読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『デンジャラスデイズ』 ブレイドランナーの内幕もの

以下の内容を読まれる前にこちら(映画が抱えるお約束事)はどうでしょう。このブログの理論的根拠についてまとめてあります。

かつて、リドリースコットの家の家政婦をやっている人の書いた『イギリス人はおかしい』という本を読んだことがあって、内容忘れてしまいましたが、
とにかくリドリースコットは変だということが延々と書かれていたような気がします。


このブレイドランナーの撮影の内幕を描いたドキュメンタリーですが、
映画が完成するまで大変だったのだなとよくわかります。

CM業界上がりで、15秒や30秒で見る人の心をつかむスタイリッシュな作風が身上のリドリー・スコットですから、細部に実によくこだわるのですわね。CMと同じテンションで二時間走るのか、この映画って感じですが、



それで、プロデューサーや出資者、更には脚本家、そして当然の如く撮影スタッフと衝突を繰り返します。

この人の弟、トニー・スコットの作品、私、今まで一本もみたことが無いんですけれども、いわゆる商業映画で兄のリドリーとはぜんぜん違う作風の人らしいです。
兄は芸術家で弟はアホ映画監督なのか、というと、出来上がった作品だけ比べるとそうなのかもしれませんが、
弟のトニー・スコットがアホなのかというと、どうも逆なのではないか、頭いいのは弟のほうで、兄のほうがアホなのではないか、と『デンジャラスデイズ』をみるとそういう気がしてきます。

人間頭がいいなら、楽しく仕事したい、人と喜ばせたいと思うはずでして、出資者を満足させ、プロデューサーを安心させ、スタッフと和気藹々仕事をし、関係者みんな喜ばせることができるなら、次次と仕事も舞い込むわけで、その中には自分にとってふさわしい企画もあるでしょう。

そうやっていれば、映画人としても満足の行く仕事が高い確率で出来るようになる、


合理的な考えというのはそういうもんです。


何も完璧を目指したりはせず、どうせ観客の見る能力など知れていると多寡をくくって、80%主義くらいで効率よく仕事を進めていっても、たいした違いなんかでないもんです。
映画のセオリーよく理解してこなれたお約束事的手法を組み合わせていけば、大予算を任されても、人の期待に背くこともないでしょう。

もし、私が映画監督だったら、そんな風に考えるかもしれません。
早撮りとか効率いい撮影技法とかにこだわる頭のいいアホ映画専監督というものになるかもしれません。

私が今ここで言ったことが本当だとすると、B級映画の監督はたいてい頭のい人たちで、A級作品の監督たちは才能はあるだろうけれども困った人たち、ということかもしれません。


ブレイドランナー』は公開された当時、あんまり理解されることが無く、工業的にも成功しませんでした。
当然観客に理解もされませんでしたし、製作関係者にもあんまり理解されていなかったようです。

では、今なら完全に理解されているのかというと、微妙なところです。

村上春樹のエッセーで、彼の奥さんが映画を一緒に見た後で「私にとってこの映画の教訓はね……」といちいち映画から何がしかの教訓を一行で説明しようとする人で、最初のうちは、「なんだ、この女は?」と不審に思っていたのだけれども、だんだんそれになれてきて、自分でも映画の教訓を考えるようになったというのがありました。

それに感化されてか、「…の映画の教訓って何なんですか?」とかヤフー知恵袋に書き込んだりする痛い女がいたりするのですが、



この人がブレードランナーから得た教訓というのは、
人間性を大切にしよう、レプリカントみたいな機械に成ってはいけない、女を背後から撃つような卑怯なことをしてはいけない、
だそうです。

なんか微妙にそれって違うだろ、という気がするのですが、

この映画、注意深く画面の方向を読んでみると、ハリソンフォードって主役なのに、画面の立ち位置がのネガティブなのですね。

彼に殺されていくレプリカントの方がと本来の主役の立ち位置です。


『ブレ―ドランナー』に於いての主役とは、じつはレプリカント達であり、未来の小汚い街であって、
この映画におけるデッカードの存在意味というのは、そういう異質な世界に対する違和感を観客に伝える存在に過ぎない、ハリソンフォードはこの映画に於いては、主体的に行動するのではなく、ただ状況に流されるだけの傍観者のように私には思われます。


