日本映画、ガラパゴス?

能、歌舞伎では、舞台がこうなっています。


通路側が下手 逆の方が上手


わたくし、全然 能について知らないので、小学校の教科書に載っていた狂言『附子』しか例として取り上げることができないのですが、


冒頭の主人によるナレーション。
太郎冠者、二郎冠者が 通路から→方向に歩いてきます。


主人が外出を告げる場面。
所謂、上手 下手 をよく表している画面です。 上手とは基本的に身分の上のものが着くポジションであり、下手とは下の者。
もしくは、
舞台を家とみなした場合、家の所有者が上手につくこととなります。

典型的歌舞伎の一シーン。ダメ男が女の家に来て泣きを入れる。


「あおげ、あおげ」「あおぐぞ、あおぐぞ」
扇子で風を送る方向は → です。

現代の映画の進行方向的にこの狂言を見ると
画面の登場人物にとって、目標対象は黒砂糖であり、
さらには、
中央舞台への通路は → なのですから、

物語の進行方向は → 向きであると言えます。


附子を食べる目的に向かって進み始める前の 太郎冠者=主役(青い着物の人) 
画面の向かって右で、いわゆる上手に位置します。
太郎、二郎、の呼び名通り、太郎冠者は年長ゆえ、立場が上なのでしょう。


附子を食べる目的を追求し、食べた後の事後処理の算段をしている場面。
太郎冠者の位置が下手になっています。

舞台演劇の上手下手は、演劇が神仏への奉納品であったことの名残らしく

向かって、右側にいるのは神様、もしくはその代理人、もしくは身分の上の人、という縛りがあるのですが、

実のところは、
物語の主役は、人界からのメッセージを神へ届ける格下の側です。

だから、日本の古典演劇の舞台では 

と、構成されます。

上手から下手に物語が流れるのではなく、下手から上手に物語が流れている訳です。

意外なことに思われるかもしれませんけれど、
少しばかり考えてみればわかることで、「社会的立場の上のものが下の者に勝つ」これは舞台でやる価値のある話ではありません。いたるところでだれもが日々目にしている物語です。
私たちが舞台で演じられるにふさわしいと考える物語は、
下の者が強くなり、その結果上のものを打ち破るものです。
この成長と挫折の過程が物語であると、私たちのほとんどは受け止めています。

それゆえ、実のところ、日本の伝統演劇では下手の人物の方が物語のイニシアチブを握っていますし、
下手の人間を後押しするかのように、
そちらの方向から登場人物が舞台に向かって歩き、視覚的な物語の流れを作り出しています。



ただ、舞台では、上手と下手の人物のポジショニングを入れ替えることが、移動を必要とすることから、頻繁に行うことができず、
二秒三秒でカットを組み合わせていく映画のようなサブリミナル的な演出は行えません。




映像では、このように頻繁に登場人物の向きを入れ替えることで、その人物の物語上の立ち位置の微妙な変化を示すのですが、

歌舞伎の場合ですと、

登場人物の向きを変えるのではなく、この間合いで柏木を打つんですね。

この舞台を映画化すると、絶対、柏木のリズムに合わせてカットを刻み、左右の方向を入り乱れさせる切り替えしを行うはずです。

こちらは現代の日本映画・ドラマの画面構成です。

主人公の役割は、物語を先へと進めることであり、物語の進行方向は主人公の向きに一致します。
そして、これは、古典演劇の舞台とは逆の方向になっているのですね。

いつから日本の古典演劇の舞台と映像での上・下そして進行方向が逆になったのかという事ですが、
1960年代から1980年代、つまりテレビが映画を圧倒した時期にほぼ重なっています。

