- 作者: 塩田明彦
- 出版社/メーカー: イースト・プレス
- 発売日: 2014/01/22
- メディア: 単行本
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もし中二の時に、今と同じくらい映像作品のカラクリについて理解していたなら、自分は映画監督目指してただろう、
そして、映画女優と結婚して離婚して、また映画女優と再婚して…という人生突き進んでただろう、
とか一人で妄想して楽しんでいるんですが、
塩田明彦『映画術』はアテネフランセで行われた講義を本としてまとめたもので、
本来、映像の仕事に就くことになる20歳くらいの人のための内容なのだと思います。
こういう知識を中二の時に知ってたら…、といういたたまれない気持ちからこのブログは書かれているのですが、
もし仮に、中二の時に 授業形式で映画監督の人から教わったとしたら、すんなり納得できたものなのでしょうか?
若い時ほど、年長者への反抗心に満ちていますから、
聞き流したり、理解することを拒んだりしてたかもしれません。
それに、若い時、仮に中二の時にこういう話を聞かされたとして、
それまでに見てきた映画の絶対数が少ないですから、
「どういうカラクリによって、どういう風に心情を操作されたか?」の、心情が操作された経験数が足りないだろうから、
それこそ、薄っぺらいマニュアル的に理解してしまうかもしれません。
結果として、マニュアル的な薄っぺらい映像作品しか作れなくなって、橋本愛はおろか松岡茉優からも相手にされず、ずっと6畳共同玄関の木造アパートの契約を更新し続ける人生となる、かもしれません。
そして、最近の映画とかドラマは、この手のマニュアル的な傾向が強いように思われます。
塩田明彦 『映画術』一回 動線
正にこのことについて、この人の意見を聞きたかった
私にとってはそういう本で、そういう章であり、
数行読んでは、物思いに浸り、次の数行読んでは、今まで見た映画のシーンを思い浮かべ、…
そういうことを繰り返しつつ、夢中というか半分妄想の中に浸りながら、半日かけて読み終えたのですが、
「ロケの下見をするとき、一番のポイントは、その空間で役者がどんな動線を描くことができるか」
こんな言葉を見つけて、私は目の前にお花畑が広がったように感じたりもするのですが、
それで、一回で例題映画として用いられている『乱れる』成瀬巳喜男の作品をツタヤに借りに行って、みるのですが、
画面の動線 について解説するならもっといい作品があるのではないか?と感じる次第です。
そして、もし、私が講師だったら、こんな風に授業してるでしょう。
もし、塩田明彦『映画術』 第一講・動線 の代講を頼まれたら
はい、それでは、ここから授業を始めます。
こうやって二枚並べて見ますと、きれいに左右対称をなしております。
「あなたは右に、私は左に…」って感じなんですが、
「どう考えても右翼の作った『宇宙戦艦ヤマト』が左を目指すのはおかしいんじゃないか」とか思われた方もいるでしょう。
「もしくは、二本とも宇宙を子宮になぞらえて、宇宙船を精子か男根のようになぞらえた映画だよね」と思われた方もいるでしょう。
大抵私たちは、映画を語ることをこんな風にやってしまいます。
すぐに、政治的心情を語ったり、映像の裏にあるメッセージは何だ?とかこれは何の比喩だとか語ってしまうんですが、
ヤマトって左に進むんです。ディスカバリー号って右に進むんです
まず、このことをもっとちゃんと見てください。
ストーリーをまとめたり自分の感情について語る前に、もっと画面を見てください。
映画の画面は、
人や物が左右のどちらかに進むことを前提として構成されています。
そして映画の目的地は、左右の端っこにあると設定されています。
ヤマトですと、左にどんどん進んでいったら目的地に至りますし、
ディスカバリー号でしたら、右にどんどん進んでいったら目的地に至ります。
さらに言うと、
これは個別的なことではなく、
日本映画は ← 方向に進むものですし アメリカ映画は → 方向に進むものです。
映画の画面は進行方向をあらかじめ規定しています。そして日米ではその方角が逆になります。
「何を言っているのだ?あなたは」と思われたかもしれませんし、
「それがどうした?」とまるで驚かれない方もいるでしょう。
どちらの反応も正しいと思います。
