『エイリアン』  

お時間よろしかったら、
映画が抱えるお約束事 - (中二のための)映画の見方d.hatena.ne.jp

を読んでもらえますと、
以下の内容がよく理解できると思います、ということで宜しくどうぞ。

それでは。

1979年公開の『エイリアン』、リドリースコット監督作品。
1982年公開の『ブレードランナー』と比べると、すべてに於いてチャチいです。

今となってみると、『エイリアン』が絶賛で『ブレードランナー』が絶不評だったという事実を信じることが出来ません。

結局のところ、映画とは監督一人でどうなるものでもなくて、スタッフや役者、資金提供者に支えられて良作たり得るのだという当たり前のことを思い知らされます。


宇宙船の内壁。
デザイン的にはこだわりはみられるものの、プラスチックの質感も顕わな安っぽい画面。



今だったらガレージキット売ってるオタクショップの造形と塗装技術のほうが優秀だろうと思わせる拙いヘルメットの仕上がり。
当時は、この程度の小道具の出来でも許されていた、というか、この三年後の『ブレードランナー』では、この程度では許されていないので、
やはり、見る人によってはこの稚拙さわかっていたのだろう、と思ふ。

これらの小道具の出来の悪さは、『2001年宇宙の旅』や『スターウォーズ』といった伝説的SF映画にはみられないので、やはり、『エイリアン』は、その他のレジェンド級のSF作品と比べると、B級臭が濃厚。


この冬眠カプセルも、ガラスのカバーがしっかり密封出来なさそうな感じがする。
スースー隙間風が漏れて眠れねえだろうなという予感。
まあ、つまり、なにかと、安っぽくて、ちゃっちいんですが、
そのセコさが、B級作品としての微笑ましさに昇華されておらず、利ドリースコットの美意識、テーマ性の追求の足を引っ張っているようにしか見えないのですわね。


一通り、『エイリアン』のことをクサしておいてから、それではリドリースコットがこの映画で追求しようとしたテーマ性について考えてみたいのですが、

子供のころにこの映画を見てしまうと、異形の怪物の怖さ以上に、シガニーウィーバーの半ケツに心を奪われてしまいます。
半ケツという言葉が出来て、10年程度らしいですが、このシガニーウィーバーの半ケツは、そんな便利な言葉が出来るはるか以前のものです。
半ケツという言葉が無かったときには、この状態を言葉で描写するのがけっこう面倒で、パンツがずり下がってお尻の割れ目が半分見える…云々と言わなければなりませんでした。
それが、半ケツという単語一つで描写できるというのは、実に便利であると同時にそういう単語が出来てしまう事情として、半ケツにフェチってしまう男って多いのだろうと思い至るのですが、いかがなもんでしょう。

『ブレードランナー』について書いた回がありまして、その中で蛇使いのレプリカントが全裸なのかどうなのか、乳首は見えているのだろうかどうなのか、をチェックするために何度も繰り返してその周辺のシーンをみていると、『ブレードランナー』の映画のテーマを見付けてしまったと書いてあります。

リドリースコットは、エロを映画に於いて利用する方法をよくわかっている人らしくて、重要なシーンを重要であると印象付けるためにお馬鹿な男性が熱い思いで注目するエロ要素を付加させる人らしいです。



半裸の女。そしてエイリアンの頭部はチンポの形、その上せり出してくる口は勃起状態そのもの。ついでにジェル状の液体でヌレヌレ。ただ、今となって見返すと、エイリアンの細部は、アップに耐えないチャチい作り。
それと比べると、シガニーウィーバーのお尻は、30歳当時のもので、今でも十分鑑賞に堪える。ちなみに彼女身長185センチ。


映画評論家みんなが指摘していることですが、このラストのシーンは、恐怖というよりもセックスのエクスタシーに満ちているとのことで、
シガニーウィーバーの荒い息遣いも、やってるときの、ソレのように感じられてしまいます。