映画が日本の娯楽の王様と呼ばれていた時代、日本映画の上・下そして進行方向は、古典舞台と同じでした。





以下の内容を読まれるのでしたら、
映画の抱えるお約束事])をどうぞ。以下に先行するの内容についてまとめてあります。



これらお約束事を履行することによって、画面には意図的な流れが生じます。
そして、このような映画の見方になれれば、ストーリーが分からなくなって困ることはほとんどありません。
さらには、
ぼんやりと映画を見ていると、ストーリーを全く追っていないのに、映画が何を言いたいのかほとんど分かってしまうことはないでしょうか?
あなたがエスパーでないとしても、たいていの映画はこのような手法で画面をつくっていますから、映画が表現しようとしているポジティブ・ネガティブの判断は、ストーリーとほぼ無縁で感じ取ることが可能なのですね。
ストーリー分からないけど、的確な場面で泣けてしまうということもあります。

その反面、これらお約束事を無視するとどうなるのかというと、見てて分かりにくいノリ切れない映画になる場合がほとんどです。
そしてそのような映画は大概は下手な映画とみなされているようです。

私がここまでで書いてきたことに対して、
「一体何を血迷ったことを言っているのだ?」と感じた方も大勢いらっしゃるとは思いますが、どうして、私の言っていることが血迷っているように感じられるかというと、

実のところ、今現在の日本の映画ドラマは、アメリカ映画とは逆の方向に進展することになっているからです。
世界のほとんどの映画がアメリカ映画同様にであるにもかかわらず、日本映画は進行ですから、
日本のドラマ、アメリカの映画、日本の古い映画、ディズニーのアニメとごっちゃに見ている一般的な日本人にとっては、右進行と左進行の映像をごちゃまぜにみているのですから映画やドラマが進行方向を恣意的に操作しているという事実はなかなか見えてこないでしょう。

前章の『映画の抱えるお約束事』を読まれて、それが本当かどうか試そうとして手近なアニメとかドラマを見てみると、「全然違ってたぞ、おいコラ!」とお怒りになられた人もいらっしゃるとは思いますが、
今現在の日本だけ、ガラパゴス的に進行方向が逆なのですから仕方がありません。

宇宙戦艦ヤマト』1974年

地球からイスカンダルまでの行程は、敵の攻撃を迂回する場合以外では、一途に進行です。

これは『2001年宇宙の旅』のディスカバリー号の進行方向とは完全に反対になっています。

未来少年コナン』1978年


オープニングでは、ラナとコナンはひたすらの方向に移動します。


歌の終わりでロケットのてっぺんに上ったカットでは、に切り替わります。
これは、前章の『映画の抱えるお約束事』で『クオヴァディス』と『エイリアン』を例にして述べた移動の終了技法が左右ひっくり返ったものです。


何故このような左右反転が日本の映画・ドラマに見られるのか?ということは非常に興味深いことであります。
「そんなの、日本語は英語と違って右から左に書くからでしょ?」と即答された方、以下の点についてはどう思われますか?

以前の日本映画はアメリカ映画と同じく進行でした。

海底軍艦』1963年。

宇宙戦艦ヤマト』の元ネタと考えられている作品ですが、轟天号の進行方向は、基本的にに設定されています。
ところで、船から降りて敵の心臓部を叩くための陸戦部隊の名が「挺身隊」とは、なんとも古臭い。戦争終わってまだ18年しか経っていないときの映画だと感じさせてくれます。

ちなみにこちらはリメイク作であるところの
『惑星大戦争』1977年

ケツの穴から煙を吐いて飛ぶ轟天号の方向がに何食わぬ顔で切り替わっています。
海底軍艦』のリメイクであるというよりも、そこからパクった『宇宙戦艦ヤマト』を実写にしてみましたという、なんの矜持も感じさせない作品ですが、これ『スターウォーズ』よりも新しい作品だということを知るに付け癒しがたい絶望感に打ちのめされます。

進行方向を恣意的に操作することで映画を分かりやすくする、もしくはサブリミナル的効果を持たせるという技法は、徐々に形成されていったものであり、1921年のチャップリンによる『キッド』では、それが使用されておりますけれども、当時は映画界全体としてはそのような映画もあり、そうでもない映画もありという状況でした。