このような恣意的な画面の進行方向の操作は、見ていて露骨にわかるようではだめなんです。
無意識的に受け止めるように仕組まれていますから。
そして、無意識的にも理解できるように極めて単純な理屈で成り立っております。
いったいいつから映画はこんなカラクリを裏に隠していたのか?という事ですが、
『月世界旅行』 メリエス
映画ができたばかりの時代の この短編映画は、画面向かって右側→に月世界があると想定されています。
そして、そこまでの行程は → 向きの移動で表されており、
そこで、月世界の蛙飛びする住人に出会って、命からがら戻ってきます。
月からの帰還は逆の ← 向きの移動で表されています。
はっきり申しまして、この理屈は、小学校低学年でも思いつく理屈ですから、
「映画はこんな風に画面を構成していますよ」と言われても「で、…」としか思われないでしょう。
『宇宙戦艦ヤマト』
目的地に向けて船が進むときは 日本映画では ← に進みます。
そして搭乗員の顔の向きは、ヤマトの進行方向にそろえられます。
船と人を別々のカットで描いているにもかかわらず、こうすると船と人が一緒に進んでいるように感じやすいのですね。
ヤマトが → 向きになるのは、ピンチを迎えたとき。つまり敵の攻撃が激しすぎて、イスカンダルを目指す航行が妨害されたときです。
そしてガミラス側はそれを阻止したいのですから 敵の船、敵のキャラは → 方向が普通です。
いったいいつから 映画は こんな風に画面を作っているのか?という事ですが、
『オズの魔法使い』 1939年
西遊記と粗筋が似通っていることが指摘される『オズの魔法使い』ですが、エメラルドシティーという目的地へ向けて、→ 方向へどんどん進む映画です。
アメリカ映画ですから、移動の方向が ヤマトとは逆になります。
ドロシーが竜巻に飛ばされる前、『虹の彼方に』を歌うシーンですが、ジュディ・ガーランドが歌いながらどこを向いているのかに着目しますと、
虹の彼方は → の方向にあるらしいことが分かりますし。
前向きな心情で虹の彼方を見据えようとするとき、彼女は→を向いているように見えます。
また、
← を向くと弱気になっているように見えますが、このことから画面上の方向が単に移動の方向を示すだけではなくて、感情表現としての演技の役割さえ担っていることが分かると思います。
「なるほど、映画の演技ってこういうもんなんだ」と納得させられることしきりですし、
現在の映画は、基本的にこういうものです。
そして、青い鳥が飛んでいく方向を 目で追うところで、この歌は終わるのですが、どうやら青い鳥は 空を回って、 ← 方向に戻ってくるのですね。
結局 『青い鳥』つまり幸せの比喩ですが、それは家以外のどこにもない、という事が、さりげなく序盤において示されていると考えられます。
それではこちらをご覧ください。
セシルBデミルは1923年と1956年に『十戒』を発表しております。
サイレント版のほうは、長いです。そしてオムニバス形式で前半がモーゼの話、後半が現代劇です。
そういえば『イントーレランス』もこんな構成でしたね。
サイレント版は長いので飛ばし見して、リメイクの方は予告編ですからささっとみてください。
二本には大きな差があります。
一本は白黒のサイレントフィルムであり、もう一本は音声と色彩が付いた現在と同じ形式の映画です。
二本見比べてみると、サイレント映画は映画とはいえども、現在の普通の映画とは全く異なる表現であるのが分ります。
台詞無いですから、大げさにパントマイムで演技しないといけないですし、
さりげない通行人がキーになるようなことをボソッとつぶやいたりもしません。
色彩ない上に感度が悪いですから、主要人物目立たせるために大仰なメイクしたり特異な衣装を着せたりしないといけません。普通にしていたら女の人みんな同じ顔に見えてしまいます。
だから登場人物に於いて個々の区別をつけるには、衣装と美形かブサの区別だけです。
そして、
台詞無いのであまり細かい話をすることができません。だから話に膨らみを持たせるために、似通った構造の別のエピソードをくっつけて、その行間を読ませることを観客に強いている訳です。
でも、
もっと単純にこの二本を比べてみると、面白いことが分ります。
ユダヤ人がモーゼに導かれてエジプトの都の門の外に出るシーンですが、
