なんか重要なことがわかった気がする。
ここ数年間、「もう映画は終わりなんじゃないか」と思い続けてきたんですが、
むかしって、八十年代とか七十年代って、映画をみんなでお茶の間でテレビで見てました。
民放五社がそれぞれ夜の九時から映画を放送し、どの映画も視聴率十パーセント越えてました。
そして、人気作品が掛かる場合、一か月くらい前から番宣CMがバンバン流れ、皆楽しみに『ジョーズ』とか『エマニュエル婦人』の放送を待っていたもんです。
さっき調べてみたら、そういう超人気作で視聴率三十パーセント、
そこまで人気作でなくとも『エイリアン』の一作目くらいなら、二十パーセントとってました。
それが、ビデオレンタルがはびこり、そのうえ衛星放送やケーブルやネットが普及して映画の見方が多様になると、
テレビ地上波が二十パーセント以上のしちょうりつをあげるというのは、定番アニメ以外には無理になってしまいました。
つまり、一般人がだれでも知っているような洋画って、世の中からなくなってしまったんですよね。
「映画館での観客動員が1000万人越えた大ヒット」って言っても、
ほかの人たちは一切見ていない、見る気はおろかその映画の存在さえ知らない、
そういう世の中になってしまいました。
昔だったら、水野晴夫や淀川長治の時代でしたら、今の動員一千万の大ヒット作よりもなんということもないB級映画がテレビで多くの視聴者を引き付けていたわけでして、
今の作品って、ほんと、タコつぼ化してますし、タコつぼ化した状況下で進化続けるわけですから、もう離脱してしまった人たちにとってはまるで興味の持てないものになってしまいました。
この傾向って、つまり映画の供給ソースが多様化しすぎて、みんな勝手に自分好みの映画だけ見てるうちに、万人向けの映画が子供向けのアニメくらいしか存在しなくなったってのが、日本だけのことなのか、世界あまねくいきわたってことなのかは、まだ自信持って言えませんけど、
エイリアンシリーズのこの末路を見るにつけ、
もう映画って死んだんだ、とっくの昔に死んでたんだってことの理由はそんなところなんでしょうか、たぶんそうなんでしょうな。
ついでに言いますと、コヴェナントには一作目のオマージュシーンがいくつも出てきて、
男女ペアがあられもない全裸でしゃーわー浴びてるところをエイリアンに血祭りにされるシーンがその一つなんですが、
全くスリルがないのは、まあいいとして、
昔って、女の人の裸って、動いている裸って、今の様にいくらでも見れたわけじゃなかったですから、
一作目のシガニー・ウィーバーの半ケツはそれはそれはインパクト強かったです。
映画がつまらないものになっていった、って理由には絶対これがあると思います。
むかし、むかし、映画は女子の裸を見るための貴重な方法でした。これは見る側だけでなくとる側も十分に分かってましたから、そこ効果を引き立たせるために尋常ならざる努力が注がれたのですが、
今となってしまうと、女の裸映像なんて何も珍しくもなく、勃起もしません。
コヴェナントのつまらなさの原因は他にもあります、SF的な今まで誰も見たこともない映像画像を人に初めて提供するのが映画の役割だった時代が終わってしまうたいまとなっては、
コヴェナントの画面って、なんかゲームみたいだとかテレビCMみたいだとかそんな気しかしないんですよね。
それにもうどんなSFの設定聞かされたところで、現実のコンピューターの進歩に負けてるわとしか思いませんし。
ああ、そうか、かくかくしかじか映画の社会的役割ってすっかりやせ細ったんだな、って理解した次第です。
そういや、リドリースコットって『闇の奥』の映画化を望んでて、それがかなわなくて『デュエリスト』でお茶濁すんですけど、
エイリアンのアンドロイド、ブレードランナーのレプリカントのセリフって『地獄の黙示録』のカーツ大佐とほとんど同じなんですよね、
んで、コヴェナントでは、現地人の屍類類の中に一人で住んでるアンドロイドが『地獄の黙示録』のカーツ大佐と同じノリなんで、笑えました。
なんか、もう映画には、人をまじめに考えさせる力もなくなったんだろうなと思いました。
つうことで。