≪関連≫ 『十戒』


1927年からトーキー映画が作られるようになったこと、1930年後半にはカラー映画が撮られるようになったことで、映画は字幕やあらすじといった文字に頼ることを少なくしていきます。音と色彩を得ることで映画そのものの説明力が格段に向上したことと、映画の進行方向による技法は関係があると思われます。

オズの魔法使い』1939年。前章の『映画の抱えるお約束事』でも、キャプチャー画像付きで、この映画について少々語りましたが、
この頃になると、画面の左右の方向にポジティブとネガティブの意味分けを行うことは、演技の感情方面にまで至っています。
ジュディガーラーンドが→を向くときはポジティブ、←方向ではネガティブの感情という具合にかなりはっきり色分けされています。
つまり、虹の向こうは画面向かって右側に設定されていて、その方向を直視できるときはポジティブな心情、そこを直視できない時はネガティブな心情を示しているということです。
このように、映画における演技というのは、カメラのフレームを意識したものであり、舞台演技とは異なるものだということがよくわかります。

日本の場合だと、1930年末にはアメリカ映画が上映できなくなり、それから戦後になってもアメリカ映画の一部作品は公開が見送られたりしておりましたので、どう考えても世界の主流だったアメリカ映画からずいぶんと遅れた状況だったのは間違いないようです。
わたくし、戦中のプロパガンダ映画を見るのが好きなのですが、
あまり、分かりやすい画面進行があるようには感じられませんでした。

まずカラー映画が撮影された時期が20年日本は遅れています。

それ以外にも例えば小津安二郎の映画ですが、日本人が対話している光景を撮影しようとすると、6畳とか八畳の狭い和室に胡座か正座をした日本人を映すことになり、画面がなかなか動かない。さらには、日本人はあんまり喋らないのが普通でして、そんな状況で映画の画面を構成しようとすると、イマジナリーラインを超えてカメラが動くことは禁じ手と思われていた縛りを平然と逸脱し、それが、何か深い内面を表現しているように思われて海外で評価が高かったりするのでしょう。

これ、画面に進行方向有るんでしょうか?
あったとしたところで、それがサブリミナルな心情表現として効果を上げているでしょうか?
わたしには、役者が変顔しているだけのつまらない短編にしか見えないのです、困ったことに。


しかしながら
日本人離れしたバタ臭さの黒澤明の画面には、はっきりとした方向があります。

『生きる』

間近に死期の迫った公務員が、生きる価値を見出すために猛然と仕事しますが、ある時、長らく夕日を見たことがなかったことに気がつき、その美しさに天国の存在を実感する場面。志村喬の方角に視線をやり陶然とします。


志村喬の死後、その意志をつごうと決心した部下はの方向に歩んでいきます。


『隠し砦の三悪人』1957年

それまで正体を偽り目立たぬように人目に立たぬようにと、逃避行を続けていた三船敏郎御一行は、正体を的に見破られたと見るや猛然と馬を疾駆して敵を討ち取ります。


ここで気になることは、現在の日本の映画・ドラマ・アニメが ← に進み、アメリカ映画が → に進むことに関して普通の人たちはその違いに何ら支障を感じていないらしいことです。これは洋画を好む日本人もそうですし、アニメを好む欧米人でもそうです。普通に映像作品を見ているだけでしたら、日本と外国で基本の進行方向が異なるということはなかなか気づくことはありません。(というか、画面に進行方向があることにさえ気づいたりはしない)

つまり、全ての映画を国や文化圏単位で方向統一させる必要など本来なく、個々の映画で好き勝手に右に行くなり左に行くなり選択してもいいのではないかと思われるのですけれども、
もともと映画はサイレントで字幕による状況説明が頻繁になされておりましたから、横書きの文字を読む方向に沿って画面を進行させると、見ている側にはストレスが少なく、逆に文字と反対側の動きは文字の向きになじまないので変に目についてしまうのですね。そのような理由から世界的に映画は → 方向に進むことが世界的には普通になってしまったのだろうと思うのですが、