二つの映画では、ユダヤ人の向かう方向が逆になっています。
いっぽう56年版では→の方向、現在のアメリカ映画の進行方向。
アメリカ映画では 『十戒』の一作目が公開された1923年には、目的地を目指して→方向に進むことが、当たり前のことではなかった、ことが分かります。
また、画面上の向きに一貫性を持たせることも成されていなかった。
モーゼを追っかけるはずのチャリオットが、モーゼを追っているのかそれとも行く手を阻もうとしているのかが分かりません。
むろん、画面の方向に役者の演技も統一させることで、内面表現にしようという発想はどこにもありません。
『宇宙戦艦ヤマト』ですと、続編、続々編、リメイク、実写化と後続作品が山のようにありますが、すべての作品で、目的地への航海は ← 方向で描かれています。
これは、『宇宙戦艦ヤマト』の第一作ができたころには、日本映画は画面を←方向に進めるが既に当然で今も続いていることを示しています。
こういうことを考えますと、サイレント期からバリバリ仕事してきた日本映画の巨匠の表現というのは、
世界標準的な映画と比べると、どこかずれていると私には思われます。
今現在の世界の映画は、だいたい『宇宙戦艦ヤマト』的に画面が構成されますが、サイレント期に名声を確立した巨匠たちは、戦争の時期にはアメリカ映画からシャットアウトされますから、ずっとサイレント版の『十戒』のような画面の構成を行っていたのではないでしょうか?
小津安二郎の表現というのはまどろこしいというか、分かりにくい。
そして、そのまどろっこしさがストーリーの煮詰まらなさ加減と対応しているからいいのかもしれませんけど。
それとくらべると、
黒澤明のように、戦後に名声を確立した人の映画はアメリカ人が見ても分かりやすい。
この映画、『宇宙戦艦ヤマト』を見るときと同じ発想で見てみますと、単純なことに気が付きます。
映画の前半で打ちひしがれた志村喬はほとんどの場面で ← 方向にとぼとぼと進んでいます。
それに対し、
映画の後半では決然と → 方向に進んでいるシーンがほとんどです。
『生きる』は、どこか目的地に向かう映画ではありません。
もっとも車や徒歩での移動シーンはかなりあります。
そして、それらの →方向への移動は何所へ向かっているのかというと、 「生きる」事へと向かっています。
そして、逆に ←方向は 「死」に直結しています。
物語がどこからどこへ向かうという目的地を持たぬとしても、大抵は 何かの目的を持っています。
そして、その目的の実現に近づくこと、遠ざかることを、あたかもヤマトがイスカンダルへ近づくこと遠ざかることと同様に描いています。
そしてもう一つ言っておきますが、
日本映画でも、以前は 画面の進行方向は →とアメリカ映画と同様でした。
ここで、まとめてみますと、
- 現在のアメリカ映画は → 方向に進む
- 現在の日本映画は ← 方向に進む
そして
画面の進行方向意識が一般化したのは、1930年代から
日本映画では、戦前戦中とアメリカ映画の輸入が途絶えますから、画面進行方向の意識はアメリカ映画よりもかなり遅れて取り入れられます。
そして、戦後の映画は → とアメリカ映画と同様に進行しますが、60年代から70年代にかけて ←方向に変化して今に至ります。
簡単にいうと、
アメリカ映画は →方向に進み
昔の日本映画は → に進むが 今の日本映画は ←方向に進むという事になります。
志村喬が小田切みきに、どうしたら生きることに喜びを見出せるか教えてほしいと懇願する場面です。
この場合、物語の目的は、→側に待っています。
そして、
誰かに向かって「何のために生きていけばいいのか教えてほしい」なんて尋ねることの困難さ、そしてそう尋ねられる才の当惑、
これは、ほとんどの人が理解共感できるのではないでしょうか。
だから、志村喬は、なかなか口に出せないのですが、
その居づらさ、困難さを 画面で表現すると、このようになります。そして図形的に還元すると四本のベクトルになります。
「このくそ忙しいのに、陰気な爺に呼び出されて、とりあえずおしゃれな店に来たけど、こういうところは恋人と一緒に来てこそ価値あるのに、ああぁ」という小田切みきですが、
このシーン、
イスカンダルに向けて進もうとするヤマトをブロックするように 三隻の軍艦が対峙している。そんな風に見えないでしょうか?
