『サウンドオブミュージック』  こりゃ傑作

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)もどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。




ロバートワイズ作品。1965年公開。

私、ロバートワイズ作品では、『ウエストサイド物語』も好きなんですが、『サウンドオブミュージック』も実に素晴らしい出来です。別に私が褒めなくても歴代映画トップテンに入るだろう傑作なんですが、

前回の『オズの魔法使い』の回で書いているんですが、

ミュージカルでは登場人物の感情が高ぶってきた時に、歌が始まるのですが、
歌を歌っている時の演技は非常に誇張された様式化されたものであり、それゆえ、
映画でのポジティブー>、ネガティブ<ーの方向が、あほらしいくらいはっきり見える、ということなんですけれど、

さすがに、『オズの魔法使い』の『オーヴァーザレインボウ』ほど露骨な方向操作は、この映画では見られません。
あんな単純なものではなく、はるかに幾何学的に洗練されたものであります。

映画史的に考えると、アメリカ映画は、この映画の数年後にニューシネマの時代に突入し、美人を美人として映すことを拒否し、BGMを否定し、素人臭さアングラ風味を表に出した作品を連発していきます。
それで、アメリカの映画制作システムが一旦破綻することになるのですが、

この、『サウンドオブミュージック』は、その破綻する前の最後の輝きのような作品でありまして、何もかも素晴らしい、爛熟した映像文明の最後の輝きのような作品です。



冒頭のシーン。アルプスの山頂は雪をかぶっている。


空撮画面はー>方向にひたすら流れる。
物語の進展は、通常この方向によりなされるのですが、それはつまり、時間の流れもこの方向でなされることであります。
この冒頭の空撮は、単にカメラの移動ではなく、季節の移動を表現したもののように私には感じられます。
そして、空撮は丘の上のジュリーアンドリュースを捉えると、彼女の体はくるりと一回転します。
彼女の姿は、季節が冬から春に移り変わった時に開いた花のように見えるのは私だけでしょうか。
私にはそう見えるんですよ。そして、その理由というのは上述の通りです。


前回の『オーヴァーザレインボウ』的に考えるなら、この気持ちのいいテーマj曲を歌うジュリーアンドリュースは当然ー>の方向をむいているべきなのですが、

この歌の途中で、彼女の向きが<ーに変わります。


明るい調子で歌っていますが、一応後ろ向きな歌詞です。


過去を回想することは、<ー向きに親和性が高いと、この電波ブログで散々書いてきていますが、
それにしても、しょっぱなの気持ちのいい画面で、この<ーの画面かよ、と思ったりしますけど、

実は、この<ーベクトルは、この映画に於いて伏線として存在しているのですね。
まあ、それはのちのち解説するといたしまして、


この映画の舞台となったのはオーストリアザルツブルグ
オーストリアといえば、ヨーロッパの天皇家とでも言うべきハプスブルグ家の縄張りです。
それゆえ、ギリシャ直系のヨーロッパ文化の精髄みたいなものを感じさせる場所、もしくは、そのように周囲から思われているだけに無理してヨーロッパの伝統センターのように振舞っている場所なんですが、

この映画を見ていても、ギリシャのパルテノン神殿に連なる左右対称の美意識がいたるところに映し出されます。


執拗にこのようなシンメトリーな構図が映画に出てくるのですが、それはオーストリアがどのような歴史の国かという事情によることと言えるのですけれども、
非常に面白いことに、この映画で示される、画面上のベクトルというのも、これら画像になぞらえるようにシンメトリーな図柄に収まっているのですね。


これは一体何を示しているのかと言いますと、『私のオキニいり』の場面から
大佐が婚約者の男爵夫人を連れて帰ったときマリアと言い争いになるシーンまでを、赤をマリア 青を大佐 で向きをベクトル変換した図です。

ヨーロッパの美意識にそぐうシンメトリーな構図ができています。


この赤と青で私が記したチャートというのは、マリアと大佐の闘いの軌跡なのですが、具体的にどのシーンがチャートのどこなのかということをポツリポツリと記していくとします。