それならどうして、日本映画は1960年代において映画の進行方向を逆転させたのかについて考えるにあたり、、興味深い耐久消費財が二つあります。


自家用車
1960年において世帯普及率は3%だったのが、1970年には29%を越えています。当時の地方と都会の格差を考えても、映画ドラマに自動車を運転するシーンが出てくるのは当然のことになっています。
車の運転手を撮影するには一番簡単なのは、助手席にカメラをおいて撮影する方法ですが、そうすると日本では右ハンドルなので、運転手の顔は ← を向いていることになります。これはアメリカ等の左ハンドルの国だとー>と反対になるのですね。
撮影予算と時間の限られた低予算作品やテレビドラマだと、主人公が車を運転して目的地に向かう場合 ← になってしまいますから、それだと映画の方向進行方向を ← に切り替えたほうが都合が良かったのでしょう。


こういうことを書くと、
「左ハンドルの国は、例えばイギリスは ← 進行の映画撮ってんのか?」と絡む人いるんですが、

あくまでも これは理由の一つですし、

世界で日本より映像作品の制作数が多い国はアメリカとインドしかありませんし、さらには日本人は日本語という言語バリアがあるために、
エンタメを自給する率がイギリスや香港よりもはるかに高い。

つまり映像作品の濫造をずっと続けている国でして、
特に映画産業が崩壊し、制作者がテレビ業界に流れると粗製濫造はさらにひどくなったのではないでしょうか?

車の運転のシーンは、「助手席から撮ればいいやな」がいつの間にか映画・ドラマのスタイルを変えてしまった可能性は十分あると私には思えます。



カナリア


オウム真理教に入信するために車を走らせる母親。助手席に座る息子は、気が進まず不安そうな面持ち。

車運転している人が主体的に行き先を決めているわけでして、助手席に座る人がその場面のイニシアチブを握るということはなかなか考えにくい訳であります。
それゆえ物語を進める役割は、自動車運転する人、つまりであるのが理屈的には正しいのでしょう。

テレビ
古い大河ドラマを撮影したビデオフィルムは、それが高価だったために消去されて別の番組の録画に使われたという話を聞いた時、唖然とした覚えがあります。
大金かけてドラマ作っておきながら将来の保存のこと考えてなかったのかよ、とびっくりしましたが、当時はそのくらいビデオテープが高かったのでしょう。1970年代中盤以前のものは、一般人が個人的に録画したものが残っている程度でほとんど目にする機会がありません。
そういえば、テレビ中継が始まってしばらくはそのような金のかかる番組は少なく、公開生中継のようなものが多かったと聞きます。
また費用と時間の節約のために公開収録の舞台演芸が多かったように思われます。
それらは映画と違って舞台の特性に縛られており、日本の伝統的な上座と下座が存在します。例えば、

あっちこっち丁稚
テレビ放送が始まってからかなり時間が経ってからの番組で、舞台でのお芝居を録画したものを放送したものですが、舞台を放送するときの基本形はこのような形です。


この演劇の上手下手の在り方を映像作品に持ち込んだとき、どのようなことが起こるのかについての一つの例ですが、

東宝という映画会社がかつてありまして、東宝から労働争議問題で分離した人たちにより設立された映画会社ですが、その会社は経済基盤が弱かったものですからエログロナンセンスの安っぽい作品を売りにしていたのですけれども、1961年に倒産してしまいます。その精算後に設立された会社がテレビドラマ制作を始めるのですが、
その新東宝の1957年の映画『明治天皇と日露大戦争』には、恐れ多くも明治天皇嵐寛寿郎が演じていまして、画面上の天皇のポジションというのは、舞台の伝統的な上座に相当します。