また、時に、映画の画面はサッカー中継の画面と酷似することになります。
これでは、ハーフウェイラインの奥に押し込まれ、ペナルティエリア付近で数的優位まで作られた画面を思わせます。
サッカー的にいうと、守備側はかなり劣勢を挽回したという事になります。
物語上においても実際そうで、一対一で本質的な話をするにふさわしい状況に近づいているのだから、目的に近づいているはずなんですよね。
でも、表面上そういうことをなるべく観客に悟らせまいとして、小田切みきにここであくびさせたり、ものすごくきついことを言わせたりします。
客観的状況判断では志村喬は負けるしかないのですが、ただし、彼は主役であり、彼が癌である事を上手く伝える事が出来たら、状況は彼にとって一気に逆転する可能性がありますが、ただ、彼は口下手です。
本来同情されてしかるべきなのに、あまりの薄気味悪さゆえに、左右の位置が入れ替わってしまいます。
サッカーの画面的に解説しますと、相手にボールを取られて追っかけるシーンに似ています。
自分はゴールの方向を向くことさえできないのだから、得点する可能性は後ろを向いている限りゼロです。
まず、ボールを奪う事、つまり →方向を向くことから始めなくてはなりません。
「こんなもんでも、作ってると、世界中の子どもたちとつながってる気になれて楽しいわよ」
このウサギのおもちゃがトコトコ歩き出すシーン。
仕事という形で、何かを伝える、残す。そういうことに思い当たって、はじかれたように席を立って行ってしまうのですが、
この時点では、観客も「どうして?」かよくわかりませんし、小田切みきのほうも「どうして?」かはわかりません。
ただ、画面を見ていて、感じることというのは、
→方向に進むことが、物語の目的を叶えることにつながるのですから、→方向に進む物は、猛烈にポジティブなオーラをもっているのです。
結果、志村喬はこのウサギをつかんで さっきのうさぎの動きをなぞるように→方向に進んでいきます。
ここで重要なことは、
私たちの日常生活感覚では、ウサギのおもちゃは大して大きいものではありません。
でも、スクリーンに全長5メートルくらいに大写しされているんです。
じゃあ、このウサギは大きいのでしょうか、小さいのでしょうか?
映画は、画面を右側と左側の押し合いへし合いで構成するのですから、画面上の巨大なものが→方向に動いたなら、
→側が一気に優勢になったように見えてしまうものです。
こういう画面上の理屈というのは、私たちの現実的実感とはズレています。
そして、このズレというのは、
私たちの内面的世界と 外側の客観的世界のズレにほぼ対応しています。
よく、誰から目線の描写、などという言い方がされます。
これは、結構難しい問題でして、
誰から目線と言いますと、すぐにPOVつまり該当する人物の視覚をカメラで撮影する技法を思い浮かべてしまいます。
アダルトビデオでよく使われる手法で、セックスしている男優さんが見ている光景をそのまま観客に見せることで、観客をAV男優のような気持にさせてしまおうという手法です。
一般映画で言いますと、
私は、『ジョーズ』を思い浮かべるのですが、
裸で泳いでいる女の子を食いちぎろうと近づくサメの光景をそのまま観客に見せています。
この撮影の仕方、非常にスリリングで効果的であり 映画そのものも当時の興収記録塗り替えるような大ヒットだったんですが、
私たち、そんなにサメになりたいですか?