雷の夜に子ども達に『私のお気に入り』を歌うシーン。マリアは<ーなのに対して、

その部屋に入ってくる大佐はー>向き。


その大佐のプレッシャーから逃れるかのようにマリアと子供たちはー>の方向に家を出てピクニックに。
しかし、その行程は単純なー>方向ではなく、なんどもジグザグする。





この点については、何かと疑問を感じたのだが、見ていくにつれて、それがどうしてなのだかがわかる。

どうして、子供たちの素行が悪いのかを尋ねたところ、それは父親との関係がうまくいっていないからだと聞かされる。

だから父と子供の関係改善のために、マリアは子供たちに歌を教えるのだが、
ここでドレミの歌を歌うことが物語前半のターニングポイントとなっている。

いわば、マリアはこの時、物語の中の目的を発見するわけでして、
その目的とは大佐の心を変えること。

そして物語前半の目的が明確になったところで、
画面のベクトルはー>方向に鮮明に出されることになる。

映画はー>方向に進展するものであるから、ー>向きの人物と、<ー向きの人物が対決したら、画面の流れを味方につけているー>が勝利するようにできている。

だから、『ドレミの歌』でー>の方向を獲得したマリアと子供たちは、このまま大佐と対決して勝利するのだろうと思いきや、彼らが帰宅するときの方向は<ー方向


『私のお気に入り』のシーンで、マリア<ー 大佐ー>のポジショニングで、マリアの方は部が悪かったわけです。それで、画面からはじき出されるみたいにハイキングに行かざるを得なかったわけですが、今度は逆襲しようと
さっきの大佐のー> のベクトルに向かって画面を逆走しているのですね。


素人だと、『ドレミの歌』という新兵器を得たマリアをさっさと大佐にぶつけてしまいたいのですけれども、いきなり正面衝突してマリアがあっさり勝つと、物語そこで終わってしまうじゃないですか。

それで、マリアと大佐が正面衝突しないために、正面に向かって移動する画面を挿入します。

そして帰宅に際し車を運転する大佐も同様なベクトルを描かせることで、二人が敵というよりもコインの裏表のような存在であることを印象づけていきます。
二人が似たような人物であることを映像で表現するには、似たような動きをさせてみればいいのですが、画面上のベクトルを同じような形にまとめるだけでも、二人の同質性は描けるものと映画界では考えられているようです。




物語の目的はマリアが大佐を屈服させることですが、それはマリアが大佐を粉々に粉砕して立ち直れないようにしてしまうことではありません。マリアは大佐の幸福を求めはしますが、あくまでも降伏後は自分と行動を共にする友軍とすることを望んでいます。

それゆえ、早急に二つの勢力は衝突してはなりません。
衝突前に、大佐の人間味をちゃんと描いておかないといけないのですね。

そのプロセスは、車を運転している時の会話でありますし、

邸宅についてからのフィアンセとの会話でもあります。


大佐はーー>の方向を基本的に維持していますが、
立場上勝ってはいけない人なので、ネガティブなポジションに変わります。


これで、マリアに負ける準備が整いました。



さっきまでは <ー進行が主だったはずのマリアですが、いざという場面では、ー>方向の登場で確実に勝利を得ます。

このような画面上のベクトルを解析していくやり方ではなく、伝統的な文学的方法だと、
ここで船で登場するのは、さっきまで大佐が結婚のことを「錨を下ろす」と表現していたこと、そして彼の家庭教育は海軍式の厳しいものであること、と関係しており、そのような海軍の虚勢が崩れ、素の人間に戻る事の比喩として、ボートがひっくり返った、とでも言いたいのでしょう。

そして、私にとっては、そのような文学的な解釈というのは、ものすごく退屈なのです。
そんなものに着目しなくても、映画とは楽しめるものですし、映像の表現というのはもっとサブリミナル効果が高いあくどいものなのですから。


