脳内キャスティング 『時をかける少女』

最近気になってならないことなのですが、

小説読むときに、みんながみんな、頭の中で映画のような視覚イメージ化を行っているのかどうなのか?
平均的な人が行っているとして、大体どの程度のレベルまでやっているのかということなのですが、

その際に、ものすごく気になるのが、女の子のルックスの描写なのですが、


まあ、なんで気になるかというと、私にとってこの世で一番気になるものだからだと思うのですが、



時をかける少女』で行きましょう。筒井康隆

主人公はどんなルックスなのか?
実際のところ小説にはどのように書かれていたか?
そして、読んだ私はどのようなイメージを持ってしまったか?



こういう人とか

こういう人を思い浮かべながら小説読む人は必ずいると思います。

映画を追体験するために小説を読むというやり方、ビデオが普及する前には角川文庫が映画と抱き合わせの小説販売を盛んにしておりまして、
角川映画において小説ってそういう風にビデオの代用品として利用されていたんですね。


そんで、小説のルックスの描写と俳優に大きなかい離があるとそれで、ビデオの代用として使いにくいものになってしまうのですが、

時をかける少女』に於きましては、ほとんどルックスに関する描写がありません。

「芳山君というのは、優しくてかわいいけど、少し母性愛過多なんじゃないか?」と吾郎の台詞。


母性愛過多という言葉から、少々むっちり系の体型を私は思い浮かべてしまいます。それで可愛い。
むっちり系というと、やたら細身のアニメのにはあまりそぐわないのですが、原田知世の方は合格でしょうか。

しかしながら、母性愛過多という言葉から胸の大きさをすぐに連想してしまう男は一体全体何%位なものでしょう?



そして、それ以外は別にルックスに対する描写って何もないんですから、読んでいる人が勝手に想像妄想すればよろしいのでしょう。

ただし、この小説ジュブナイル小説ですから、挿絵入れること前提としてたようなんですね。

理科室で倒れる序盤のシーンで、一枚目の挿絵が入ります。

この女の子のイメージ振り払って全く別のタイプの女の子を妄想しながら小説読み通せる人は、相当な集中力の持ち主であると私は思うのですが、
大抵の人は、この挿絵とかち合うことのないイメージの女の子を思い浮かべつつ小説読むことになると思います。


こう考えると、小説に挿絵入れられたり表紙描かれたりすることって、小説家にとってかなりのすとれすのようなきがするのですが、どんなもんでしょう?


小説って、一旦読者の妄想裡で登場人物が根付き始めると、
中盤になって、「実のところ、女の子の身長はあなたが想定しているよりも5センチ以上高いです」とか「じつは一重瞼の能面づらなんです」とかそういう訂正を与えることができないんですね。

これ、四ページ目の挿絵なんですが、この辺りで主人公のルックスのイメージって脳裏で固まっているのが普通なのでしょうか。

だから序盤で、くどくないやり方で ヒロインのルックスの描写をしないといけませんし、
そうでなかったら、そういうの一切放棄してしまうという手もあります。

小説でも映画でもいいですけれど、
恋する女の子ってブスいるわけないですし、ブスを主人公にする場合は、非常に細かい言い訳描写が挟まれるのが普通です。

そういう一般人の先入観に基づいて、小説は女の子の外見の描写をはしょりまくり、
読者は、そのヒロインの行動パターン、口調から、その小説のヒロインをキャスティングしていくわけになっているようです。
しっかり者で、たぶん胸の大き目の美少女を、自分の知り合いの女の子や好みのアイドルから選択して、脳内イメージを作り上げて小説読むんだと思うんですが、


そこまで踏み込まずに小説読む人もいるんでしょうか?

読んだ人が何故に脳内のイメージを動かされたかについてほとんど問うことのない文芸批評って、私にとっては、ほとんど何の興味も湧かないものであります。