ついでに言いますと、惑星探査に出かけて、エイリアンの卵に吸い付かれ、腹を食い破られるという展開は、
精子が子宮内で受精して、それから妊娠出産にいたるプロセスを比喩的に描いたものとも言われています。


朽ち果てた宇宙船、女の広げられた股のような形。


その穴の中に入り込んでいく探査員は、精子の比喩。


腹を食い破って生まれてきたエイリアンの子供。
可動部分が極めて少なく、オモチャにしか見えない。
そしてこのシーンは、帝王切開の比喩?
至極残酷なシーンに見えはしますが、医療の未熟だった時代には出産で死ぬ母親なんて珍しいものではありませんでした。



『2001年宇宙の旅』も妊娠出産を比喩的に描いた作品でして、さらに言うと、人類が営々と営んできた祭事というものは、大概、性交出産のプロセスと比ゆ的に表現したものであります。

『エイリアン』もそのような作品であっても別に何も問題がないのですけれども、

2001年宇宙の旅』と比べると、比喩としての出来が、曖昧であるというか、混沌としているというか、理路整然としていないという気がします。

2001年宇宙の旅』の方は、人間のイメージ知覚力の限界を、SF的比喩で乗り越えようとした作品であり、それぞれの比喩が何に対応しているのかが、考えると、大概はっきりしていきます。
それに対して、『エイリアン』の方は実に混沌としている。
ノストロモ号の乗組員は、男と女両性いるんですが、映画自体が、セックス、出産をモチーフにしているようなのに、乗組員の性別はどうでもいいことのように扱われています。

最後の場面こそ、エイリアン=チンポ vs 半裸の女、という図式でわかりやすいですが、
ジョンハートが男としてエイリアンを出産してしまうのは、いかがなものか?

また、あれだけチンポをモチーフにしているようであるにもかかわらず、エイリアンって人間のお腹に卵産み付けてしまう生き物らしくて、どうやら両性具有、もしくはメスらしです。

どうも、この映画、エイリアンは何の比喩なのだろう?と考えても、あんまりピンとこないのですね。
2001年宇宙の旅』のモノリスは何の比喩なのだろうと考えることと比べると、かなり不毛な気がします。

「この映画は一体何を言いたいのだろう?」そんな問いを映画に対して突きつける人が大勢いますが、言いたいことが意識的なものなのかそれとも無意識的なものなのかの違いはかなり大きいものであります。

『エイリアン』に関しては、「何を言いたかったのか?」の顕在意識的な部分に関しては、「怖い映画を作って盛り上がりたかった。興行的にはホラー映画の舞台を宇宙に置き換えて、ホラーファンとSFファンの両取りを狙った」というところでしょう。ある意味、他愛無い目的の映画です。
ただしかし、無意識的なテーマ、おそらく監督および主要スタッフは意識的であろうとも、大方の観客にとっては無意識的にしか知覚できなかったであろうテーマが、セックスの意義について不気味な視点から考察してみるというものらしく、それは、宇宙船内部の襞を織り込むようなデザインやエイリアンの男根的デザイン、それにシガニーウィーバーの半ケツから了解することは、実はそれほど難しいことではありません。


そして、この電波ブログのいつもと同じ、映画の方向操作の話になりますけれども、

まずノストロモ号の進行方向に注目してみましょうか。
映画は日本以外では−>の向きに進行し、その向こうに物語の目的が存在すると想定されています。
それゆえ、『2001年宇宙の旅』のディスカバリー号は、木星への一途な航行を、−>向き一辺倒の画面で表現しています。
映画の進行方向

それに対して、ノストロモ号の進行方向は、序盤に於いてはずっと<−方向です。

<−の方向に動く。そして、惑星に着陸する探索艇の進行方向も<−



探索艇が、母船に戻るとき、普通は復路を示す場合には、往路と逆のベクトルになるはずなのだが、この映画では、このシーンから終盤まで、宇宙船は、左右に傾かない中央方向の移動をおこなう。

