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『十戒』 33年間で映画はどう変わったのか

はじめにこっち(映画の抱えるお約束事)をお読みになるとよろしいかと思います。以下の内容の理論的前提になっておりまして


セシルBデミルは1923年と1956年に『十戒』を発表しております。

自分で監督した映画を33年後にリメイクしたわけですが、最近で言うと『エヴァンゲリオン』も同じなんですけれども、
エヴァンゲリオン』の場合は、製作資金と製作期間が潤沢になったという以外、取り立てて革新的な技術の向上というのはみられません。

微妙な感触の違い、10年以上たって主要観客も大人になったゆえ、キャラクターも少々大人に成長した、ということくらいでしょうか。

それはスタッフが怠けていたというよりも、映像表現に於いて技術進歩が頭打ちになっていることを示しているに過ぎません。


それと比べると、『十戒』はセルフリメイクとはいえ、二本には大きな差があります。

一本は白黒のサイレントフィルムであり、もう一本は音声と色彩が付いた現在と同じ形式の映画です。
二本見比べてみると、サイレント映画は映画とはいえども、現在の普通の映画とは全く異なる表現であるのが分ります。
正直、2ch用語で言うところのオワコンというやつでして、古典絵画や古典音楽、もしくは近代文学というものと同じニオイのするものです。


台詞無いですから、大げさにパントマイムで演技しないといけないですし、
さりげない通行人がキーになるようなことをボソッとつぶやいたりもしません。
色彩ない上に感度が悪いですから、主要人物目立たせるために大仰なメイクしたり特異な衣装を着せたりしないといけません。普通にしていたら女の人みんな同じ顔に見えてしまいます。
だから登場人物に於いて個々の区別をつけるには、衣装と美形かブサの区別だけでつけることになり、多くの登場人物を絡めて行くことが出来ません。
また、BGMもあんまり重視されていなかったようで今現在youtubeにアップされているものは適当に音楽が付け直されているものばかりです。

現在の映画のサブリミナル的な技法はほぼ封じられていますが、それら以上に大きい問題は、個々の人物が台詞を語ることが出来ないので、物語がほとんど語れないことです。
複雑なストーリー、特異な人物の特異な感じ方を表現することは不可能でして、出来ることというのは絵本の挿絵を動かすようなことに限られます。

セシルBデミルの1923年の『十戒』ですが、十戒のストーリーを知らない人にとっては、よくわかんないんじゃないですかね。ていうか、モーゼが何やったか知っていることを前提とした映画で、ストーリーを語るのではなく、スペクタクルのみを映像で見せているだけのように思われます。

そのせいでしょうか、1956年版の『十戒』と違ってモーゼが神と対話して救世主になる以前のエピソードは全く描かれておらず、モーゼのなした奇跡だけが絵本の挿絵のように描かれています。


私のように映画の歴史研究しているような人間にとっては面白い映画ですが、正直、こりゃ、オワコンですわ。
能の愛好家とサイレント映画の愛好家の数なんて似たようなもんじゃないでしょうか?オワコンオワコンとして楽しめる「ツウ」だけのもんでしょう。



それと比べると、1956年の『十戒』は非常に面白いのですね。1923年版と比べて何が面白いかというと、セットの趣味の悪さ以外の点ではすべて前作を上回っています。
物語複雑ですし、役者の個性ははっきりしていますし、4時間退屈せずみる事ができます。
私、実は、『十戒』のことを、ハリウッドのユダヤロビー達がごり押した痛々しい企画だろう、とずっと思っておりまして、最近までみた事無かったんですが、
そういう、しょうもない映画とは全くレベルの違う大作でした。

ウィキペディア読んでみると、セシルBデミルって、スキャンダラスな要素の濃い映画をとる人らしくて、道徳的な批判に晒される事態を避けるために宗教的テーマを取り上げてごまかそうと『十戒』撮ったらしいです。
だからでしょうか、1923年版にしろ1956年版にしろ、説教臭さあるいはユダヤ精神高揚というものはまるで感じられません。あるのは、エログロと大スペクタクル、それに考えさせられる人間のサガについてでしょうか。

映画の裏話とか書くのがこの電波ブログの趣旨でもないんで、いつもと同じ事を語りますが、

この二本を比べてみると、面白いことが分ります。

ユダヤ人がモーゼに導かれてエジプトの都の門の外に出るシーンですが、
二つの映画では、シナイ半島目指して進むユダヤ人の向かう方向が逆になっています。


モーゼは<−−の方向に進む


いっぽう56年版では−>の方向、通常の映画の進行方向に沿った向き。

このことはどういうことかというと、23年の段階では、画面の進行方向を−>に設定するという手法がまだ一般的でなかったということです。

私がこの電波ブログで主張している、映画全体を貫く方向というのとはちょっと違いますが、
イマジナリーラインと呼ばれる映画用語ですけど
画面の左右にそれぞれ配置された人物を一つのシーンに於いて位置入れ替えたりすると
どっちがどっちだか分らなくなるからダメだというお約束事があります。
逆に言うと、ポジショニング入れ替えたら、何か状況が変化したとみる者には感じられてしまいます。


