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映画が抱えるお約束事

1章 映画が抱えるお約束事

Ⅰ 映画が抱えるお約束事



映画とは、対象を撮影している過程で結果として画面が左右に動くというものではありません。
素人のホームムービーとは違います。

あらかじめ画面の右なり左の先に、ゴールがあると仮定して、そこに到達するまでの葛藤を左右への動きで表現するというものです。

月世界旅行』   メリエス

映画ができたばかりの時代の この短編映画は、画面向かって右側に月世界があると想定されています。
そして、そこまでの行程は  向きの移動で表されており、月からの帰還は逆の ← 向きの移動で表されています。

つまり画面のイニシアチブを握っているのは、被写体ではなくカメラであり、画面に映るものは基本的に撮影する側によって管理されたもの、もしくは編集の過程で管理されたものでもあります。

2001年宇宙の旅

こちらは月面基地から木星に向かう宇宙船ディスカバリー号。画面に気を付けていると、その進行方向はひたすらであることがわかります。

特殊撮影技術ではこの二作品は雲泥の差ではありますが、目的地はの彼方にあり、そこから地球への帰還は方向になされるという点に関しては何ら変わりはしません。






一貫した目的地を追求する場合、その人物の進行方向は画面上同じである。



そして、もう一つ重要な映画画面の特徴というのは、同じ価値観、同じ内面を持つ人物は同じ方向で表現するというものです。

孤立した邸宅  グリフェス

邸宅に強盗が押し入る話ですが、強盗→  ←家人 で左右に分かれてあたかも陣地戦のような画面です。


『サウンドオブミュージック』

修道院で奔放なジュリーアンドリュースを弁護する側が、批難する側が


頑ななフォントラップ大佐の心を矯正するために歌う子供たちは、その対象である大佐は

E.T.

空を飛んで逃げようとする自転車、それを捕まえようとする警察は

燃えよドラゴン

自分の妹の仇と対決するブルースリー

≪関連≫ ブルースリー

『生きる』

末期ガンの患者志村喬が人生の目的を見出したいと苦悩する場面。その状況にどう対処していいかわからない女の子は、おしゃれな店に冴えないじいさんと同席していることが少々辛い。自然と同世代の恋人に羨望の視線が流れる。

≪関連≫ 『生きる』


オズの魔法使い

エメラルドシティーを目指すドロシーは方向に画面を進む。そして、彼女の同行者、トト、かかし、ブリキの木こり、ライオンも同じ方向に進む。



スターウォーズ



後にミレニアムファルコンに乗り込んで共に戦うメンバーは、別々に画面に登場してきます。しかしながら、彼らが皆自由の闘志でありのちに共同して戦うことの画面的伏線として、彼らの初登場画面では、皆例外なく方向です。

ちなみに、『スターウォーズ』は『オズの魔法使い』の構造を取り入れたと言われており、ドロシーはレイア姫、トトはR2D2、ブリキの木こりはC3P0、ライオンはチューバッカと言われているから、じゃあ案山子は誰なんだろう?服装から考えて、オビワンだろうなと思うのだが。
まあ、どちらにしても歴史が200年ちょっとで過去にファンタジーの世界を見いだせないアメリカの辛いところがミョーな痛々しい妄想力につながっている。
オズの魔法使い』は西遊記不思議の国のアリスを足して割った内容ですが、エメラルドシティを統治する魔法使いは単なる機械使いのハッタリ男。近代200年の歴史しかないアメリカらしい身も蓋もないファンタジー。
そして『スターウォーズ』の方はというと、そういう妄想のよりしろが自分の国にないものですから、世界中の神話を研究してファンタジー空間をでっち上げようとした。しかしながら、その妄想のよりどころは所詮ローマ帝国史。本気で思ってんですかね?アメリカ人って自分たちがローマ帝国の後継者だとでも?



この二つを統合整理したものが、現在主流の映画です。

尤も、この二つの論理、というか傾向というべきでしょうか、これは、特定の映画人の発明発見というよりは、自然発生的なものと私は考えております。
そのくらい、普通の観客にとっては自然なものでして、
そしてあまりにも自然であるが為に、このことに気づいて映画を見ている人はおそらくほとんどいないのでしょう。


まとめると以下のようになります。

画面の進むべき方向を と設定し、その先には目的地がある。
そして、その方向を向いているのは主人公、そしてその同調者たち。
それに対し、逆向きの人物たちは、その主人公の目的地到達・目的達成を容易ならざるものにする妨害者、対立者、ライバルもしくは異質な他者、対話者。