そして、天皇の下にロシアと戦う日本軍は同じ方向をむいてしかるべきでありまして、


日本軍、ロシア軍と画面が構成されています。

これは、現在の日本映画・ドラマと同じ方向です。


坂の上の雲』2011年

≪関連≫ 上座 下座

テレビに於いてもうひとつ重要だと思われることは、テレビアニメが放送されるようになってことでしょうか。
最初のレギュラテレビアニメは鉄腕アトムですが、
鉄腕アトムの連載開始は、1952年。
テレビアニメの放送は、1963年ですが、
その間の1959年には実写版が公開されています。

皆様ご存知のとおり、西洋の本と違って日本の本は右から左にページを繰り、文字列も右から左に書かれますので、視線の動きはになります。

それゆえマンガの進行方向はに必然的になります。

ミノタウロスの皿』藤子F不二雄

完全に物語が方向に進行しています。

ちなみに西洋では、本のページをくる方向は逆ですからコミックも逆進行です。



日本最初のテレビアニメは『鉄腕アトム』ですが、虫プロが制作したアニメはもちろんマンガを踏襲していますので、

アトムはの方向に飛びます。
アニメなんかマンガをもとに絵コンテ書いてきゃいいじゃないとか単純に考えてしまいがちですけれど、実際はそうもいかないのですが、それでも進行方向をマンガと揃えておくと何かと都合がいいのでしょう。
画面の左右をひっくり返すと、空飛ぶときの両腕のポーズもひっくり返りアトムが左利きになってしまいますしね。

それが実写版ではどうかというと、

1959年当時の日本映画の進行方向に沿ったの画面進行です。そうなるとどうなるのかと言いますと、

伸ばす方の腕と折りたたむ方の腕が左右ひっくり返るとアトムが左利きになりますので、

そう感じさせないためにも、両手伸ばした格好で空を飛んでいます。

それでも、画面を作る際にマンガを元に絵コンテ作ろうとしたのかどうかわかりませんけれども、このオープニングの画面では←方向に飛ぶ画面も交互に挟まれていて、

こういうありえない画面方向の切り替えをやられると、アトムが空を飛んでどこかに行くという印象が得られないのですね。(ていうか、この「アトム」みるからに空飛べなさそうだし、背筋力も50くらいしかなさそうですね)。

http://www.dailymotion.com/video/x7nuz6_yyy-yyyyy-op_shortfilms



ちなみに
『スーパーマン

クリストファー・リーヴ主演作品では、スーパーマンが空を飛ぶときは、あんまりげんこつ握るポーズをとらない。やったとしても右手左手のどちらが前に出るかはあんまり固定されていない。



ついでに『ハリマオ』1960年のオープニングも見てみました。ハリマオの馬に乗っていく方向はでした。当時の映画の進行方向と同じです。


マグマ大使』1966年手塚治虫原作の実写特撮ですが、一体全体『実写版・鉄腕アトム』との間の7年間に何があったのだ!?と衝撃を受ける程のクオリティーの違いです。
見ればわかるとおりマグマ大使の進行方向は明白です。
原作がマンガですから、進行で画面を作るのが自然なのことなのでしょう。

ところでアトムとマグマ大使の間に何があってこんなに唖然とする差があるのかというと、1959年のテレビの世帯普及率は25%、それに対し1966年では95%です。
視聴者が激増しているのですから広告費そして番組制作費も増大しているのでしょう。

ちなみに『ゲゲゲの鬼太郎こうなると、『未来少年コナン』のオープニングと同様のに傾斜した進行です。

ちなみに『快傑ライオン丸』1973年原作マンガの無いオリジナル実写特撮も進行です。
ちなみに制作は『マグマ大使』と同じピープロ


一方『マグマ大使』の裏番組だったウルトラマン
子供番組の分かりやすい点は、善玉は善玉であり、悪玉は悪玉であることに関しては、ほぼぶれることがないという点です。

実相寺昭の一部エピソードは除くとして、
バルタン星人と戦うことに道徳的問題を抱えるウルトラマンってありえないでしょう?
進行方向がの子供番組では、
ヒーローの基本立ち位置がほぼに固定されることになります。