このお約束事は、非常に有名であり古くからあるものでして、ビデオ撮影のマニュアル本にも出てくることなんですが、
実は、この左右のポジショニングや方向が映画全編を通して貫かれていることを知る人はほとんどいません。そして敢えて状況や心理の変化を表現する為にポジショニングを入れ替える技法が使われているのですが、
昔の映画では、そういうことってどうでもいいことだったんですね。
今の色と音のある映画と比べると伝えうる情報量が少なすぎて、そんな細かい演出法に気を配っても報いられるものが少なかったからでしょう。

その場面その場面で方向が決まっているだけで、全編を通しての方向なんてどうでもいいと考える映画が多かったのです。



その点以外で『十戒』の非常に面白い箇所と申しますと、
1956年版では出エジプト−>の方向になされるのですから、彼らの目的地エルサレムは画面の右端の奥にあるのですが、そしたら彼らの神ヤーヴェも同じ方向にいるのでしょうか?

逆境・異郷
映画の進行方向が−>と設定されているとき、その物語の目的を追求するのが主人公の役目なのですから、通常主人公は−>側を向いて、その方向に進みます。
そして、主人公が<−向きのポジショニングをしているときというのは、何らかの原因で目的を追求できない状態であるということを示しています。
状況があまりにも厳しいものであるとか目の前の相手があまりにも強力であるとかの場合ですが、
興味深いお約束事的用法でいうと、異国に入境するときは主人公は<−向きになることが多いです。
言葉習慣風俗の異なる異郷における自由に振舞えない不随意さとこの逆向きは親和性が高いからでしょう。
また上司の部屋に入室する場合も<−の逆向きは頻繁に使用されます。恐れ多くかしこまって猫かぶっているような状態というのも、目的追求にそむいた方向と親和性が高いからでしょう。

このように考えていくと、映画とは世の中の万物を二つのベクトルに因子統合していく作業のように思えてきます。

まあ、それはいいとして、
モーゼが神と対話する場面ですが、

モーゼは<−向きです。
人間にとって神の領域というのは究極の異郷でありますし、神とは人間にとって究極の上司とも言えるわけでして、
神との対話シーンは、主人公が逆向きになるというのは非常に理屈にかなったものといえるのでしょう、


高畑勲の『思いでぽろぽろ』でも似たようなことが行われています。


この出エジプトの話の異様なところは、紅海を渡ってエルサレムにたどり着くまでに四十年間砂漠を彷徨って、戒律を守れないダメ人間を根絶やしにしたという鬼畜なラストなんですが、
高々300キロ程度の距離を40年かけて彷徨い、その間の食料はどう調達していたのだろうなど、いろいろ不可解な点が多いんですが、まあなんかの状況を比喩的に表現しただけだろうとは思いますけれど、このとんでもない迷走っぷりが、
目指す目的地の方向が−>であるのに、その約束の地を授けるはずの神が画面の左端のほうにいるという食い違いに似つかわしく感じられます。

エジプトの都の門から解放されたユダヤ人の群れが嬉々として出て行くシーンがありますが、その中には担架に担がれた身障者や盲人も含まれておりまして、
普通の人は進行方向を希望に満ちた表情でみているのですけれども、盲人は逆の方向を向いています。
普通の人と別の方向を向いていることで、彼らが盲人であることが非常にはっきりと観客に示されることになるのですが、それだけではなく、神の姿というのは肉眼で捉えることが出来ず、心の目でしか捉えることが出来ないというメッセージと私は受け取りました。

この盲人の見上げる方向が群集の進行方向と食い違っているという表現は23年版の旧作、56年版の新作の両方にみられます。

以下の画像は23年版のものですが、モーゼに導かれて進む方向が<−であるのに、盲人があり難そうに見上げる方向は−>と食い違っています。


つまり、彼らが向かう方向に神は待っていない。神の元にたどり着くには延々と迷走する必要があるとでも言いたげです。


前にサッカー中継と映画の類似性について書いたとき、サッカー中継と映画の違いはハーフタイムでサイドチェンジをするかしないかだけ、と私は書いていますが、

サッカー中継と映画の関係

『十戒』のように4時間以上もある映画だと、途中でインターミッションが入ります。
映画でありながらトイレ休憩が設定されているわけですが、非常に興味深いことに、チャールトンへストンのキャラが、このインターミッションの前後で一変することになります。

前半部での彼のキャラは、非常に優秀な青年でありつつもその出自の問題から全てを失い砂漠を放浪するものとなります。しかしk後半からは、神の意向の代弁者として画面上のポジションを<ーに変えます。

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