『宇宙戦争』 

宇宙戦争』 2005年、スピルバーグ監督作。
War Of The Worlds Full Trailer - YouTube


この映画の理不尽な破壊は、911のテロ事件の影響からだといわれていますが、

日本人としては、この前の大地震のこともあるので、実に身につまされる部分の多い映画なのですが

絶賛する人と馬鹿映画呼ばわりする人の落差がものすごく大きい作品なのですが、
自分はどうなのかというと、ほぼ絶賛です。


まずこの映画を酷評している人たちの大きな理由というのが、
タコみたいな宇宙人がタコみたいな機械に乗って地球侵略しに来るなんて、真に受けることが出来ないってものなんですが、

911にしろ、3月11日の津波にしろ、唐突にやってきたことなので、それまでの日常生活の中では全く想定していなかった事なのですね。
そりゃ、原因をまじめに考えれば、そういうことが起こる必然を理解する事は不可能ではありませんが、
但し、唐突にそういう大惨事が起こったことの受け入れがたさを映画で表現するとなると、
タコが宇宙の彼方から攻めてきたってのって、象徴的であるとかそういう言い訳をする以前に、妙にすんなり理解できてしまうものです。

原発が世の中これだけたくさん出来て、以前だったら原発反対って世論だったのが、気がついたら「環境に優しい」とか言われる存在になっており(今になって思えば、原発の社会的立ち位置がいつの間にかそんな風に変わっていたというのも異常なことですが)、絶対壊れないんだろうくらいに自分も思っていましたし、メルトダウンの直前までテレビで専門家が「絶対大丈夫」って生放送で発言してました。

事故が無いと思っているから多くの人が原発の近くに住んでいるわけだし、そういう生活に慣れてしまうと、絶対原発に事故は起こらない、事故の怒る確率はタコが宇宙から攻めてくる確率と同じだ、ってところでしょう。

また、宇宙人の破壊というのは、トム・クルーズの家庭問題を比喩的に表現しているだけではないか、と感じる人がかなりの割合でいるのですが、
確かにそう考えると、すんなり理解できる側面はあります。



以下の内容を読まれるのでしたら、こちらbaphoo.hatenablog.com
と、こちらbaphoo.hatenablog.com
をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。


この映画、基本が救いがたいバカ映画的内容でありながら、画面はものすごくいびつに知的に進行します。

映画開始から13分後の宇宙人の地球降下の嵐のシーンまで、トムクルーズの家庭問題が延々と描かれますが、当然のごとくほとんどのカットで、トムクルーズ向きのネガティブポジションです。








の向き動き、は、後に来る凶行の予兆として使われるのが映画のセオリーなのですが、
たしかに、この後世界を破滅の間際に追い詰めるほどの災厄が降りかかるのですが、それにしても単なる災厄の予兆としてなら、この13分間のトムクルーズの家庭問題は長すぎます。

それゆえに、この映画での破壊は、トムクルーズの家庭の葛藤を象徴的に現しているだけという解釈がそれなりに説得力を持っています。

ただしかし、石原慎太郎地震津波の事を「天罰だ」といったように、どうしようもない災難が降りかかった時に、その原因を、信仰心が足りなかったせいだとか、家族が仲良くしなかったからだとか、誰かが近親相姦したから(エディプス王)とか、国民が酒池肉林に明け暮れていたから(ソドムとゴモラ)とか、そんな風に手ごろな理由付けて何とか納得しようというのは、人間心理的にはものすごくリアルなものであるのですね。
この人類を破滅の間際にまで追い詰める災難が、トムクルーズの家庭問題とオーバーラップしているというのは、文学的な象徴とかそういう痩せた解釈ではなく、ものすごくリアルな人間の心の奥を自分は感じました。自分のコントロール能力を超えた圧倒的な災難の前では、その原因を自分に関連付けることで自分の卑小差を慰めたくなるわけです。

そんな最初の13分の中で印象的な 方向のトム・クルーズ

離婚した奥さんが彼の家にやってきて、子供部屋に向かう。

このままに進むと彼の寝室です。本来離婚していなかったら、元妻もこの方向に進めるのですが、今となってはそちらには進めませんので、トム・クルーズは扉を閉め、その方向への移動を遮ります。