この伝統はエヴァンゲリオンにも踏襲されており、
この作品は、明らかに複雑で葛藤や揺らぎを大量に抱え込んでいながらも、
対戦相手の使徒は、理解を拒絶する存在であるゆえに、
エヴァのポジションはに固定されることになります。

私が思うに、これら要因から1960年代に日本映画の進行方向は方向に切り替わり世界標準からガラパゴス化したのでしょう。
よって、この記事の中で私が述べてきた「映画のお約束事」は、現在の日本映画に限っては基本的に左右逆に考えなくてはなりません。

ただし、すべての映像制作者ががこの画面の進行方向の変化の潮流に従ったかというと、そういうわけでもないようでして、
怪獣映画における怪獣が破壊行動をなすときの進行方向は、であり、この方向は後々まで一貫しています



東宝ゴジラシリーズは、平成の世になっても 進行の画面を作っていました。

(このようなことから、日本映画の進行方向がどうして過去と現在で逆になっているのかについてですが、

もともと、日本映画では、画面を片方に傾斜して進行させる技法を用いない監督がかなりいた。それは戦争期にアメリカ映画の輸入が滞ったため、映画表現が遅れていたからであろう。
母語や文化の異なる民族の寄せ集めのアメリカでは、「見てわかる」スタイルが日本よりもはるかに重宝されたのでしょう。
この方向に物語を進行させる技法が一気に完成するのですが、
日本映画は、それに乗り遅れたのでしょう(この説、間違っていたらごめんなさい)。

60年代末に、映画産業が崩壊。更にはニューシネマの影響で画面をどちら側に進めるのかわからない映画が増えた。
70年代以降は、大林宣彦を代表とするように、自主製作やテレビから映画製作に乗り出した人たちが多数派となると、
日本語の書く方向、日本舞台の上手下手、車の左ハンドル、マンガやアニメからの影響で、画面の進行方向はに切り替わった。

その結果、映画の画面を→方向に進行させる人たちが、映像業界に於いて少数派になってしまった。

その期に及んで進行にこだわったのは、偏屈な旧世代の映画人にかぎられる。

と2013年7月11日現在のわたしは、暫定的な結論に達しております)



ここまで読まれた方で、わたしはどのような点に着目して、画面の進行方向が右だの左だのと確定しているのだろうか?と疑問に思われるかもしれませんが、言っているのでしょう?


現在のテレビドラマの場合、主人公の画面上の定位置が極端に側に偏重しているので、そのような場合は非常に分かりやすい。

テレビドラマの視聴者は、詞的水準の低いレベルの方に設定されている場合が多く、
そうなりますと、
ウルトラマンの立ち位置と同じ傾向がテレビドラマの中に頻繁にみられるようになります。

また、粗製濫造の映画でも、善悪の問題、目的の追求とは、一般常識にのっとったラインでしか行われないものであり、

プログラムピクチャー制作といえば、日活を上げることができるでしょう。

日活時代の吉永小百合


早送りで画面を流すと、ほとんどのシーンで吉永小百合方向です。


一時期の日活作品でお約束事化していたシーン。
酒場に入ると、当時の流行歌手の演奏シーンに出くわす。これは幕間のショータイムみたいなもので、物語の目的追求とは何ら関係ないのだから、歌手たちの向きはだったこともお約束事。


このブログの第一章で述べたとおりの「お約束事」化している進行方向のポイントをチェックしてみると、
かなり簡単に映画の進行方向が右か左であるかを確定することができます。


