私はどんな時にネットでアカの他人の映画レビューを読むのかというと、
- 巷で話題の映画が、どうもメディアでの絶賛振りがうそ臭いと感じられる時。そういう映画ってヤフーやピアにも工作していますから、なかなか難しいんですが、レビューの評価が絶賛と酷評にきれいに分かれるときには、9割がた酷評の方が正しい、と私は考えています。星4と5ばかりという映画の場合、個人の好みの問題は別として大抵見れる作品が多い。
- 自分の興味のある映画。クズと感じた思いを誰かと共有したい、もしくは自分が絶賛している映画って他の人はどう感じているのだろうとチェックを入れてみたい
そんなときにヤフーとかピア、DVDの場合はアマゾンで調べてみるのですが、
頭悪いやつって、トコトン悪いんだなと実感させてくれるレビューの多いこと多いこと。
自分の都合からたまたま生じた好みについてありきたりな表現で300字くらい書いてみたところで、他人に何の意味もないだろ。
便所の落書きと大差ないのだわね。そういうのコミュニケーションの内に入るのか?と思うんですよ。
レビューかいてるヤツがどんなヤツかなんてほかの人にとっては全く分らない事なんですから、そんなヤツが気まぐれに好きだ嫌いだといったところで、どうでもいいことなんですわ。
どうでもいいと思われたくなかったら、どうして好きなのかどうして嫌いなのかについて他の人にも分るように書いてみたらどうだ?ってなもんですが、
実はこれってなかなか難しい事なんですわね。個人の人生の経緯からその人の好き嫌いの基準が形成されているので、
例えば『恋する惑星』がどうして好きか嫌いかを述べるには、その個人の基準についてまず延々と語らなくてはいけないのですね。
それやっていないんだったら、そういうレビューは他人にとってはあてずっぽうにマルかバツを選んだようなものです。
意味ないんですよ。
逆に言うと、好き嫌いを言っている人がどんな人物なのかが分っている場合、そういう好き嫌いを述べただけのレビューでもそれなりの社会的価値が生じてしまうものです。
テレビによく出てる映画評論家とかってそういうもんです。
しかし、私が延々と書いているのは、そういうのではなく、
なるったけはっきりした根拠を評価の基準にしようとしている事。そして映像作品の出来というのは、見る人の心にどれだけどういう効果を引き起こせるかに掛かっており、
ここで批評している私というのは、自分にとって一番手っ取り早いその心理的モルモットなのだということです。
自分はこの映画のここでこうイメージや感情を誘導させられるのだから、他の人も似たようなもんだろう。
違いは、私の場合心理学の素養がそれなりにあるので自分の心の動きに対して非常に自覚的であり、世の中のほとんどの人はフロイトの事さえ知らないのが普通であって、彼らは映像作品の仕掛けに着いて無自覚なままであるという点だけです。
『恋する惑星』
私、昔香港に住んでいたこともあって、この映画非常に好きなんですが、
それでもネットで他人のレビューを読んで、ダメなヤツってのはトコトンダメなんだなと改めて感じました。
何か間違って私のブログに足を踏み入れた頭悪い人に対して、とりあえず呪詛の言葉でも浴びせかけてやろうかと、イロイロ書いてみましたが
グーグル検索に即座に掛かるような『恋する惑星』の批評で、あの無茶なカメラワークについて解析している文章一つもなかったです。
正直、まともな意見がグーグルの奥に埋もれてしまい、カスなレビューばかりが目に飛び込んでくるようでしたら、
ネットの検索って立派な社会悪ですわね。
まあそれはいいとして、
『恋する惑星』 その個性的なカメラワークですが、
個性的なカメラワークですが、何を表現する為にそのスタイルを選択したのかがちゃんと映画の中で説明されているという親切な映画です。
その親切さ加減に於いてゴダールの不毛な作品群なんかとは全く違いますし、
似たようなことをやっているようにみえるけど『ほしのふるまち』という超絶愚作とはまるっきり異なります。
映像作品は、カメラによって撮影されたものを観客に見せるのですが、カメラがどのような位置からどのように被写体を撮影したのかの意図は観客が映像の語るストーリーや情感に没頭している時には、あまり気がつきません。
それで知らず知らずのうちに大方のヒトは映像を見るうちに、カメラを管理した者の意図を自分の思考や感情として錯覚してしまうように出来ているのですが、
下條信輔氏の本に書いてあるように、
人間とは何を見るかをまず脳で選択し、自分の興味のあるものを見ているとナチュラルに思いこんでいますが、見ようとする対象の選択は瞬時になすのが普通であり、それがあまりに瞬時であるゆえ、なんとなく目に飛び込んできたものに対しても、それを自ら欲してみていると錯覚するのが常であるとのこと。
つまり強制的に何かを見せる事が出来るならば、その人の感情や思考をかなりの部分までコントロールできるらしいということなのですが、
この一見するとヤバイ意見というのがおそらく正しいだろうことは、映画の初期の歴史においてソ連とナチが如何に大きくかかわっているかを考えると納得していただけると思います。
『恋する惑星』クリストファードイルという個性的なカメラマンの作品なのですが、手持ちカメラで手ブレも恐れずぶんぶん画面を左右に振り回しているという印象ですが、確かに見ていて船酔いするほど画面が揺れる箇所も多いのですけれど、全てがそのような方針で撮影されているわけでもないのですね。