AV男優の体験をおすそ分けしてもらいたいという願望はあっても、人食いザメの体験をそのままなぞりたい男性はそんなにいないと私は思います。
つまり、だれそれの目から見える光景をスクリーン上で共有したから、だれそれと同じ気持ちを共有できるという単純なものではなさそうですし、
だれそれの主観カメラ映像がスクリーン上に映されているから、その人物目線の物語だ、という単純なものでもなさそうです。
ウサギの動きから志村喬は、残りの人生の意味を見つけて走り出すのですが、彼にとってはウサギは霊感を与える重要なものでした。つまり、彼の心の中ではウサギは大きく見えるはずなのです。
そして、私たちは、自分の目でこの映像を見ているように錯覚していますけれども、知らず知らずのうちに、大きく拡大されたウサギを見せられ、志村喬の内面に同調させられているのですね。
カフェで憑りつかれたように走り出す志村喬ですが、
残りの時間に生きる意味があると見出した志村喬の背中に「ハッピーバースデー」の歌声。かなりコテコテなシーンですが、
志村喬の階段を下りているシーンのほとんどは、二階から見下ろしている人たちとベクトルの方向がずれています。
見ている私たちの気持ちとしては、この「ハッピーバースデー」は死ぬ間際になっていき始めた彼の為の歌なのですけれども、画面上ではそう見えないように工夫がされているわけで、
ベクトルの方向が食い違うと、画面上では別の人のためにうたっていることが一応了解はできます。
ここにもズレがあるわけです。
ある種のミュージカルですと、ここでいきなり背景の部外者が「ハッピーバースデー」歌いだすんですが、
『生きる』は一応リアリズムの映画なので、
「ハッピーバースデー」は別の人の為という事を説明しなくてはならないのですが、
それをベクトルの方向でやっている訳です。
ウサギにしろ「ハッピーバースデー」を歌う人たちにしろ、主人公が→方向に進めるように援軍として存在しているのが分かるでしょうか?
逆に、←方向のベクトルが画面上に増えると、それだけで主人公がつらい立場にいると私たちは無意識的に感じてしまうものです。
そして、このような映画の見方をしていると、監督が何を狙っているのかがよりはっきりと分かるようになってきます。
例えばこのシーン
五日間続けて無断欠勤して 朝帰りの路上で小田切みきによびかけられる。
「帽子が違うから、別の人かと思ってなかなか声をかけられなかった〜」
と小田切みきの台詞が続きますので、そういう小田切みきの思考プロセスを観客になぞらせるために、まず帽子をアップにします。
「課長さ〜ん」
呼びかけられて、後ろを振り向く志村喬。
そうすると、正面から走って来る小田切みき
「帽子が違うから、別の人かと思ってなかなか声をかけられなかったの」
癌で体力衰弱していて、しかも朝帰りでヘトヘト。でも、だからと言って「課長さ〜ん」と言われて、声のする方向を間違えるものでしょうか? それとも後ろに別な課長さんでもいると思ったんでしょうか? でも 職場の部下の声くらいわかりそうなものでしょ?
おかしいと思いません?
後ろを振り返るシーンを外して、こんな風に構成したらダメなんでしょうか?
黒澤的にはダメだったんでしょう。
←と死の方向に絶望して進む志村喬を →の生きる方向に進ませるには、それなりの手続き踏まないとみているほうは納得できないものです。
小田切みきと一緒に時間を過ごすことで、志村喬は生きる意味を徐々につかんでいくのですが、
この路上での出会いのシーンでは、いきなり人生を変えるようなことはせず、少しずつ何かを変えていくのですが、
小田切みきの路上での出会いが、何か普通ではないとそれとなく感じさせるために、一見すると無駄なベクトルを一つはさんで違和感を出し、そして見るものに何か引っ掛かりを与える訳です。
そして、映画の中では この志村喬の立っている場所と小田切みきの走って来る道路は 同じ一つの道路のように見えるように編集されてますけれども、
実は、全然別の場所でとったものをつなげているのではないでしょうか?
『生きる』では、→の方向の先に生きる意味があることを探求する映画です。
だから、「課長さ〜ん」と呼びかけられたとき、志村喬は 影の中から光の方向を見たのですね。
真っ暗な志村喬にいきなりめちゃくちゃ明るい小田切みきのカットをぶつける前に、
俯瞰的に 光と影の対比を描いています。
そうやってから、めちゃくちゃ明るい小田切みきのカットにつなげます。
「死の絶望の中で、光を見つけた」と説明されたというよりかは、そのような予感を映画の流れの中に見出した感覚を得ることになります。
そして、この説明は言葉で行うのとは違い、無意識的にしか観客は受け止めることができません。
二人が路上で出会った直後、バスが通り、小田切みきが志村喬を路の端に寄せます。
そしてバスの姿が窓に移ります。 その姿は→方向です。
この映画は、→方向に進むことで生きる意味を見出すという画面構成なのですが、
志村喬がそっちの方向に向かえるように、援軍として、雑多なものを→方向に走らせます。
→方向に画面の流れを作るためにガラスに映るバスの影さえも利用するわけです。
これと似たようなことをしている映画がありまして、
「害虫」塩田明彦
行き詰っていく主人公・宮崎あおいの運命を →方向の車の流れで表現しています。10台以上の大型車がこの方向に流れ続けます。
『生きる』のころとは日本映画の画面の方向が入れ替わったので ポジティブ方向とネガティブ方向が逆になっています。
では、
これはどうでしょう?