『堂々たる人生』1961年 石原裕次郎主演

基本的立ち位置は


大阪行きの電車が 地図的イメージと逆にへと向かう。


上司相手の気づまりな会話 


ラストシーンでアメリカに飛び立つ飛行機 


宇宙戦艦ヤマト』のように移動の過程が物語の主体であり、宇宙船の進行方向がはっきりと画面に現れる場合は、文句のつけ様もなく、進行方向が見て取れます。

『太平洋奇跡の作戦 キスカ』1965年
千島列島の基地からアリューシャン列島のキスカまで救出に向かう艦隊の進行方向は


このように、移動シーンがに統一されている場合には、映画が方向に進行していると確定すること容易い。

そして、そのキスカへの移動方向に重ねられるように、航海が順調な場合の司令官の向きも


艦隊を待つキスカ守備兵も、困難な航海をやり遂げる船員らと心を一つにするかのように、を向いて救出艦隊の入港する湾に整列している。




第五艦隊総督・山村聰ラバウルより腕利きの司令官三船敏郎を呼び寄せる。

三船が乗っていると思しき航空機。このカットが実質の三船の初登場カット。

彼の進む先が物語の目的の所在であるゆえ、その初登場を印象づけるべく、向き。


いきなり外部からやってきた三船にとっては、新任の職場はアウェーであり、慣れない人間関係から、しばらくの間向きが続く。

そういう組織の馴れ合いや、仕方ないで済ませる無責任さと残酷さ、または死に急ぎの美学など、旧軍の嫌な部分を振り切って、合理的に作戦を立案
し、それを冷静沈着な態度で実行するのが、この映画内容です。


このように画面に進行方向を見出そうと自覚して映画を見ると、
自分が如何に先入観にとらわれたまま映画を見ているかが分かりますし、
また、映画製作もそのような一般的先入観を基盤にしてなされていることがよくわかります。

これは私たちのコミュニケーションの在り方そのものでして、
基本的に私たちは、先入観をたたき台に相手を理解しようとします。
先入観が一切なかったとしたら、コミュニケーションには何の指針も与えられなくなり、なかなか「理解」が進むことはありません。



傷病兵に生きる気力を振り絞らせるために、自決用の手榴弾を取り上げようとする軍医長・平田昭彦。その説得時、彼の向きは
世の中の常識的に絶対に正しいだろうことがなされる場合には、その画面の方向はポジティブな方向を示すのが普通。
この軍医による人命尊重の態度がポジティブに扱われていることは、このシーンに被さる荘厳なBGMからも伺える。


長距離移動が画面で語られない、主役が何を求めているのかが自身で不明、そのうえ主役が善人でもない、こういう映画の場合画面の進行方向を特定するのは、難しです。
いや、難しいというか、それを特定することに意味があるのだろうか?とさえ思えるのですが、

不毛地帯』1976年

常識的にポジティブであろうと思われるカット。

アメリカの戦没者墓地で、墓前で祈る老婦の後ろ姿を見る仲代達矢


自殺を既に心に決めた親友と友情を確かめながら夜道を歩く。

世の中、何が正しいのかについての価値観が揺らぐと、
主人公の立ち位置がよくわからないものになってしまいます。
何がポジティブで何がネガティブかが分からなければ、映画の進行方向さえ揺らぐものなのですね。
不毛地帯』は、実に淡々と物語が進行し、何を肯定しようとしているのかが見えないまま、状況だけが前へ進みます。

正直、この主人公像は道徳的に褒められたものではなく、友人の死因はほとんどこの人物に帰せられるべきであると私には思われます。


もみ消されそうになったロッキード社の事故のてんまつを、他社にリークすることで結果としてすっぱ抜くことになる新聞記者・井川比佐志
かれの猪突猛進的行動は、ほぼ淀むことなくで描かれる。

多くの物事の善悪が判断保留にされているこの映画で、ジャーナリズムやマスコミの人間への安易な信頼を画面が示していると私は感じ取ってしまい、なんか安っぽいと言わざるを得ない。