しかし、今になってみると、東宝SFの模型クオリティーと大差のないチャチい作りの探索艇と、その豆電球ライティング。



映画終盤になっての、脱出艇の進行方向が−>と通常の物語進行に一致する。

つまりこの映画のテーマ、おそらく無意識的なテーマというものは、生きることへの渇望の肯定ではなかろうか、と目星をつけることが出来る。



今になれば、この映画に出ているスターはシガニーウィーバーそれにかなり地味なジョンハートですから、今の視点でみれば、誰が主役であるかは分かりそうなものが、この映画が公開された当時、シガニーウィーバーも無名でしたから、観客は、一体誰がこの映画の主役であるのかしばらく分からなかったのではないでしょうか?

私、子供のときに見た時には、船長が主役なのかとしばらく思ってみていました。

何で、しばらく、誰が主役か分からないのかの理由についてですが、
脚本的な技術としては、誰が生き残るかを分かりにくくして、全ての乗組員に平等に危険が迫っていると感じさせることで物語をよりスリリングにしようという狙いだと思います。

そして画面編集的視点からみると、序盤に於いては、
画面が主として<−方向に流れる、宇宙船がそのネガティブな方向に進む。探査員がそのネガティブな方向に進むとあって、目的をしっかり見据えるキャラクターが誰もいません。

この映画の無意識テーマを 生への渇望として考えてみると、
エイリアンの卵を産み付けられてエイリアンの幼生を船内に持ち帰りクルー全員を恐怖のどん底に落とすための仕込段階というのは、
どう考えても、映画のテーマに逆行するものであるわけです。
後のホラーの展開の仕込の為の段階というのは、ホラー映画にはどうしても必要なものではありますが、それはサバイバルを−>のポジティブ方向設定したときに、延々と<−方向への逆行が続くことになります。

だから物語は進展していくのですが、画面は逆行していくのですね。

ホラー映画にはこのような性質があるので、画面の流れがずたずたになってしまっているような映画が多々みられます。いい加減に作ったもの、知力の足りない監督の作ったものには、画面の方向をほとんど考慮していないようなものがあって、みていてつらい。
口裂け女』とか『ヒグラシの鳴く頃に』とかは、そういう映画でした。


まあ、そんな画面の流れだと、−>の方向、つまり物語の目的の所在をはっきりと見据えることの出来る登場人物もなかなかいなくて、誰が主役であるかが分かりづらい、登場時間や役者のランクが似たり寄ったりだと、観客には主役が誰であるのかなかなか分かりません。

ホラー映画は大概低予算ですから、ギャラの高い役者は出てきません。
これが推理小説の映画化でよくみられるオールスターキャスト、つまり役者の格で誰が犯人であるかが分かるのを防ぐ為の仕組み、の逆のオールノンスターキャスト、つまり役者の格で誰が生き残るのかが予測できなくなり、かえって都合がよかったりします。


そんな中で、シガニーウィーバーが、中盤から−>の方向を見据えて演技するようになります。


カブトガニが顔面に付着したジョンハートを船内に入れずに隔離しろと冷たい主張をします。
本当は、そうしておけば、あそこまでの惨事にはならなかったはずなので、彼女の主張は、物語の無意識的テーマである、生存への渇望、に照らし合わせると、実に理にかなったものであります。

ただし、観客は、シガニーウィーバーのことをいやな女と思うでしょう。この不快な認識が、彼女が主役であり最終的に生き残るキャラであることのカモフラージュとして作用します。
観客は、嫌なキャラには早く死んで欲しいでしょ?


