザー』
商売敵と悪徳警官との会食シーン。
この後トイレにいって、水槽の中に仕込んだ拳銃を取って戻る。
⇨の方向に進んでトイレの中に入り、拳銃をつかむことで、⇦方向転換。
そして、拳銃を持ってテーブルのところに戻ると…
⇦の方向に発砲して、拳銃を現場に捨て、そのまま国外脱出。
ゴッド・ファーザーは、家族愛とマフィアの残酷さの間の葛藤の物語。
これは、物語の構造としての葛藤であるだけでなく、監督を担当したコッポラの態度そのもののようで、かれは、イタリア移民の闇の部分であるマフィアの称揚に繋がるような映画を監督することに当初は反対だったらしい。
敵対するマフィアと悪徳警官を射殺する場面で、マイケル・コルレオーネの人生はひっかえすことのできないポイントを越えてしまう。
更に言うと、このシーンは『ゴッドファーザー』の物語のターニング・ポイントであるだけでなく、アル・パチーノの人生のターニング・ポイントでもあるのですね。当時全く無名のアル・パチーノを主役にすることに映画会社が反対したので、コッポラはそれを黙らせるために早い段階でこのシーンを撮影しパラマウントの重役にみせたそうです。
結果は、あまりの迫真の演技にアル・パチーノ主役のまま映画は完成しました。
『生きる』
うさぎのオモチャの動きから霊感を受け人生を意味を見つけた志村喬。とりつかれたように⇨に走り出す。
- 移動の終了
移動のシーンでは、行程全てを映し出しているわけではありません。移動したという事実を表現したいだけで、移動しているシーンを全て映すことはまずありません。
ポイントポイントをつまんで行程を端折るのが普通ですが、移動の継続を示すには、継続した方向を画面が示し続ければそれでいいわけなのですね。
そして
⇨⇨⇨⇨⇨と画面が続いて⇦が楔に入ったとき、その継続は途切れた、つまり移動が終了したと見る者には感じられやすい。
『クオ・ヴァディス』
ロバート・テイラー率いるローマ軍団が凱旋するシーンです。
軍団の行軍は全て⇨向きです。
ロバート・テイラーのチャリオットが⇦方向にターンすると、
終点のローマを見下ろす丘の上に到着していました。これで旅程は終了したということです。
- ピリオド
画面方向の切り替えが、継続性の断絶と親和性が極めて高いので、物語のピリオドの代わりに⇦方向の画面が用いられることもお約束事化しています。
⇨⇨⇨⇨⇨⇨⇨⇦ 「あっ、終わった」
『エイリアン』
クライマックスの20分間、唯一の生き残りシガニー・ウィーバーは⇨の方向に逃げ続けます。救命艇のなかでも⇨向きです。
最後の冬眠のカットだけは、⇦向きの画面です。
- 復路
冒険物語は大概往路についてのものです『2001年宇宙の旅』とか『ロード・オブ・ザ・リング』『宇宙戦艦ヤマト』では、復路はほとんどエンドクレジット程度の時間しか割かれていません。
何はともあれ、画面の向きを変えると、行き先が違って見えるのが普通の人の感性です。
暫定的な居場所
映画の画面はこのように構成されています。ゴールは⇨の向こう、つまりスクリーンの向かって右端に設定されています。
⇨側にいて⇨を向いている場合には物語のゴールを向くことができ、⇦側では物語のゴールを決めることができないわけです。
- 逆境
いわゆる絶体絶命の場面です。とりあえず生き延びることが先決で、目的の追求は二の次という状況です。主人公が死んだら話続かないですから。
『宇宙戦争』
父親のトム・クルーズが、頭のおかしくなったおっさんを殺しに行く場面。
女の子は、トム・クルーズが人殺しをするという事実と、もしくは彼が返り討ちにあって殺されてしまうかもしれないという二重の恐怖に⇦側を向くしかない。
『生きる』
先ほど「天使」の解説で取り上げたカット。女の子に自分がガンであることを打ち明けるも、その態度のキモさゆえ女の子ドン引き。
- 崖っぷち
物語が⇨に進むということは、その先には広いスペースがあるということです。その逆に主人公が←をむいている場合は、その先にはほとんどスペースがありません。それゆえ行き場や居場所のない崖っぷち感を表現する際には⇦サイドを使うことが多いです。
『生きる』
若い女と遊び歩いていることを息子夫婦から叱責され、もしやの状況を考えて遺産相続の話まで持ち出された志村喬。自分が末期ガンであることを言い出す気持ちにとてもなれず、崖っぷちの気分。
『帝国の逆襲』
絶体絶命の状況下で、最悪の相手から実子認定されたルーク。その崖っぷちぶりは並大抵のものではありません。
- 嘘つきのポジション
『風と共に去りぬ』
自分の求めるものを自分の手でつかむ。金だろうと男だろうと。
『風と共に去りぬ』ってそういう話で、
