原田知世、
剛力彩芽ととことん似ている。
それだったら、剛力彩芽で時をかける少女をリメイクできるのかというと、
今の時代はそれを許してはくれないでしょう、というか、今の時代だったら原田知世の『時をかける少女』でさえも許してはくれないでしょう。
それゆえ、この後何度も『時をかける少女』は作り直され続けているのですが。
『時をかける少女(原田知世版)』を見ていて、うなったのですが、
この映画、タイムトラベルによる時間のゆがみを画面の進行方向とどうからめていくかという問題以前に、
まず、映画の時間配分がとんでもなくアナーキー。
タイムリ―プと論理的整合性についての知的ゲーム要素なんて、この映画のどこにもありません。
「時をかける少女」という題名にも拘らず、タイムリ―プそのものに話ががっつり取り組むのは、なんと映画始まってから45分後。
ちなみにこの映画1時間47分しかありません。
映画の半分近くをタイムトラベルと無縁で物語を流しておいて、それではいったい、この映画の前半は何を描いているのか?
といいますと、年頃の女の子のむせ返るような香気、それのみ。
ほんとにびっくりするくらい最初の45分間は物語が全然進みませんし、画面上にもベクトルがほとんど感じられません。
ノスタルジーをそそるようなうつくしいBGM 廃墟と紙一重の尾道の坂の町並。 ある種のホラー的な味付け。
それがだめなのか?といわれると、
別にそれは十分にありなのです。
そしてこの映画は制作条件として アイドルを売り出すという前提があり、
最初の45分間で、ノスタルジックな純情の中に生きうる美少女を描き続けているのですが、
でも、その女の子(1983年の原田知世)は今でいうところの剛力彩芽とそっくりで、
それ故に、「なんか違うだろ!」とお思いになられる方もいらっしゃるとは思います。
まあ、当時の原田知世は、今の剛力彩芽ほどお茶らけた芸風ではありませんけれども、
それにしても、この原田知世の演技どうよ?と思わせられることしきり。
最初の45分に関しましては、
超絶な棒です。
にも拘らず、時折、演技教育の集中コースを受講した成果や、思い入れたっぷりの監督からの演技指導の痕跡みたいなものが挿入されており、それがまた見ていて痛々しい。
この映画観ていて私が思い出したのは、20年ほど前のAV女優の演技。
芸能人になるためのステップとか言われて、何となくだまされるようにAVに出演してた女の子たちの演技。
20年前のAVって今のとは違って一本45分くらいでした。そのうえ、必ず物語がAVの中にあるのですよ。
今のAVだと、コスプレ的な設定がなされると、あとはやるだけで2時間というものばかりですが、
古のAVは短編映画のような趣でして、
これは、かつてのAVが日活ロマンポルノの路線を踏襲していたのだろうと、日活ロマンポルノを見たこともないのにそんな風に私は思っているのですが、
ただ、かわいそうなことにAV側の人たちには演技の集中レッスンもなかったでしょうし、監督からの思いれたっぷりな演技指導ってのも効果的には為されていなかったのでしょう。
まあ、そんなことをつらつら考えていますと、
女の子の可愛さだけで見続けられるのは45分辺りがギリなのだろうな、と。
では、『時をかける少女』では、45分以後の展開はどうなるのかと申しますと、
タイムトラベルの問題にどっぷりはまる30分。そのあと推理小説よろしく物語のアリバイと犯人を説明するラストの30分、となります。
はっきり申しまして、さいごの30分はどうでもいい出来です。
この映画で一番すぐれているのは、タイムトラベルの問題にどっぷり取り組む30分間で、
その時間帯では、物語が気持ちよく進行します。
アニメ版でもリメイクされた牛乳を飲むシーン。
妹がかわいい というアニメ版の設定も映画に既に出ている。
原田知世の演技は超絶な棒、 と上の方で書いてますけれども、
妹と絡むシーンでは演技がものすごく自然で好感度高い。この人子ども好きなんかな?
タイムリ―プに目覚めてから、時計が気になる。
街角の柱時計の針がとびかかってくる幻想のシーン。
少々上目づかいだと目の小ささがカバーされる、
こうしてみると、うむ、美少女だ。
この映画、83年の映画で、結末が現代に跳んだのが10年後でしたら物語は73年を舞台としているらしいんですが、
それにしても、「ももくりさんねんかきはちねん…」とかでバカ受けする高校の教室っていくら何でも無いだろう、神話的牧歌的世界だよな、というか見てて猛烈に気恥ずかしい。
「桃栗三年柿八年…」大林監督自ら気合を込めて作詞作曲。
BGMがどれも品が良いのに、
この挿入歌もそういう上品なものにそろえることできなかったんでしょうか?
