第三の男 画面を傾けること・その1

階級社会というのは、基本的に大衆が馬鹿にされるのが普通です。
中国に行くと低学歴者はどこに行ってもまともに扱ってもらえませんし、インドに行くと肌の色が違うと人間扱いもされません。

イギリスはと申しますと、大衆のレベルはこの程度と見切ったような文化が生まれ発展しています。
その一つが推理小説で、頭いい上のほうの階級が下っ端の下層階級の無教養な連中と遊んでやっているというもんなんですが、

推理小説は完全に作家が管理した世界であるにもかかわらず、読者は自分が謎解きに参加しているような錯覚を得る場合があります。そして、何か怪しいぞと目星をつけながら読み進め、犯人がその意中の人物と一致した場合『俺って頭いいよな』みたいな喜び方をしてしまったりしますが、普通書く側は、7割くらいの読者の『推理』が的中するように物語を組み立てます。
いわば、よちよち歩きの赤ん坊の相手をするみたいに何から何まで面倒を見てもらっているわけですが、

探偵が常にシャーロックホームズのように天才だと、書くほうはトリックの仕組みに集中できるのですが、もし仮にワトソンのような凡才が探偵になると、探偵にデータを収集する能力が無いわけですから、そうとうに物語の構成が複雑にならざるを得ないのですね。
ひどい場合になると「アクロイド殺人事件」という物語の叙述者が嘘言っていることもあり、そうなると推理小説ってのは成り立つのか成り立たないのか未だ論争が行われたりします。

映画に於いて凡才が探偵をやるとどうなるか、ということですが、謎解きに参加することは最初から断念して、物語をたどる事に専念すると、けっこうすんなりとまとまります。


第三の男」ですが、オーソンウェルズについて嘘の証言をする人たちの画面は、全て傾いた画面で提示されます。




人物の胡散臭さと、画面の傾きは、だいたい比例関係にあります。

タネを明かされると、あまりにも単純な事なのですが、そうと指摘されない限り、なかなかそうとは気がつきません。
ただ、何か怪しいな、胡散臭いな、という感じがするだけなのです。

更にいうと、ジョセフコットンが、警察にオーソンウェルズのことを気のいい友として語るとき、
やはり、画面が傾いています。

オーソンウェルズがキャスティングされている時点で、もう誰が犯人かほとんどの人に分ってしまうのですから、
無理に謎解きの体裁を繕っても意味の無いことなのですけれど、
探偵のいない推理小説、「第三の男」は、そんなところです。