1部の終わりが、「私は何をやってでも金持ちになる」で、
2部の終わりが、「とりあえず失敗続きだけど、ほしい男をあきらめはしないわよ」です。
そういう目的を追求するためなら、嘘でもなんでもつきますって女がスカーレットなんですが、
仔細にチェックしてみますと、とんでもない性悪女です。こんなヒロインにあこがれる女がたくさんいるなんて、正直勘弁して欲しいです。
ただ、許せる箇所があるとするなら、
彼女にとって嘘をつく行為は、あくまで目的を追求するための手段でして、
暫定的な状態に過ぎません。
映画の中では、スカーレットが嘘偽るときは見事なまでに⇦向きが常態です。
- 入室 入郷
異国、もしくは他人のテリトリーというのは、文句なしのアウェー状況です。
それゆえ入国のシーンや他家の敷居をまたぐシーンは⇦と親和性が高いです。
『サウンドオブミュージック』
フォントラップ大佐の邸宅にやってくるも、門をくぐることに気が進まないマリア。
The Sound of Music (1965) trailer
『第三の男』
旧友を尋ねにウィーンにやってきた。
ANTON KARAS - THE THIRD MAN CLOSING THEME
007は、スパイとして自分の身分を偽り、異国に単身乗り込み、常に絶体絶命の危機に身を晒しているわけですから、主人公でありながら⇦向きと親和性が高いです。
『007は二度死ぬ』
- 上司の部屋
日常感覚からすると上司の部屋は真にアウェーの状況です。なかなかくつろぐこともできませんし、自分のやりたいように振る舞える場所ではありません。こういう理屈からでしょうか、非常に高い確率で上司の部屋への入室は⇦となります。
この映画をローレンスの画面上の左右の立ち位置に留意してみてますと、
イギリス人なのにイギリス社会がアウェーで、それゆえアラブ社会に居場所を見つけようとしたのに結局アラブ人にも利用されるだけされた後ポイ捨てされるというつらい物語が浮かび上がってきます。
Lawrence Of Arabia - Official® Trailer [HD]
ある意味、人にとって究極の上司というべき存在が神であり、神に祈るシーンの⇦方向の親和性は高いです。
『十戒』
映画とは、画面の向きを切り替えることで「何か」が切り替わったと感じさせる表現、もしくは「何か」が切り替わったと感じてしまう表現です。
そして、このことに気がついている観客はほとんどいません。それゆえ、そのような切り替えのメッセージはことごとくサブリミナル的に観客に受け止められます。
そして、そのサブリミナル効果をより高めるために、画面の左右の切り替えにもっともらしい理屈を付けることが従来より行われてきております。もっともらしい理由付けにより、方向の切り替えはさらにカモフラージュされ、さらに無意識的に受け止められることになります。
- 鏡
『タクシードライバー』
映画史的に有名な場面ですが、よくよくチェックしてみますと、この場面でもサブリミナル的な演出がなされています。
トラビスは銃を購入してから、最初のうちは、ずっと⇦向きに発砲しています。
これは、観客の視線は物語の進展方向⇨に同化しやすいですから、⇦の方向に弾撃ち込まれると、自分が撃たれているような気持ち悪さを感じやすいんですね。
自室で鏡を前に練習しているシーンから、銃の向きが⇨に切り替わります。鏡像が左右逆だということを利用して画面の左右切替えが行われています。
これで発砲の方向が⇨方向に切り替わることで、自分が撃たれているような気味悪さが画面から消えて、気分が楽になります。ついでに自分が撃っているようなカタルシスまで感じてしまいます。
どうして、自室で痛々しい独り言を言いながら銃の練習をしているデニーロに観客は乗せられてしまうのかというと、そういうサブリミナル的な技法が使われているからだと私は考えています。
- 階段・踊り場
こちらも伝統的に多用さる画面の進行方向の切り替えを自然なものに偽装するための道具です。
『太陽の帝国』
戦争状態に過剰適応した少年は、空襲に出くわしても怖いという感覚が麻痺している。
ふと気が付くと自分の親の顔さえ思い出せない可哀想な子供である自分という現実を認識すると、年齢相応のか弱い子供に戻って大人に抱えられて階段を下りていく。
少年の認識の急激な変化を階段を下りるための急な方向転換になぞらえたドラマチックな表現。
天使の援軍
映画の画面は、その方向で登場人物の内面や状況を表現しているわけであります。それならば逆に、ただ画面の方向だけをポジティブに構成してみると、内面や状況の変化がポジティブであると説得させることは出来ないでしょうか?