それと比べて、仲代達矢は、嫌々ながら戦闘機の入札に関わるのですが、その不快感がなんなのかを直視することもなく、なし崩し的に積極的に入札にまつわる機密漏洩事件を主導していくのだが、その過程の表情、ポジショニングを見ても、やる気があるのかないのかよくわからなくて、見ているこっちとしても爽やかな気分になれない。
『タクシードライバー』と同年の作品であるが、佐藤勝によるBGMはところどころが『タクシードライバー』のそれと激似している。そういえば、主人公が戦争帰りであり、戦場の影を引きずっている点でも激似であることに気づかされる。

山本薩夫は、このあと『あゝ野麦峠』など数本を撮影して7年後に死去。恐らく死ぬまでの画面進行で映画を撮り続けたと思われる。



『野獣死すべし』1980年  村川透監督作 日活で助監督からキャリアを始めた人物で、松田優作の代表作を監督しました。
これまた、戦場帰りの人物『タクシードライバー』的な物語であり、画面がどちらに進むのかが、なかなか見えない。



自宅でくつろぐ優作 ←




金、女、命懸けの犯罪行為、それらは日常の生ぬるさをどうしても受け入れることのできない「野獣」にふさわしいもの。
それらの中でこそ、初めて生きることができるので→、
しかし、題名にあるとおり、そのゆくさきはあからさまに死である。

この映画も、進行のようです


ただ、このような善悪の判断保留という画面進行は、見ていてストレスがたまるものではあります。
要は、監督の価値観がはっきりと述べられていないということですから、そのような答弁きいているとイライラするというのと同じことだと思います。



梟の城』 1999年  篠田正浩監督作

「北枕」シーンを見つける
秀吉の息子の病死シーン


画面進行を−>とした場合の「北枕」シーン。

一方こちらは「蘇生」シーン


鶴田真由の看病で中井貴一が治癒するシーン。

「北枕」の画面つなぎ編集を行なっている映画は、確実に画面の進行方向に自覚的な作品であり、画面の進行方向が−>か<−かを確定する作業は実に容易。

暫定的に正体を偽るシーン


今井宗久の家に鍛冶屋の身分で入り込むが、すぐに正体を見破られ、左右の方向転換がなされる。


梟の城』はそもそも、秀吉暗殺と物語の目的がはっきりしているので、主人公のポジションは八割がた

ただ、この映画の興味深いことは、99年とごく最近の作品であるにもかかわらず、進行の映画であるということ。

映画からテレビに映像制作の場が移る前にキャリアを始めた作家の映画は、大勢がに切り替わったあとでも、進行に固執していた、もしくは、今もしている、ことを示しているようだ。



どら平太』2000年 市川崑監督作
画面の進行方向がわかりにくいと言えば、この作品もわかりにくい。であるにもかかわらず、物語そのものは、大変わかりやすい。

四騎の会(黒澤明木下惠介市川崑小林正樹)による脚本であるせいだろうか、『椿三十郎』と『用心棒』的な要素が濃い。

主人公は、スパイのように自分の素性と本心を常に偽るのだが、その偽りの中にも放埒ぶりと快楽主義者ぶりが素直に発揮される。

「好き者で遊び好きで、堅苦しことが嫌いな正義漢」と主人公のことをみなせる場合は、画面の進行方向は難なく特定できる。しかし、その脳天気ぶりを素直に受け入れられない場合は、画面の進行方向が読めなくなること必定。
主人公に堅苦しい道徳を求めてしまうと、途端にこの映画が見えなくなってしまう。


女に弱い主人公。
内縁の妻に日頃のあそびグセについて激しく愚痴られて、それを聞かされる同僚。主人公には立場がない状況。


椿三十郎的なスーパーマンぶりで、世間知らずな若侍を軽くあしらう。
主人公には物語の成り行きが見えているが、若侍たちには何も見えていない。

進行の映画である。


篠田正浩でさえ進行の映画に固執していたが、それより16歳年上の市川崑は当然のごとく進行の映画を最後まで撮り続けた。
テレビ屋に対する軽蔑と、映画屋としての自負心からだろうか。