まさに正面衝突とでも言わんばかりのシーンですが、『私のお気に入り』のシーンとは異なり、マリアがポジティブで大佐がネガティブです。
こういう地の利を得ると、マリア必ず勝てます。

しかし、そういう私の確信は、画面の流れを読むことから来る予感であって、あらすじ的には、大佐からマリアは解雇を言い渡されます。




はじめの方の話に戻りますが、どうして、この映画の冒頭のテーマ曲のシーンは、気持ちのいい場面なのに、歌の途中でマリアはネガティブ方向<ーに向き直って歌うのか?の疑問はこの場面で解決します。
子供たちのコーラスに心を動かされ、その歌声の中に参加する大佐。その歌詞は、丘の上でマリアが<ー方向をむいて歌っていた箇所と全く同じです。


マリアの対決相手として大佐が負ける為には<ーが義務付けられています。
その大佐が、マリアと同質であることを画面のベクトルで表現するために、最初の場面で、マリアにもこの歌のこの箇所を歌うときには<ー方向を向かせておく必要があったのですね。

ー><ーの画面の向きを単純にいい・悪い、明るい・暗い 程度の二項対立に済ましていた『オズの魔法使い』の画面と比べると、『サウンドオブミュージック』二つの存在間の葛藤をまるでワルツのように描いているのですね。

さっき、『サウンドオブミュージック』は旧ハリウッドの爛熟した映像文化の最後の輝き、みたいに書きましたが、
この映画、『ウエストサイド物語』で大成功を収めたロバートワイズが『メアリーポピンズ』で大成功を収めたジュリーアンドリュースを主役にして、既に舞台で大成功しているネタを映画にしたものです。ロケとセットの撮影の兼ね合いも、『ウエストサイド物語』で問題なく成功していますから、
この映画は企画の段階から大成功することが約束されていたようなものです。

それゆえ入念に準備がなされたでしょうし、画面の進行についても非常にちみつに考えられたものであることがよくわかります。






それまでは常に子供たちとは向かい合っていた大佐が、エーデルワイスを歌う時からー>のサイドに変わる。
このシーンから、大佐はマリアと子供たちのチームメイトとして以後の物語のなかで闘うことになります。

この場面にしても、『ドレミの歌』の構図とほとんど同じです。

こうやって大佐とマリアがぴったりの間柄であることを画面で表現していきます。
二人の恋愛感情の成長は、目に星が輝くようなフィルター撮影や、フィアンセの嫉妬の演技だけで表現されているわけではありません。



オーストリアの土地柄、必然的に左右対称の画面が増えるのですが、どうしてヨーロッパ人が伝統的にこういうデザインを好んで来たのかを考えるに、二項対立の止揚による解決を視覚的に表現すると、ああいうデザインになるのだろう、
そして、この映画の前半では、マリアと大佐の関係というのは一種の闘争といってもいいのかもしれませんが、それは、片方が片方を粉砕殲滅する類のものではなく、二項対立の止揚を思わせる結末が準備されています。

そう考えると、この教会のシーン


本来、対立や逃走から解脱した境地というのはこのように左右対称で示されるべきなのですが、

現実のマリアの生活は問題に満ちています。そしてそのことを論じる修道女たちは、彼女を弁護する側と非難する側で二項対立の構図を作り出します。


弁護する側がー>、避難する側が<ーになります。
本来、画面の進行方向にポジションをとると勝てるのですが、それにしては画面上の人物の数を考えると弁護側は圧倒的に不利です。

そして、この弁護と非難はどちらかがどちらかを淘汰するためのものではなく、二つの意見をまとめ弁証法的な解決を得るためのものです。
その意見をまとめる過程を、歌詞ではなく、人物たちの動きの流れで表現しているのですが、