これはいわば、原因と結果を取り違えさせるテクニックです。
私たちは、原因が結果をうむと考えており、このことは科学の根幹であり論理の根幹でもあるのですが、日常生活では実にしょっちゅう原因と結果を取り違えています。
代表的な例が深呼吸でしょうか。
私たちはゆったりした気分の時はゆったりと呼吸できるものです。そして深呼吸とはゆったりした気分であると自分を錯覚させるために敢えてゆったりした呼吸をしてみることなのです。
映画の画面は物語上の葛藤を左右の対立として視覚的に表現しているわけですが、それなら画面上に赤側の数的優位を作れば、勝利できるように見えるのではないか、という原因と結果を取り違えさせる手法です。
『ロッキー』
アポロとの戦いに備え、それまでの不健康な生活を改めて激しいトレーニングに精を出すロッキー。真面目にボクシングに取り組むようになってからはロッキーの向きは⇨主体になります。
そして、ファンファーレのテーマ曲に合わせてランニングするロッキーを後押しするように煙突の煙も⇨方向に流れます。
煙突の煙は頻繁に天使の役割を担わされる。煙突の煙の方向を見ていれば、どのくらい真面目に取られた映画であるかが大体分かる。
このように物語をポジティブ方向に流す為に配置された補助物のことを、このブログで天使と呼称しております。
『タクシードライバー』
デニーロは大胆にも選挙事務所で働く女性をその職場にナンパに出向きます。
普通に考えると、そんなナンパが成功するわけがないのですが、なぜか成功してしまいます。
そして、この事務所のドアをくぐる前の画面では、全く意味もなく、ロン毛の通行人が→方向に歩いていきます。
この一見どうでもいい人物の些細な動きが、デニーロのナンパ成功の画面的伏線になっていると考えられます。
Taxi Driver Los Angeles Trailer, Juggle Change St Name to Elvis Ave, Juggling Taxi TV Serious.
ABC Sunday Movie open for Taxi Driver 1979
Bernard Herrmann - Taxi Driver (theme)
『生きる』
おそらく映画史上最も成功した「天使」の使用例
人生の意味を見出したいと悲愴な思いの志村喬。でも女の子はそんな思惑には気づかない。隣の席のカップルが青側の数的優位を作り出し、志村喬の劣勢を表現。
女の子に自分がガンであることを打ち明けるも、その態度のキモさゆえ女の子ドン引き。志村喬単に劣勢であるだけでなく青サイドに配置替え。ほぼ崖っぷち状態。
そこに起死回生のうさぎのおもちゃの→への動き。これが私が言うところの天使です。
そのうさぎの動きで、人生を意味を見つけた志村喬。とりつかれたように→方向に走り出す。
人生の意味を見つけた志村喬の背中で、ハッピーバースデーツーユーを歌う赤の他人たち。
ストーリーを現実的に見るなら赤の他人ですが、映画の仕組みを了解してこのシーンを見るなら、この学生コンパの人たちは天使の群れであり、志村喬を祝福している。
ちなみに、「天使」という私的用語はこのシーンから思いつきました。
≪関連≫ 『生きる』
いかんともしがたい物理的条件
- 自動車
車の運転席と助手席に座っている人物を撮影するとき、一番簡単なのは、それぞれ反対側の席にカメラをおいて映すことですが、そうすると
『テルマとルイーズ』
二人の顔の向きが食い違ってしまいます。
撮影的にはこれが一番簡単なのですが、それをすると二人の内面が食い違っているように見えてしまうのですね。
それで、二人の心が通じ合っているとしたら、
車外にカメラを置いて撮影して二人の向きを揃える必要があります。
もしくは
このように助手席側の人にそれとなく後ろを振り向かせたりして、画面上の向きを揃えます。
車内にはカメラの置き場所は、基本5箇所しかありませんから、ロード・ムービーはいろいろ大変です。
- 汽車 電車 船
自動車、バイクそれに飛行機は、乗った人の顔は必ず進行方向をむいています。それらと比べると、汽車・電車・船らの移動手段には面白い特徴があります。
進行方向と人物の顔の向きが食い違っていても問題ないのです。
乗り物の進行方向を状況に例え、その状況と主人公の内面の食い違いを表すときに便利な道具です。
『ガンジー』
汽車は⇨の方向に向かっているのに、ガンジーは⇦向きです。
長いものに巻かれろ、易きに流れろ的な生き方を拒否して、革命的人生を送るガンジーを表現しているものと思われます。
そして、この直後のシーンでは、人種偏見から汽車から放り出されることになります。
- 自転車、バイクの二人乗り
日本の青春映画には自転車の二人乗りのシーンが必ずと言っていいほど出てきますが、自転車バイクの二人乗りというのは、二人が同じ方向をむいているのですけれども、前に乗って運転している人には、後ろの人の姿が見えません。