「つまらないから、今の仕事辞めるんです。だってこの五年間で何か変わったことって、課長さんが無断欠勤したこととその新しい帽子だけ」
この時、あんまり合理的な意味もなく小田切みきが電柱に手をかけてくるりと方向転換します。
そうすると、後ろに子供たちが →方向に走っていきます。
これも、→方向の援軍です。
その新しい帽子、
「第一あなたの古い頭を切り替えるために新しい帽子買った方がいいんです」と無頼作家に言われて買った帽子ですが、
帽子買った時に、主人公は半分生まれ変わったわけです。
そして、残りの半分を生まれ変わる為に女の子に土下座しないといけないのですが、
先ほどまでの夜遊びとは、残りの貴重な時間と体力を無駄にしたように見えるかもしれないですけれども、
新しく人生の方向を組み替えるための必然的な「堕落」だったとすると、まったく無駄ではないのですね。
そして、そのことを示すように、「帽子が〜」の台詞にあわせて背景に子供たちが →方向に走ります。
黒澤明は、援軍ベクトルとして子供を →方向に走らせることを他の映画でもやっていまして、
『八月の狂詩曲』
ハワイの米国籍の親戚が、自分の誤解していたような人とは違うことを知り、その喜びを祝福するように 子供たちが→方向に走る。
そういえば、さっきの「ハッピーバースデー」のシーンともよく似ています。
映画は、肯定しようとする価値観の背景で ポジティブ方向のベクトルを発生させることを長らく行ってきました。
このような技法は、芸術の名においては素晴らしいことなのでしょうが、
洗脳・価値観の刷り込みとみなすと、たちの悪い洗脳行為なのですね。
今現在もいたるところで行われていることですけれど。
画面を進行方向のベクトルとして抽象化する、そういう技法に遅れて参入した日本映画が、その効能を骨までしゃぶりつくそうとした映画が『生きる』なのではないか?私にはそんな風に思えて仕方ありません。
では、
これはどうでしょう?
辞表の書類に判を押してもらうために、志村喬の家に来た小田切みき。
明るい窓の外を見る。
その方向は →とポジティブ。
この映画では →の方向を 生きるための方向であり、光の所在であると描いています。
別に小田切みきが何を見ているのかは全く説明されません。
ただ、明るい方向を向いていることが描写されているだけです。
だから ← の方向はネガティブな闇であることが察せられるのですが、
この賞状は、おそらく、皆勤賞か何かだと見ていてピンと来ます。
そしてそのことが台詞で説明されるのはしばらくたってからです。
『生きる』では、
画面を ← → の二方向で切り分けています。そしてこれは現代の映画の主流です。
そして →の方向をポジティブとし、その方向を 生きること として 光のイメージを重ねています。
私は、これと同じ画面構造の映画をもう一本知っています。
『シンドラーのリスト』
生きる方向 → に光を重ねています。
皆さんもご存じのとおり、スピルバーグは世界一有名な黒澤明のフォロワーですが、
『プライベートライアン』が『七人の侍』からパクっているというのは、見れば誰でもわかるのですが、
それは、粗筋をパクっているからパクリだとみなされるわけで、
画面上のベクトルがどうのとか、画面上の二項対立をどう仕分けるかという事をパクる分に関しては、
誰も何のお咎めもありません。
これは、音楽で、メロディと詞をパクると著作権侵害とみなされるのに、リズムとコード進行をパクる分には何のお咎めもないのと似ています。
よくよく考えてみると、おかしな話ですけれどね。
もしかすると、こんな理屈なのかもしれません。
映画画面の動線やベクトルは無意識的にしか感知できないものですし、音楽のコードやリズムも詞やメロディと比べて無意識的に感知してしまうものです。
つまり私たちは、自分の無意識を自分のものと主張する権利を与えられていない。
『生きる』の話に戻りましょうか。
今回、映画のシーンをキャプチャーして、それをもとに映画について語っているのですが、
本来映画はこのような形でしか語ってはいけないと私は思うのです。
でも、普通は、映画を粗筋に要約し、それについてどうのこうというものですね。
そして、それはあまりいい方法ではないということをウィキペディアに掲載されている『生きる』の粗筋を参考にして語ってみましょう。
「ある日、体調不良で診察を受けた渡辺は自分が胃癌だと悟り、余命いくばくもないと考える。不意に訪れた死への不安などから、これまでの自分の人生の意味を見失った渡辺は、市役所を無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよう。そんな中、飲み屋で偶然知り合った小説家の案内でパチンコやダンスホール、ストリップなどを巡る。しかし、一時の放蕩も虚しさだけが残り、事情を知らない家族には白い目で見られるようになる」
『生きる』の前半部でいいますと その前半分は無頼作家と歓楽街を練り歩くシーンが続きます。そして後半分は小田切みきとのはなしですが、
あの無頼作家、どう思われました?