普通に安定した画面をつないでいる箇所も多いですし、またドイルと王家衛は個性的な映像作家ですけれども、全ての作品でこのような船酔い撮影を行っているわけではありません。
以前私は、カメラが手ブレしたりせず安定した映像を写し、それぞれのカットのつながりに必然が感じられる時には、観客はカメラや編集の存在を忘れてしまう、それはあたかも健康なヒトが胃や腸の働きを日ごろ気にも留めていないということに酷似していると書いていますけれども、
普通は、手ブレしたり画面が揺れたり、画面が傾いたりすると、観客にはカメラの存在、そしてカメラを操作する人間の存在をいやおう無しに認識してしまうものです。
素人のホームムービーみたいなものは、誰が取ったのか何の為に撮ったのかが瞬時に分るのですが、プロの撮影した観光番組というのは、撮影者の存在は黒子に徹しており、見る人はそれをヴァーチャルな観光体験と感じることを目的とされています。
ただ、しかし、特定の目的のために、本来ミスとされる揺れ、ブレ、傾きなどを使用し、それがツボにはまると特異な心理作用を見るものに及ぼし、観客はみんなまんまと騙されてしまいます。
私以前香港に住んでいましたし、重慶マンションも一応知っていますけれども、そこを根城にしているのインド人社会の生態って全然知りません。ましてや、そこで行われているかもしれない非合法な商いの事なんて何も知りませんし、多分普通の港民も知らないでしょう。
そんな理由もあるのでしょう、インド人のコミュニティーに潜入するルポ風に小型カメラでぐんぐんと彼らの中に入っていきます。
ドキュメンタリーというのは、大抵がヤラセの要素を含んでいるのですが、それでも映画の撮影のように一つの場面をいくつかのカットに分割し、同じ場面の演技をなんども役者に強要して複数のアングルのカットを組み合わせていくということまではしないでしょう。
普通はカットをつないでいくのではなくカメラが動く事で映像は見るものの興味の流れを表現してゆきます。
逆に言うと、カメラが動く映像はドキュメンタリーっぽいと私達は思ってしまうのですね。
港民にとっても珍しいインド人コミュニティーの生態を相当にやんちゃなドキュメンタリー風で映していますが、感心するのは画面は揺れるけれど、手ブレはしていないということ。
その点で超絶愚作の『ほしのふるまち』とは違います。あの映画の手ブレはひどかった、本当にひどかった。
また、カメラを移動させて観客の興味を引く対象を次々と動かしていきますが、カットでつなぐことももちろんやっています。
麻薬の密輸を重慶マンションに住む身元不詳のインド人にやらせようとするシーンですが、麻薬を隠す場所として靴底に隠しスペースを作り云々と言うシーンです。麻薬密輸のドキュメンタリータッチといっていいのかもしれませんが、
出来上がった靴を職人がポンと机の上に置くときに、カメラ逆さになっています。
なんちゅうヤンチャな表現なんでしょう。
こんな事やる以前に相当に画面揺らしていますから、ついでにもう一つ無茶やっちゃおうぜって勢いが満ち満ちているというか、
どうせ、変なカメラワークだって言われるの分ってるから、このくらいの事もやっちゃおうか、って言う開き直りのようにも見えます。
インド人をドキュメンタリー風に追っかけてみたから、そういう撮影スタイルになっているということですが、
それはあくまでも二次的なものであり、本当は、この荒々しいというか粗野な撮影スタイルと言うのは、時間に追われるブリジットリンの焦りとシンクロしているのですね。
インド人がいない場面でも、ブリジットリンの歩くシーンをカメラがどたどた追っかけていきます。まるで芸能人の追っかけみたいな撮影方ですが、
これが、いくつもテイクとって編集するなんてまどろっこしい事やってられねぇ、時間がたりねぇって気分として伝わってくるですね。しかしながら、普通に物語のストーリーと情感を追っかけている映画ファンに伝わるメッセージとは、撮影している方の気持の方よりもブリジット・リンの焦りのほうなのです。
『恋する惑星』は二部構成のオムニバスですが、最初のエピソードよりも二つ目のエピソードの方が人気なんですが、その理由は、話が分りやすいからだと思われます。
第一部のほうは、なんでカメラをあんなに揺らすのかについての説明がちょっと分りづらいのですね。
もう一箇所カメラが揺れる場面がありまして、ブリジットリンを幸運にもホテルに連れ込んだ金城武が、ただただ紳士的に彼女を扱い指も触れなかった。その上ネクタイで靴まで磨いて上げる。
その時のホテルの中での金城武の動揺、つまり見ず知らずの美女と一緒にいてどんなことだって出来るかもしれないのに、と考えてしまうことから来る動揺をカメラの揺れとして表現しています。
尤も、彼は性欲を満たす代わりに食欲で代用してしまいますが。
なんで彼が失恋した後パイナップルの缶詰をガツガツ食っていたのかの理由もきっとそうなのでしょう。
結局二人は互いの事情を何一つ知らないまま別れます。ブリジットリンが命がけで香港を駆け回っていることなんて金城は全く知りません。
でも、二人はカメラの揺れで表される心の動揺によって繋っていたわけです。理由は全く異なりますが、互いに同じ夜に同じようにドキドキしていたのですね。
だから、ダメな観客が感じるよりも、二人の出会いとは宿命的で強いものなはずです。
この缶詰のエピソードが種明かしなのかもしれませんが、期限があるということ、つまりこの映画の3年後に香港が中華人民共和国に返還される期限の象徴、もしくはあの時の香港の空気をこういう形で表現したという事なのでしょう。
しかし、68年6月4日っていつの話だ?