さっきの教訓の話で、女を背後から撃つような卑劣漢になってはいけないという話ですが、

ジョアンナキャシディーが撃たれる場面を詳しく見て見ませう。

デッカードから逃げるジョアンナは−>の方向に走ります。
映画は、何を持って−>方向の線を画面に描くのかによって、その映画のテーマが示されてしまうという類のものであり、この彼女の走りがこの映画のテーマなのであろうと思わされます。

なぜ、彼女が走っていたのかといえば、デッカードに殺されたくなかった、つまり、死にたくないから、生きたいから走っていたわけでして、

この映画は、生きていることの定義=生きたいと願うこと を描くことだったのではないでしょうか?

『デンジャラスデイズ』の中でも、完成した映画があまりにも分けがわからないので、宣伝担当者が、分りやすそうなキャッチコピーをつけて観客を騙そうとした、という話が出てきます。
言われてみる、そういえば、この映画の公開当時の雑誌の記事は、恐怖の殺人アンドロイドとの戦いというような分り易い方向性を持ったものだったと思います。

そんで、その手の勧善懲悪を期待して見に行った、もしくはエイリアンと同じような怖い映画を期待して見に行ったら、なんかわけのわからない映画だったりするもんで、みんなから不評だったような気がします。

今になってみてみれば、もしくは、画面の方向に注意してみてみれば、
この映画はレプリカントの立場からの映画であり、最終的にはデッカードでさえレプリカントらしいという話です。

まあ、それはともかく、
ジョアンナキャシディーは必死に逃げます。最初の一発目の被弾は、彼女の逃げる方向に向けて撃たれますが、

2発目の致命傷は、彼女の走る方向と反対の向きの画面から撃たれます。

このような凝った切り替えしを行うと、デッカードはどこから撃ったんだろう?と観客は迷ってしまったりもするでしょう。
おそらく、2発目も背後から撃ったのでしょうが、この画面の方向の転換が示すところは、生きたいと必死になって走る姿とただ流されるままに銃を撃つような態度を正反対のものとして対比したかったからではないでしょうか?


−>の方角に必死に逃げていた彼女が、動けなくなって倒れたとき、もう生きる方向に走れなくなったため、彼女の向きは<−とネガティブ方向に切り替わります。

典型的な北枕の表現ですが、もし、恐怖のアンドロイド対ハードボイルドヒーローの物語だったら、こんなに丁寧にジョアンナキャシディーの死の場面を描くわけがないでしょう。

この映画のジョアンナキャシディーがエロくて、昔から私は大好きだったのですが、解像度の低いビデオで見ていると彼女がどのくらいの露出度なのかがいまひとつ不明だったのですが、

こういう、肝心なところは、しっかり隠した衣装でした。


しかし、じっくり見てみると、ばっちり乳首が映っています。

言われてみると、『エイリアン』でもシゴニーウィーバーの半ケツがエロかったので、この監督って、こういう微妙なエロ場面の上手い人なのでしょう。

こういうエロを見せられてしまうと、ジョアンナキャシディーにはもっと生きてもらいたい、デッカードの弾丸から逃れてほしい、と見る側は本来感じるはずなのでしょうが、
30年前の観客にはそんなことも分らなかったのですね。


今65歳なんですが、けっこう美人なままです。ダリルハンナの今よりも私的には好ましい。


話は逸れてしまいましたが、
ルトガーハウアーとハリソンフォードの最後のおっかけっこですが、こういうことを考慮してみてみると、あの二人は敵同士ではないのですね。
ー> <−の単純な争いがあるのではなく、二人は頻繁にポジションを入れ替え、立場を重ねていくことで、互いに歩み寄り理解しあっていくことになります。さらに言えば、ハリソンフォードの役というのは、あんまり真剣に生きていない一般観客の代役な訳でして、主人公二人が追いかけっこをする中で、見ている私たちも、命の意味についてちゃんと理解しないといけないはずなのですね。

何で、ルトガーハウアーがハリソンフォードを殺さなかったのか、については、そのように考えると実に簡単に納得できてしまいます。二人が戦っていたのではなく、二人が戦っていたのは死への恐怖という単一のものだったのです。