この場面に飛び込んできたマリアの態度があまりにもひどいので、彼女にとって好意的ではあるものの厳しいペナルティーが課せられることになります。

そのペナルティーは、フォントラップ家の家庭教師を九月まで務めるというもの。


ミュージカルでは、歌詞を歌うことは台詞を話すことと比べると、言葉数が少なくなるので、その分、画面上の動きで説明しなくてはなりません。

そうすると、私が、この電波ブログで主張している画面上の向き・ベクトルをフルに使用することになるのですね。


そして、修道院を追い出されフォントラップ家に向かうマリアですが、
その行程は、これが彼女の意に反したものであるだけに、どうしてもー>に進めず、後ろ向きなものになりがちです。


<ー側のポジションで、目的を主体的に追求できない立場の彼女をさらに追い詰めるように噴水が彼女の方に水を吹きかける。


一応バスはー>向きなのだけれど、それは、彼女が主体的にフォントラップ家に向かっているわけではないことを示す。
また、彼女の姿勢も素直にー>方向をむいておらず、気持ちがあまり進まないことを示している。


バスから降りると、バスのー>の流れを継続することができない。かと言ってネガティブに<ーに進むわけではなく、空元気を出して頑張ろうとするも、所詮空元気。中途半端に、画面を正面に向かって歩く。

映画は基本的に右か左に進むものですが、『サウンドオブミュージック』では、画面の正面に移動するシーンが非常に多い。

これはどうしてかというと、もしセット内での撮影だったら、カメラに向かって歩いてくる役者をカメラが後退しながら撮影できるような奥行きのあるセットはなかなか作れないものですから、難しいですし、
屋外でも、延々とそのようなシーンを撮影しようとするとカメラの影写ったりしやすいですし、レール引くと、それが画面に映っちゃいますから、車使わないといけないのですね。

いろいろ苦労多い割には、人物の背景があんまり変化しないので、つまらない画面になりやすく、意味ないんですよ。

この映画で、そのようなある種の掟破りが多々使われているのは、

画面上の動きを音楽を表現するものとして捉えているということ、つまりMVみたいな発想で撮っているということ、もうひとつは、ファミリー合唱団ということで、多人数で画面に移りますから、画面の背景があんまり変化しなくても、十分起伏のある画面を作り出すことができるからでしょう。





しかしながらも、フォントラップ家の前に着くと、やっぱり気が重いので、<ー

この<ー方向がいつ終わるのかというと、


金箔で飾られた広間に入り込み、


そこでの舞踏会を妄想して、くるりと回転するマリア。
脚本、もしくは文学的に言うと、このシーンはそこまで強いものではないのかもしれませんが、
映像的に言うと、そうとうに強い意味をもち、また、濃い伏線となっています。
いやいやこの家にやって来たマリアが、主体的に追求できる目的を発見したシーンです。
そして、そのメッセージは観客にとってサブリミナル的にしか提示されませんが、同時に、ここでマリアが目的を見つけたということも、彼女の無意識的なものでしかありません。

映画の素晴らしいところは、画面の色や構図、向きで、登場人物の無意識を表現し、それをサブリミナル的に観客に了解させることができる点です。
つまり、作中人物と観客の無意識を共有させるという不思議なことができるということです。


このあと、大佐に、「勝手に人の家をのぞくんじゃねえ」と叱責され、来ている服装をチェックされるために、一回転させられます。
まるで、この犬でも扱うような一回転で、さっきの金の広間での方向転換が向かされてしまったように感じられます。
ここから、『ドレミの歌』が始まるまで、マリアにとって延々と<ー貴重の画面が続きますが、ここは大佐の家なのですから、マリアにとっての正真正銘のアウェイ環境なのですね。


「サウンドオブミュージック」は三時間弱の映画で、マリアに陥落した大佐がエーデルワイスを歌うシーンがちょうど上映時間の真ん中の1時間47分です。
この前半は、マリア対大佐の物語だったのですが、
後半は、二人の結婚とナチからの逃亡の物語になります。

そして、金の広間でのパーティーから始まります。
このパーティーから二人は互いの恋愛感情を意識するのですが、そのような玉の輿実現の予兆、つまり伏線は、
最初にマリアがフォントラップ家にやって来た時の、金の広間の方向転換でサブリミナル的ではありますが、雄弁に語られています。