つまり、船内にエイリアンが持ち込まれてから、サバイバルゲームが開始され、そこから物語のテーマが明白に作動し始め、主役のシガニーウィーバーは物語の進行方向をしっかりと見据えることになるのですが、

では、生き残りたいというクルー達が −>方向のベクトルであり、彼らを狩る立場のエイリアンは<−の方向で対立しているのかと申しますと、ぜんぜんそんなことはありません。

エイリアンの進行方向に着目してみますと、

腹を食い破って生まれてきた幼生は、−>の方向に走りますし、

クルーを襲い卵を産み付けようとするエイリアンも、両手を広げて抱擁を迫るようなポーズでー>の方向に進みます。

つまり、エイリアンにとっても、別に悪魔だから人を殺しているわけではなくて、自分の子供孕ませたい為だけに、人間の腹を突き破ったりして殺しているのです。
それは、私が、シガニーウィーバーの半ケツをもっと見たいと渇望することと全く同じことなのでしょう。
この映画ではエイリアンでさえ、生存への渇望に突き動かされて行動しているに過ぎませんから、生き残りたいと願う人間と同じ方向に進むのですね。

ラストのシーンでも、
シガニーウィーバーとエイリアンは、敵同士として向き合ってはおらず、どちらも同じ方向、生きることへの渇望を目指しているというわけです。

ブレイドランナー』でも、レプリカントを敵役として設定しているのではなく、むしろ、生きることへの渇望を具現化させる存在として描いており、その渇望に人間であるはずのハリソンフォードがどうかしていく過程を描いていました。

かなり哲学的なテーマであり、そのような小難しいことを物語のテーマとして画面のベクトルで示していますから、『ブレードランナ−』はわかりづらい映画として、公開当初は興行的には失敗したのでしょうけれども、実のところ、成功作であるはずの『エイリアン』でも同様なテーマを画面は示しています。

ただしかし、現在はディレクターズカット版で見られる、卵を産み付けられたクルーが殺してくれと懇願するので火炎放射器で焼き払うシーンが公開時にはカットされていた為に、エイリアンの行動原理が不明で、このテーマがはっきり見えてこず、たんなるB級ホラーに見えてしまっていたのではないでしょうか?
そして、その、単なるB級ホラーという立ち位置が、成功の秘訣だったりするから、世の中とは難しいものだったりします。


生きることの渇望というのは、きわめて本能的で止みがたいものであり、それは性への渇望に似たものである、もしくは抱合関係にあるものでありましょう。
それゆえ、この映画にはセックスをイメージさせるシーンがいくつも出てくるのですが、


もう一人の女性クルーに忍び寄るエイリアンの尻尾。非常にチンポを強く想起させる。そして、この尻尾が女性クルーの肛門の位置くらいまでせり上がってくると、彼女の「ギャー」という叫び声。

私は、アナルセックスを想像させられてしまいました。




レプリカントの科学者が、シガニーウィーバーの口に丸めた雑誌を押し込んで殺害しようとする場面。イラマチオを模したものにしか見えない。
雑誌は、日本の平凡パンチ
当時、既に日本はアメリカ映画の一大市場だったのだから、こういうところで平凡パンチを登場させたら日本人はどう思うか、日本での公開成績にどう響くか、とかは考えなかったのだろうか?考えなかったのでしょうね。
10年後の『ブラックレイン』のイタさ加減からしても、真面目に日本理解しようという気はリドリースコットにはないですわ。

さらにもうひとつ言うと、その現場は男性クルーの個室らしく、壁にはエロピンナップがペタペタ。それが、このシーンがイラマチオレイプを強く想起させる原因となっている。



話は変わりますが、リドリースコットはコンラッドの『闇の奥』の映画化を望んでいた時期があったそうですが、結局その夢果たせずコンラッドの別の小説を『デュエリスト』として映画化してお茶を濁してしまいます。

その後遺症からか、この映画の宇宙船の名前はノストロモ号であり、その名はコンラッドの小説『ノストロモ』から採用されています。
ちなみに申しますと、イギリスを代表する映画監督デイヴィッドリーンの最後の映画企画が『ノストロモ』であり、脚本家のロバートボルトとともにコンラッドの映画化を目指したそうですが、寿命には勝てず頓挫しました。