自分で自分のことをメフェフィストつまり悪魔と言っていますし、黒い服着て夜の世界を渡り歩きますので
本当に悪魔なのかなと思ったりもするんですね。
その後の小田切みきが明るい光の中で天使の役を演じていますから余計にそう思えてしまうのですが、
本当にそうなのか、と言いますと、どうなんでしょう?
「一時の放蕩も虚しさだけが残り」とウィキペディアには粗筋がまとめられていますが、そうまとめてしまって本当にいいのだろうか?という気が私にはします。
私にしたところで、この粗筋のような簡便な形で『生きる』のデータを頭の中にしまい込んでいまして、
先ほど、見直してみると、かなり印象、とくに無頼作家のエピソードの印象がずれているんですよね。
胃癌で吐きながら酒を飲んでいるので体調不良のはずなのですが、基本的に夜遊びしている志村喬、すごい楽しそうです。
あの様子を見ると、「一時の放蕩も虚しさだけが残り」という感じには全く見えません。
遊び足りなかった人間が、遊びの楽しさを知って本当に楽しんでいる様子が、見ていてうらやましいくらいです。
特にあのストリップでの盛り上がり具合は、残り少ない時間を無駄にしているという感じでは全然ないですね。
私は昭和20年代の夜の歓楽街の描写に無茶苦茶興味があるんですが、撮影した方だって、あそこにむなしさよりも楽しさを描こうとしていたのが、私には分かります。
残り少ない時間と体力を無駄に浪費させた悪魔のように見える無頼作家ですが、
めちゃくちゃ善人なのですね。
むしろ、何かこズルいところの描写でもあった方が、見ていて安心できるくらいです。
例えば、酔った志村喬の金をくすねるとか、寄生虫のようにむしり取るとか、 または、小説のネタにするために面白がっているだけだとか、
でも、そういう描写ないんですよ。
ダンスホールで『ゴンドラの唄』を歌って気味悪がられるシーンですが、
この後、無頼小説家はちゃんとフォローして志村喬を負ぶって外に出て、次はもっと明るい店に連れていきます。
この後の小田切みきと比べても、いい人すぎるくらいです。
「第一あなたの古い頭を切り替えるために新しい帽子買った方がいいんです」と無頼作家が買わせた帽子、
それと、
小田切みきからいただいてきたウサギ、
結局その二つが彼の遺品になります。
ウサギの隣には 止まってしまった時計。もう生きる時間が終わったことが示されているようです。
なぜ無頼作家かというと、
よく生きるためには、一度ちゃんと堕落しなくてはいけない、という坂口安吾的なメッセージが込められているようであり、
無頼作家と一緒に夜の街に繰り出したことは、決して時間の無駄ではなかった、ことがこんなところではっきりと示されています。
そして、無頼作家と小田切みきのエピソード、いろいろな点でよく似ています。
小田切みきとのシーンは「ハッピーバースデー」の歌で終わるのですが、
無頼作家のシーンも「come on my house」の歌の後ほどなくして終わります。
体調を崩して、吐き気をこらえてタクシーに乗っているそばで、夜の女たちが景気づけに軽薄な歌を歌っているシーンですけれども、
これは志村喬の悲しさを表現するというだけでなく、
この後のシーンで小田切みきを自分の家に連れていく、という展開に実はちゃんとつながっています。
また、ストリップであれだけ盛り上がっていたから、若い女の子に土下座してでも人生の意味を尋ねてみたくなったというのも話の流れとしては、自然なものです。
つまりこういうことが言えるでしょうか、
無頼作家は悪魔で小田切みきの方は天使、という事ではなく、二人とも天使であり、
『生きる』の前半部は、自分が天使であることに気が付かないまま生きている人たちの物語と言えるのかもしれません。
