12歳の売春婦を13歳の少女が演じることは、非常にスキャンダラスで道徳的な是非を問われかねないもので、
この映画が1976年のカンヌ・グランプリを受賞した時には会場からブーイングが起きたとか、ジョディ・フォスターがアカデミー助演女優賞にノミネートされたことに対して脅迫状が届いたとか、いろいろありました。
マーティン・スコセッシにしても撮影現場で、デニーロのズボンを脱がせようとするシーンについてジョディ・フォスターに説明している最中にへらへら笑いだし、それがしばらく収まらなかったとのこと。
それに対して、ジョディ・フォスターは、
「どうせやらせの演技だから」と全然余裕。
あまりにえげつないカットに関しては替え玉使ってごまかそうとした。
体型の似ているジョディ・フォスターの姉、当時19歳が同じ衣装でスタンバイ。
しかしながら、この撮影の時彼女の芸歴はすでに10年。監督のスコセッシや主役のデニーロより業界に長い上、
演技って誰かほかの人が台本に書いたものを監督に言われるままにそれっぽくしゃべるだけ、
「はい、自然に見えるように笑って」
「はい、自然に聞こえるようにしゃべって」
役者稼業なんて、たいして面白くもない仕事だと思っていたとのこと。
演技を見ていて面白いと感じるシーンの一つは、
劇中で役者が演技している人を演じるという二重演技のシーンです。
演技している人を演じるという入れ子構造の演技ですが、それ、入れ子構造に見えるようにするにはどうしてるんでしょう?
相当に演技力ないと説得力でないですし、その上ちゃんとした演出プランが必要のように思われます。
ジョディ・フォスターが12歳の娼婦を演じているシーンですが、
12歳の中二病的女の子が娼婦を演じている、そのような役を13歳のジョディ・フォスターが演じている、とでも言うべきシーン。
「カモ~ン」
部屋に入ることをためらうトラヴィスにコケティッシュな甘ったるい声で呼びかける。
いかにもこの道のプロなんですよ、という感じ。
では、そのコケティッシュな声音がずっと続くのかというと、そうでもなくて、
「イージーって人の名前じゃないだろ。おまえの本当の名前、なんて言うんだ?」
少しでも大人びた声に聞こえるようにと、わざとらしくハスキーなしゃべり方。
この12歳の少女は娼婦の役を演じることがそんなに上手ではなくて経験値が低いことを表すために、コケテッシュな声とハスキーな声がちぐはぐになっています。
「アイリス」、自分の本当の名前をゴミ箱にでも投げ込むような彼女の手の動き。
このあともう一度トラヴィスのズボンを下ろそうとすると、彼に突き飛ばされます。
「ちくしょう、ちくしょう…」、そんなことを言いながらアイリスの部屋を一周するトラヴィス。
そこから後の展開は、アイリスにとっては完全に想定外で、仮面として演じていた娼婦の姿が剥がれ落ち、年長者から耳に痛い小言聞かせられているときのような戸惑いの表情けなんですが、
私には、ここからの表情がものすごくリアルに見えるのですね。
これまでの娼婦っぽい演技って、言葉で説明するのも簡単な分かりやすさがあるじゃないですか。
恐らくスコセッシが彼女に言葉で説明したんだと思うのですが、
そっから先の戸惑いの演技については
アイリス的には想定外の事態になって戸惑っている、
ってのと、
ジョディ・フォスター的にはどう演じていいのかいまひとつ分からなくて戸惑っている、
というのが重なっているように見えるのは私だけでしょうか?
Jodie Foster Inside the Actor Studio Clip-Taxi Driver - YouTube
ジョディ・フォスターがインタヴューで語っていますが、
彼女にとってこの午後一時半の朝食のシーンの撮影は人生の分岐点の一つだそうです。
この午後一時半の朝食のシーンの練習もかねてデニーロに食事に四日続けてつき合わされたそうですが、
初日は彼は全然話をしなくて、つまらなかったそうです。
二日目は映画と同じ台詞を喋らされながらの食事。そんなもんとっくに覚えてたからやはりつまらなかったそうです。
三日目も二日目と同様。それで非常につまらなかった。
四日目には、「アイリスとトラヴィスだったら台詞以外にどんなことしゃべりながらご飯食べるの?」とアドリブを延々とやらされたそうで、
その時、聡明すぎる13歳は理解したそうです。
役者の仕事とは、与えられた台詞を喋るだけではなく、与えられた役に血肉を与えること。
この役だったら、こんな人生観もってて、映画で映っていないところではこんな風に行動して、こんな風に喋って、泣いて…
役者って面白い仕事と考え改めたそうです。
こうして見ますと、
デニーロが前のめりになっていて、ジョディ・フォスターは気圧されているのが二人の姿勢からわかります。