ロッキー

映画というのは、人物を画面の左右のサイドに割り振り、それらを互いに争わせる性質を持っています。

それがもっとも顕著に現れるのが戦争映画ですが、ボクシングというのは、個人間の戦争ともいえるもので、これも映画にすると非常に分りやすい構造を持つ事となります。



対立する人物を赤コーナー青コーナーに配し、それらを相争わせるのですが、
外国映画は、画面がー>方向に流れるのが基本ですから、
普通ならば、赤コーナーが勝利する事になります。

ここで使用する−><−、ポジティブポジション、ネガティブポジション等の用語は、自分の個人的造語であり、以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。




また、
前回の『あしたのジョー』の話でも書いていますが、ボクシングを映画化するときには、
赤側に強い選手をおいて、青側に弱い選手をおくのが基本となります。なぜかというと、基本の構えに於いて、青側の選手は背中ばかり映る事になりやすいためです。

強い選手を強く映すには、胸元まではっきり映り、構えやパンチの様子が分りやすい −>
サイドに配置するのが常道です。

ロッキー・シリーズは、映画のクライマックスが強敵との試合というワンパターンな構成ですが、ロッキーは常に弱い立場の、<−青側に配置されます。
あと、ロッキーはサウスポーだと言う設定もありますけれど、
ロッキーの試合って、常に圧倒的不利を根性で覆す類のものだから 逆境ポジションである<−が彼には似合うのです。



ボクシング映画の面白いところは、試合の時には誰の目にも赤コーナーと青コーナーがあることは分りますが、それが映画を通じて画面の中に、青コーナーと赤コーナーが存在する事をちゃんとわたし達に教えてくれる事です。ボクシングの試合そのものは20分足らずですが、映画全編が、ある意味試合そのものなのですよ。




ロッキーが敵に殴りつけられる時は <−向き。


ロッキーが敵を殴りつけるときは −>向き。



この方向性は、ボクシングの試合のみならず、彼の生活全てに敷衍化されています。

彼の日常生活が、彼を打ちのめしている時には <−向き。




ヤクザの借金の取立てをしている時は、<−
本当はこんな仕事したくないんですね。


「12でこんな事やってりゃ、40になってバイタって言われるんだよ」
ロッキー根はまじめな人ですから。
近所の子供に説教するんですが、あんまり聞いてもらえません。


タリアシャイアをデートに連れ出して、スケートリンクで語るロッキー。
「ボクシングは趣味にとどめて、もっとましな仕事しようかと思う」
タリアシャイアあんまり盛り上がっていないですから<−向きってのもあるでしょうが、
ボクシング止めて、お前どうすんだよ、ってとこです。


骨折した指の話から、かつてのベストな試合の写真をタリアシャイアに見せるロッキー。
盛り上がらないデートの時、ここだけ−>向きに画面が変わります。
こういう画面の方向転換をされると、ロッキーはボクシングが大好きで、ぜったいボクシングを放棄したりはしない、と見る側は感じます。

自分は、何度も書いていますが、こういうささやかな表現で、登場人物の潜在意識や、未来への予感を表現する事は映画以外では出来ないんじゃないでしょうか。小説?多分無理でしょう。無理じゃなかったら、小説ってもっと売れてるでしょ?
舞台演劇?絶対無理。




世界タイトル戦が偶然舞い込んだ後、トレーナーがロッキーに自分を売り込みに来ますが、
「今までお前は何してくれた?俺が有名になったらのこのこやってきておべっか使いやがって」と怒ります。
その時のロッキーの向きは <−

しかし、言い過ぎた、と感じ、うなだれてとぼとぼ歩いていくトレーナーを追っかけるシーンは −>

ロッキーを見ていて感じることですが、どうやら世の中には二通りの映画があるらしい。
ひとつは、観客に共感を求める映画。
もうひとつは、観客に共感する映画、つまり観客の求めるものを与える映画。

『タクシードライバー』のような映画、もしくは芸術性の高いと言われるような映画は、主人公や状況がどこかいびつで異常であり、そこに観客が入り込むには、主人公等に共感する必要があります。


それに対し「ロッキー」は、観客が望むところのものをあらかじめ予測し、しっかりと与えてくれるのですね。

ロッキーがボクシングあきらめたらやだな、とか、ロッキーがチンピラ家業しているのって嫌だな、とか、ロッキーが冷たい人間だったら嫌だな、とか、そういう一般人の望みに一々応えてくれれているわけです。そのつどそのつどストーリーの展開として応えていると言うよりかは、さしあたっては、画面の左右の向きを切り替えて、映画の観客に対する思いやりをマメに示しています。


ファンファーレと共にトレーニングする場面。
高架線の電車は−>に走りロッキーを祝福します。


ついでに、工場の煙突の煙も−>に流れロッキーを祝福します。

ロッキーのテーマは、いや、結果としてロッキーが描いてしまったものとは、ベトナム戦争で荒廃したアメリカの精神と経済を、チャレンジャー精神に立ち返り建て直すことであり、
ロッキー個人のサクセスストーリーのように見えはしますが、彼の挑戦と成功は其の他のアメリカ市民(基本的に負け組み白人ですけれど)への応援歌となっています。
そんなんだから、スラム化したフィラデルフィア市街地をロッキーが走る時、みんな彼を応援してくれるのですが、
でも、ロッキーを応援してくれるのは市民の皆様だけではなく、高架電車とか工場の煙でもあるのですね。


ただ、ロッキーは、一人孤高に<−の方向に向かいます。


港で走る場面も、<−と逆向きなのですが、これは、彼のタイトル戦があくまでも勝ち目の薄いチャレンジである事を示しています。普通にやったら負けるに決まっているじゃないですか、だからそういう流れを逆流させるべく、逆向きに走るシーンが無いとダメなんです。

そして、<−向きに走る向こうにいるのはチャンピオン。


チャンピオンの方は、基本−>側です。「ロッキー」は勝ち組を−>サイドに配します。




フィラデルフィア市庁舎の階段を駆け上る場面。
これは、ロッキーがタイトルを取ることに対してのイメージトレーニングですから、彼が頂点に立つ事のイメージトレーニングですから、ちゃんと−>向きに走っていかなくてはなりません。
ロッキー自身のイメージトレーニングと言うよりかは、観客にとってのイメージトレーニングですかね、トレーニング始めたばっかりのことは、息が切れて上れなかったのに、今は、軽やかな足取りで上っていく。パンチが強いだけのフットワークのダメなボクサーも、この調子なら勝てるかもしれない、そういうイメージトレーニングを観客にさせているわけです。

そして面白いのが、この市庁舎のギリシャローマ風のデザイン、そして市庁舎前の道路もやはりギリシャローマ風デザイン。

ロッキーの描いた世界は、ベトナム戦後の退廃したアメリカにチャレンジャー精神を呼び返し、それによってアメリカを復興させるというもの。
具体的にどういうアメリカを復興させようとしたのかと言うと、白人主体の古きよきアメリカです。
そして、古きよきアメリカを具体的な形にすると、ギリシャローマの復古調になるのですね。
アメリカとは現代のローマ帝国である。日本人はこのことあんまりわかっていないですが、アメリカ人の精神の痛々しい部分ではあります。
なんで彼らの国会議事堂や大統領官邸がギリシャローマ調なのかとか、どうしてローマと同じ鷲をトレードマークにしているのかとかはそういうことなんですが、
そういう点に関しては、ナポレオンもヒトラームッソリーニもアメリカも同類のイタさをもっています。まあ、みんなお仲間なんですね。


トレーニングコースには、水道橋も出てきます。