ブリジットリンの方のタイムリミットには物語的な必然がありますけれど、金城武のこだわっている賞味期限ってのは、香港の返還にまつわる狂騒的な状況を考慮してあげないと、さすがに理解不能なエピソードではあります。
みんな97年の7月までに何とか外国籍や永住権の獲得に躍起でしたし、香港に残る人たちでも、そういう事情から来る商売チャンスなどから躍起になっていました。
みんながみんなイギリスの植民地としての香港の賞味期限にこだわっていたわけです。
10人に1人の港民が外国に脱出しましたが、当然香港に居残る人たちも大勢いました。
映画の中ではブリジットリンが香港を去り、金城武が香港に残ります。
トニーリョンとフェイウォンの第二部のほう
第一部よりも遥かにカメラはゆらゆら異様な動きをしますが、その動きとは、人間の視点の移動という類のものではなく、虫か何かが人の周囲をぶんぶん飛び回っているような動きです。
ただしかし、第二部のほうはもっと遥かに分りやすい説明がされています。
虫が飛び回っているようなカメラワークは、飛行機目線ということを物語のはじめの方で種明かししてしまいます。
トニーリョンの彼女がスッチーで、フェイウォンも最終的にはキャビンアテンダントになるということから、飛行機の存在が登場人物たちの心に強く影響しているというのが表の理由なのでしょうが、
歴史背景を考えて見ますと、登場人物たちが飛行機に乗っているような気持で返還前の数年間を過ごしていたという心象風景を表しているものと思われます。
香港の町の成立背景を考えてみると、共産党革命を嫌ってイギリス植民地に逃れてきた人たちの難民キャンプのような場所であり、彼らにとって香港とは永住する場所ではなかったのですね。だから香港での生活というものは、暫定的なものであり、極論すれば飛行場の待合室での生活のようなものに過ぎなかったはずです。
まあ、中継ぎ貿易を主要産業とする無関税地区ですから、香港中の商店は免税店ですし。
ここは自分達の本当の居場所じゃない。ここは自分の故郷じゃない。
そういう思いはつらいことなのかもしれませんが、しかし、出て行きたいときにはいつでも出て行く、そういう軽やかさがあるのですね。
そういう思考パターンの人たちの集合体が香港という都市だったのですから、自分の人生を変えたい、何処か別のところに行って別の人間になりたいという万人に共通する夢想というものが、香港では一ランクも二ランクも現実に近いんですわ。
とくに、全港民が移住を考慮していた時代というのは、そういう夢想に都市が丸ごと満ち満ちていた時代であり、香港から出て行くこと=飛行機に乗る事がいつも港民の心の中にあったのではないでしょうか。
第二部では香港を離れるのはフェイウォンであり、香港に居残るのはトニーリョンのほうです。
しかし、第一部のブリジットリンとは違い、フェイウォンはいつでも香港に戻れる一番都合のいい立場にとどまります。
ある意味、それが当時の港民の夢のポジションだったのでしょう。
安全のために外国に籍を移し生活の基盤を築きはすれど、香港とはしっかりと繋がったままでいたい、そういうこと。
映画を画面だけから見ろ、みたいなことを言う人がいますけれど、
たしかに政治思想から画面を見ずに映画の価値を判断するような態度よりかは遥かにましですが、
映画が作られた状況を無視すると、ある種の映画って価値を失ってしまうのですね。
逆に言うと、香港返還という10年20年に1度の歴史的イベントの心象風景をしっかりと残した事で『恋する惑星』には特別な価値があるように私は感じるのです。