そして、方向に曲がって子供部屋に入ります。
幼い妹と高校生の兄が一緒の部屋なのはおかしいと、元妻から指摘されます。



最後に、元妻に冗談言ったら笑ってくれた。この時は、トム・クルーズの心を示すがごとく、ポジティブに側です。


このあと15分間ほど、宇宙人の脅威に晒されるシーンが続きます。



街に出たトムクルーズが逃げ回る方向は、基本的になのですが、これは逆境にいる主人公としては正しいのですが、時どきポツリポツリと向きのカットが入ります。

→ → →と画面の向きが連なるのでしたら、トム・クルーズは明確な目的地に向かって逃げていると見ていて感じられるのですが、    のようにずたずたにされると、物語が目的地もなく目的も無いという印象を見るものに与えます。
トム・クルーズはどうしていいのか分らない、どこに行っていいのか分らない、そういうイメージをみるものに与えるはずで、

とりあえず家に戻りますが、それから先はどうしていいものかよく分からない、それに本当のこというと守るべきものって彼にあるんでしょうか?
家は2*4の安物、仕事は大した事無い、家族はもう破綻寸前、
守るべきものなんかほんとのこというと無いんじゃないか?
災害に面した時の大人のこういう認識も、自分にはリアルなものに思われるのですね。
大災害にあったその瞬間って、自分が実は何にも守るものもっていなかったことに気がつくってことはあると思います。
最初の一瞬だけは、自分が生き残ったことの充実感と身辺整理できた爽快感があるのかもしれないけれど、その後しばらくたってから徐々に周囲に目が行くようになると
、じわじわと後悔の念、あれ残しておけば良かったとか、あの人生きていたらよかったのに、みたいな念が沸き起こってくるのでしょうけれども。


この娘との関係も相当にいびつです。


息子との関係は、反抗期を越えたところで、もうどうしようもない状態。
そんで、娘との関係はというと、
これがまた自分にはリアルなものに感じられます。


母親のいない家庭の女の子ってのは、多かれ少なかれ、父親の妻みたいに振舞おうとするもんなんですが、大抵父親の方はその事に気がついていません。
それで、なんて口うるさい女の子なんだろうとか、こいつ俺のこと馬鹿にしてないか?みたいに感じるものなんですが、

でしゃばって母親の代わり、つまり父親の配偶者の代わりをつとめているんですけど、父親の方はそんなこと思ってもいない。
「なんでこいつこんなに偉そうな態度なんだろう?俺のこと馬鹿にしているのか?」みたいに思うわけですわね。

そして、『E.T.』のドリー・バリモアみたいなわかりやすい可愛い顔した女の子じゃないでしょ、
ダコタ・ファニングは。
それが、トムクルーズの守るべきものがなくて、何を目的にしたらいいのか分らない感に説得力を持たせているように思われました。

そして、こういうトム・クルーズが逆境に立ち続ける場面が30分続くのですが、
それが
にしばらく安定するのがこの車のシーン。







失敬してきた車でボストンまで逃げようってところですが、周りの車はバッテリーが焼ききれて動きません。

道路を行く車はトム・クルーズの一台だけ。
そしてその車の周囲をカメラがぐるぐる回りながら映します。
この時、女の子が後部座席で、めったやたらと恐怖心からわめいているのですが、

「レイチェル、黙れ、静かにしろ」
「どなるなよ」
「だったら、お前がなだめろ」





「こうやって腕を組む、このスペースはお前だけのもの。だれもはいってこない、こない、こない」

これで、女の子は、泣き止みます。そして泣き止んだと同時に画面はにしばらく固定され、安定した移動がしばらく続く事になります。

これ、『E.T.』が生き返る時のカメラワークとほとんど同じです。


最初の30分間のあまりにも多すぎる方向への移動と向きから、『宇宙戦争』には、画面進行を投げてるような投げやりな態度を感じてしまったのですが、この女の子がなきやむシーンで観客の方も一息ついて、登場人物たちと同じように落ち着いて映画が置かれた状況をとらえなおすことができます。
スピルバーグは意図的に、最初の30分の進行方向、ベクトルの異常な状況を作り出していた事が分ります。