それゆえ、後ろに乗っている人の恋心にあまり気がついてくれない前の人という状況をあらわすのに便利です。
もしくは、自分の本当の心を偽ったまま明かせない女の子を後ろに乗せてツンデレのシーンを演出することもよく行われています。
日本映画はこういうシーンすごく多いんですが、アメリカ映画ではあんまり見たことがありません。
『時をかける少女』
私、日本人について思うんですが、好きな相手に好きだといっても、損する人も損することもないんですよね。ダメもとでも好きだと言えば活路開ける場合多いし、例えどんな相手からでも好きだと言われりゃ嬉しいはず。
- バッターボックス
通常の野球中継ではピッチャーの背中越しにバッターを撮す構図が用いられます。
無論、ピッチャー、バッターの顔面アップもありますし、ネット裏からバッターの背中を撮す構図もありますが、基本となるこの構図で、ヒットを打って出塁しようとすると、
⇦方向に走り出さなくてはいけません。これは映画のお約束事的にはネガティブな方向への移動ですから、打つ側が主役の場合には、厄介な問題なのですね。
だから、バットがボールを捉えた瞬間に、バッターを後ろから撮す構図に切り替えることが多いです。
『ナチュラル』
左利きの野球選手の物語であり、天才でありながら人生全然上手くいかない人の物語でもあります。左打者がバッターボックスに入ったとします。彼の顔をアップで撮そうとすれば必然的に、顔の向きが⇦になってしまいますから、
バットがボールを捉えた瞬間に、背中からの構図に切り替えて⇨の方向を作り出します。
ロバート・レッドフォードとブラッド・ピットには親子説まで流れるくらい顔が似ているんですけれども、ブラッド・ピットの『マネーボール』でも同じ事が行われています。
Moneyball (2011) Movie Trailer - HD - Brad Pitt
北枕と蘇生
物語は⇨の方向に進展するのですから、必然的に⇨方向への動きが多くなります。それゆえ画面上には⇨方向への残像がちらついているような感じがあり、進行方向に起き上がるのはスムーズに見えるのですが、⇦方向に起き上がるのは負荷がかかるように感じられるものです。
この性質を利用して、生きているときは⇨の方向をむいているのですが、息を引き取るタイミングに合わせて⇦方向に頭の向きを切り替える手法が一般化しています。
人が死んだあと、枕を北向きにする私たちの習慣とそっくりですね。
『勝手にしやがれ』
『イントレランス』
バビロニアの女弓手が射殺されるシーン。
96年前に既に「北枕」が行われていた。
『塹壕にて』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10342341
これは、映画ではなく、コスプレ愛好家が撮影した自主フィルムです。
アマチュアの短編作品だけあって、爆発シーンを火薬使って派手に撮影することができないのですが、それでも「お約束事」である臨終場面での頭の向きの切り替えを行なっています。
興味深いことは、この「北枕」で臨終を示す手法は、その他の血糊とか爆発とかのもっともらしい要素にサポートされていないと、見ている人には意味がわからないのですね。
この兵士が、爆発で死んだことが見ていて分からない視聴者もいるというのがニコニコのコメントから分かって面白い。
逆に言うと、臨終の場面ではとりあえずこのように頭の向きを変えた画面をつなぐことがそこまで「お約束事化」しているのかということでもあります。
よみがえるシーンは臨終のシーンほどは多くありません。現実では死ぬべき時に人は死ぬだけですから。
『インディージョーンズ 最後の聖戦』
銃弾を受けて瀕死のショーン・コネリー。
ところが、聖杯から水を傷口にかけると、あら不思議。
傷は治って、すっかり元気です。そして頭の向きもいつの間にかひっくり返っています。
画面を傾ける
こうなるとポジティブが同のネガティブが同のではなくて、根底から間違っていることを示します。
『第三の男』
間抜けな素人探偵による謎解きの物語なのですが、主人公が間抜けなため情報収集能力とその解析能力が低く、観客に正しく謎解きの材料を提供することができません。
これでは、『アクロイド殺人事件』と同じくアンフェアな状況です。
それゆえ、主人公の観察力に問題があり、容疑者やキーパーソンから正しく情報を引き出せていないことを観客にサブリミナル的に知覚させるために、実は胡散臭い人物が映る時には画面を傾けています。
更に言うと、主人公自体が誤った情報の発信源であるので、彼が酒を飲んでいるシーンでは、彼自体が激しく傾いています。
『恋する惑星』
金城武は酔っ払ってまともな話が出来ていません。電話の向こうの女の子にはもう相手にされていません.
以下のエントリーにつづきます。
1960年代以降の日本では画面の進行方向がこれとは逆になっているという事実についてです。
baphoo.hatenablog.com