おひな様の日に「桃栗三年…」の歌うたっていたら鏡を倒して指を切る。
ついでに不用意に男の子も怪我に連座。
以下の内容を読まれるのでしたら、こちらbaphoo.hatenablog.com
と、こちらbaphoo.hatenablog.com
をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
なぜだか自分のことを考えるのですが、
自分がこの男の子の立場だったら、まず大人さがしにいくことで、怪我した女の子のいる現場を放棄してしまうだろうな、そんで美少女から慕われるきっかけをなくすだろうな、と思うのですが、というかこんな風に感じてしまう時点で映画の世界に取り込まれてしまってるわけですが、
医療的効果のほどは不確かながら、怪我と血におびえる少女の心をなだめるには効果抜群?
と同時に、
相手の体の一部を口に含む行為にあるエロちしずむ。
ここで女の子が←とさっきと左右の一が入れ替わります。
怪我と血へのおびえを克服したうえで今度は、男の子が示したやさしさとエロを今度は自分から示してみた、という場面。
タイムリ―プに話が進むまでの45分間は、物語が進まないんですから、
画面上に方向が見えてきません。こんな時間配分ですから、時間のパラドックスを論理的に語る気持なんかなくて女の子の魅力映せればそれでOKみたいな映画でして、
あんまり気になる画面の左右転換の操作ってこの映画にないので、
それゆえ、このひな祭りのシーンは目立ちます。
それ以外に目立つシーンは、この屋根瓦の落ちてくるシーン。
ワンカットだけ←方向に河原が動く。
画面の進行方向に着目していると、この二つのシーンが目立ってしょうがないのですが、
案の定、この軒下で、ひな祭りの場所にいたのは尾美としのりの方だったことがあかされます。
この瓦のシーン、瓦って何意味してんの?ってことですが、
何とでも解釈可能なだけに、
重層的な意味を必然的に担いそうです。
まあ、
偶然原田知世とカラダ密着させた尾美としのりのドキドキ感が、
愛を求めてやまない原田知世の心の真実を自覚させた。
そして自分の求めるところが分かった女の子は、もう一人の男の子のほうに走っていく、
こんな解釈でも別に不都合はないでしょう?
「ごろうちゃん、ありがとう、さよなら」
随分とひどい言いぐさですが、
尾美としのりは大林宣彦の分身として長い間彼の映画に出ていましたが、
大林監督もこのようにもてない半生送られてきたのでしょうか。
ここで映画はほとんどお仕舞です。残りの時間は、推理小説の犯人と犯行の動機を明かすかのようなつじつま合わせ。
市川崑の横溝正史シリーズ思い起こしてみると分かりやすいんですが、
「僕が全部犯ったんだ」と告白する実行犯って、演技力達者な人に限られるわけでして、それゆえ推理小説の映画化って、役者の演技力から、犯人の目星がついてしまうのですが、
この男の子に「僕は実は未来人なんだ」って技量的に無理。
表現欲求のサガみたいなものも感じられないので、役者続けなかったのは正解でしょう。
前回のアニメ版の話しの時に、
『時をかける少女』なのだから、女の子は走るのが正しい、みたいなこと書いていまして、
筒井康隆の原作は魅力的であるゆえに、なんどもいろいろな人に映像化されることになったのですが、
そのたびに、原作の中にある花開いていない蕾みたいなものが、
ひとつづつ開花していくようなイメージをわたしはもっているんですが、
原作って、タイムリ―プの解説が占める割合が多くて、恋愛話はほんの少しばかりとってつけたような扱いでした。
それをこの映画では、丹念に掘り下げ、三角関係の物語として成立させたのですが、
その点から見ますと、アニメ版はこの原田知世版に非常に多くを負うている、もしかすると原作以上に負うているかもしれません。
この映画における「時をかける」とはどういう意味なのか、と考えるに、冒頭のシーンがすべてを物語っているように私は感じられます。
家に帰る電車。季節が冬から春になることを、少しずつ画面に色づけしていくことで表現。
一続きの流れを画面は示すのですが、
原田知世のセリフにもある通り、寒い場所から暖かい場所へ移動すると、季節が一息に切り替わったように感じられるものです。
それと同じで、思春期の女の子は、あることがきっかけで急に子供から大人になってしまうものでして、その急な変化というのは時計ではかれる客観的な尺度からすると一種のタイムリ―プみたいなものなのでしょう。