『闇の奥』といえば、オーソンウェルズも、デビュー作は『市民ケーン』ではなく『闇の奥』を撮りたかったそうで、そうそうたる映画人からコンラッドは愛されているわけですが、結局、『闇の奥』を映画化できたのはフランシスフォードコッポラ。
映画化を断念してきた巨匠たちも納得するような熱い作品でしたが、
あの映画の中でマーロンブランドが、「恐怖だ、恐怖だ…」とつぶやいて息を引き取ります。
リドリースコット、『エイリアン』にしろ『ブレイドランナー』にしろ、恐怖、死ぬことへの恐怖を取り扱っている映画でして、そのテーマの採り方というのは、『闇の奥』からの影響そのものといっていいのではないでしょうか。
私たちは、息をしているとき、それが当たり前のことなので息していることをなかなか意識できません。それに空気のありがたさも大概無視しています。そして、生きている最中には、生きていることの実感があまりわきません。
ただ、死を強く意識するとき、生きることの意味の輪郭がはっきり感じられるような気がするだけです。
そして、生きているときには、いかなる形であろうと死を体験することは出来ませんし、その意味を真に理解することも出来ません。
私たちに出来ることは、恐怖という感覚を通して死とはなんであるかをぼんやりとした手つきで探ることだけなのでしょう。
つまり、生きることの意味とは、恐怖の存在が不可欠である、そういうことなのではないでしょうか?

この意見は、私が考えたというよりも、リドリースコットの映画から私が読み取ったものです。

そんな事情を知ってしまうと、科学者のレプリカントが死ぬ間際に話すことの内容が、『地獄の黙示録』のカーツ大佐とほとんど同じでびっくり。
何のことはない、どちらの台詞の出所もコンラッドの『闇の奥』ですから。

そして、もし、コッポラではなくリドリースコットが『闇の奥』を映画化していたら、たらればの話ですが、コッポラの様に、父親コンプレックスの解消を儀式的な形で描き、60年代文化の飛翔と限界と絡めるという映画にはしなかったと思います。
もしリドリースコットの映画として『闇の奥』が実現していたなら、恐怖についてより深く考察され、それを梃子に生への渇望の姿を描いていたのではないでしょうか?
よくよく考えると、彼の監督作品では『ブレードランナー』『エイリアン』だけでなく、『ブラックホークダウン』でも『テルマとルイーズ』でも、生きることの渇望の方向への疾走を具体的に画面に表示しているのですね。
単なるスタイリッシュな映像スタイルの監督と彼のことを思っている人もいるでしょうが、実のところ、テーマの取り扱い方は、古典的な文学者的のそれと同じスタイルの人であります。



首だけになったレプリカント科学者が火炎放射器で焼き払われるシーン。

目に穴が開いていない、鼻先が軟骨でない。鼻の穴が開いていない。などなど。
この頭蓋骨に人工皮膚をかぶせても、マネキン以下のリアルさだろうに、と、またしてもB級な細部のアラが気になる。
そして、この科学者の首がもげてからの、人形の頭部と穴から首出している頭部のつなぎ編集具合が、なんともチャチい。
いまのCGと比べると、痛いほどにちゃちい。
多分当時のレベルでも、かなり子供だましだったのではないだろうか?
チャチい技術は、さりげなく画面に出すようにほっと配慮すべきだったのに、それが出来ていない。
ルーカスだったら、こういう下手はうたない。

リドリースコットの、そのような、ある種の鈍感さが、次回作の『ブレードランナー』では、逆方向に作動し、目に見えないような細部までとことん作り込みスタッフやプロデューサーと揉めに揉める原因となったのではなかろうか?


まあ、一言で言うなら、この『エイリアン』は、B級作品としての枠内にとどまった事で、成功し、その成功ゆえに傑作の『ブレイドランナー』を誕生させることとなった、犠牲フライのような作品ではないでせうか。