今年あと残り二か月。
わたくし、こんなブログをものしておりながら、映画館に今年も行かずじまいとなりそうです。
まあ、映画館に行かないのは何も私に限ったことでなく、
日本人の七割の人たちだそうで。
そして、いつの年のグラフか分かんなくなってしまいましたけど、これによると、
映画館文化を支えているのは、月一以上行く人たち計四百万人弱の人たち。
この人数、わたし的には、意外に多いように思われました。
まあ、でも、どうでもいいです。
なんか、映画って、もう終了したジャンルのように感じられて仕方ないのですが、
そう感じる者ゆえに、時折ぽつぽつと家で見たりする映画もなんか終末観をほのかに漂わせてるような、いないような。
こないだ伊豆に行きました。西伊豆の方は過疎っていてぽつりぽつりと老人がいるだけ、かつての観光施設が廃墟化して亜熱帯的自然の中に埋もれている。
それって、人口減ってインフラが維持できなくなって温暖化にさいなまれるであろう日本の未来の姿のようだと思ったりしました。
東京の高層ビルよりも伊豆の過疎った廃墟の方が未来の姿だと感じられてしまう2017年もあと二か月。
私、小説也映画也の題名は直球勝負的な分かりやすいもの以外受け付けないのですが、
『伊豆の踊子』って、小説読むだけだと、ダンスって見えてこないんですよね。
それはダンスについての描写が小説には無いってのもありますし、今の日本人には『伊豆の踊子』の踊りってどんなものなのかが映像で見せてもらわないともう全く想像もつかないようなものになってしまってるってのもあります。
吉永小百合の50年以上前の作品では、踊り子の踊りっぷりがしっかりと描かれていて、
初めて『伊豆の踊子』がどんな小説か分かったような気がしました。
田舎の温泉地巡りの旅芸人一座とはいえ、人前で日々パフォーマンスしてるんですからそれなりの華やかさ艶やかさが有るんですよね。
映画見るまで、それが分かりませんでした。
『時をかける少女』にも言えることなんですが、原作はこっちの作品でも短編かせいぜい中編で、
スカスカで具体的なことはほとんどはしょられています。
にもかかわらず何度も映像化されているんですが、
『時をかける少女』の場合ですと大林作品以降は、原作の再々々映像化というよりも、大林作品のリメイクという情況になりました。
つまり、スカスカな原作以上に一つの映像作品が古典化したってとこなんですが、
『伊豆の踊子』の場合ですと、この吉永小百合ヴァージョンが原作以上に古典化してて、それ以降の作品はこのリメイクのようです。
ちなみに、山口百恵ヴァージョン
歌もひどけりゃ、踊りもひどい。
山口百恵あたりからですよね、アイドルの低レベル化が顕著になったのって。
こりゃひでえ。
ていうか、吉永小百合って若い時はすごかったんだということがよく分かりました。