これは、自分が天使であることを知りながら周りの人たちはその存在が分からない『ベルリン天使の詩』の逆ヴァージョンなのかもしれません。
小田切みきに人生の意味を教えてほしいとお願いするカット。
共によく似ています。
また、『生きる』では →の方向に生があり、光があるのですが、
←の方向は 死です。
死を間近に迎えた志村喬の必殺技というのは、自分の中にとりついた死を相手に見せることで、
そしてその顔を見せられた無頼作家は慄然とします。
この点を覚えておかないと、どうして 小田切みきが あそこまで嫌そうな顔をしたのかがよくわかりません。
もうすぐ死ぬと告白されたのですから、もう少しやさしげにしてあげてもよさそうなものなのですが、ものすごく嫌そうな顔するんですよね。
この前のカットでは、忍び寄ってくる冷気から身を守るように上着の襟元を絞める演技。
志村喬が ← の方向を向いているときは、死へと近づいているときですが、
時には、 ←向きの顔は 死 そのものであり、
それが相手を戦慄させる、そういう理屈で画面が構成されているようです。
この一連の流れは
もう少しわかりやすくできるのではないか、私にはそんな風に思われます。
『生きる』はものすごい名作でありますが、それでも、分かりにくいところ、もしくは改良の余地がまだあるのではないか、と思ってしまうのですね。
いけ好かないキャリアー上司を説得するときも 自分の死を見せることで何とかします。
後半では、死んでからの話になります。
なぜ、『生きる』がこのような形式になったのか、『市民ケーン』を意識したのか?という事ですけれども、
この映画、生きることについて描く以上に、死について描いている、私にはそう思われます。
だから、真ん中で主人公を殺しておいて、死を必要以上に多く語ろうとしたのではないでしょうか。
通夜のシーンですが、
よく見ると、面白いことが分かります。
主人公の死について より正しく知っている人にとっては、志村喬は生きている人のように感じられるようです。
だから、遺影が→と生きる方向を向いています。
それに対して、正しく知らない人にとっては、 ←と死んだ向き。
どうして通夜の席で、上役がこっち側に座っているのかには、こういう理屈があります。
そして、
公園建設を陳情したおばちゃんたちにとっては、当然志村喬は生きているのと同様ですから ←向きで墓前を弔います。
役所の上役 の→方向のカット と ←方向のおばちゃんたちのカット が画面上で戦って、上役たちは皆画面と物語から弾き飛ばされてしまいます。
映画の画面を構成するとき、『宇宙戦艦ヤマト』のようにどちらか片側の奥に目的が待っている、
そのようにまず規定すると、
このような画面ではこちら向き、あのような場面ではあちら向き、というのがかなりの部分が自動的に決まってきます。
そして、その画面の流れに説得力を持たせるために、いろいろな「援軍」をどのような動線で画面に組み込んでいくかも可能性は絞られてきます。
そして、このような方法は、普通の観客は無意識的にしか受け止めることができません。
映画監督の塩田明彦氏はこのように語っておられます。
「見ているときに分からなくとも、お客さんは無意識にそれを感じ取っているんですよね。そういう無意識に感じられる何かを信じない限り、映画は撮れない」
私は、彼の言葉にもう一つだけ付け加えたいと思います。
画面上に方向や動線で示される無意識的なメッセージは、時には登場人物の心の無意識を表現していることもあります。
そして、見ている観客もそれを無意識に受け止めてしまうのですから、登場人物と観客で無意識共有している、そんな可能性もあるはずです。
映画が、なぜ強い説得力や洗脳力を持っているのかのカギはそこにあるのではないでしょうか。