よくよく考えると、これは、サッカー中継の画面とそっくりです。


それぞれのチームのメンバーは、みな協力して敵のゴールを目指します。つまりチームのメンバーは基本的に同じ方向を向いているということです。





目的地への移動を表現しない映画の場合、そのゴールは目的地ではなく目的の達成です。

チャップリン キッド』
捨てられた子供が、実の母親にめぐり合うまでのお話です。そしてその間浮浪者のチャップリンが子供の面倒をみるのですが、

この映画、子供に愛情を注ぐことを肯定した映画であり、子供に愛を注ぐことで大人も幸せになれるというメッセージがあるはずなのですが、

母親が子供を捨てて逃げるときには

の方向に進み、

子供を捨てたことに後悔し、ひっかえした時は

方向です。



捨てられた子供をチャップリンが引き受けることになったとき、かれはの方向に進みます。
映画の画面で向かって右側の端に目的地がある、もしくは物語の目的が在ると想定された場合、
そちらに向かうこと、そちらを向くことは、物語上はポジティブなことになります。それに反して側を向くこと、その向きへの移動は、物語的にはネガティブなことなのです。


つまり、画面右端に物語の目的地なり目的があると設定したならば、その方向を向くことのできる、画面の向かって左側は主人公並びに主人公の同調者の定位置ということになります。

もし主人公が青半分にポジショニングしたとするなら、目的地もしくは目的を追求することができないわけですから、逆境にさらされていると考えるべきでしょう。


画面上の人物の配置は、基本的にこのようになっている。


チャップリンの『キッド』の画面は決してサッカーの中継のような俯瞰画面ではなく、限定的な空間を映したカットをつなげていったものですが、それらの場面々々をすべてつなげて俯瞰図のように図示すると、

このようになります。この映画の場合はゴールは母と子の再会になります。

なぜ映画が、このように恣意的に画面の方向を操作しているのか、ということについてですが、
このように画面の方向を操作することで、観客はストレスなく物語を追うことができるというのが理由の一つでしょう。


映画が誕生して最初の三十年間は、サイレントの時代であり、頻繁に画面に文字が映されていました。それら文字の読み方はなのですから、方向の動きは文字との関連から目に心地よいストレスの少ないものです。それに対して方向の動きは、文字の流れと逆になりますから、なるべくなら少なくして欲しいのですね。

基本的に映画はハッピーエンドに向けて物語が進展しますから、二項対立的に分類するなら、ポジティブな場面の方が多くなります。
ポジティブなシーンを文字を読む方向に一致させるなら、映画全体として見ていてストレスが少なくなるのですね。

そして、このように画面の方向を操作することで観客に対してサブリミナル的な効果を上げているものと考えられます。

『キッド』


子供がいなくなったチャップリンはうちひしがれていますが、そこに警官がやってきて、彼を車に乗せてどこかへ行きます。
その車はの方向にすすみ、子供が母と暮らす豪邸の前に乗りつけます。

物語の進行がの方向になされることを理解しておく、もしくはサブリミナル的にそのことを了解しておくと、この車にチャップリンが乗った時点で、ハッピーエンドが来るだろう予感が強く沸き起こるのですね。
いわば、この画面の進行方向操作が映画に於ける伏線として機能しているわけです。これは文学的な伏線とは完全に異なるものです。

ブレードランナー


ナイトクラブで蛇使いをやっているレプリカントをハリソンフォードが射殺するシーンです。
レプリカントの方向に走って逃げるのを背後から射殺するのですから、ハリソンフォードもの方向に発砲します。



ここで奇妙だと思うのは、ハリソンフォードの二発目はの方向から発砲されています。
これは、ハリソンフォードが二発目を撃つ前にレプリカントの逃走コースに先回りしてから撃ったわけではないらしい。
何気なく過ぎ去ってしまいそうなカットの方向変換ですが、ここでおそらく画面が伝えたかったことは、一発目と二発目の画面の向きの違いというのは、サブリミナル的な情報として観客に届いているはずです。


映画においては、基本進行方向はに設定されていますから、レプリカントの逃走というのは、実は、物語の中でポジティブな意味を担っているのですね。

「生きたい,死にたくない」という気持ちに素直に従うことは生き物としてはポジティブなことなのでしょう。

そしてそのようなレプリカント、ある意味では普通の人間よりもずっと人間らしい欲望に突き動かされているレプリカントを平然と射殺する態度は、卑劣な行為と言えるのかもしれません。
そのような意見を、このカットのつなぎは表現している、私にはそのように考えられます。

≪関連≫『デンジャラス・デイズ』

最初の発砲のカットが向きなのは、ハリソンフォードがレプリカントを背後から撃ったことを示すため。
そして二発目の発砲で彼の向きが逆になるのは、生命を渇望するレプリカントを虫けらのように撃ち殺したことへのネガティブな評価の提示と私には考えられます。

そして、そのような情報というのは役者の演技で表現されているのではないのですね。
演技の下手な役者というのは本来何やっても下手なんですが、
映画では全く無表情でありながらも、音楽、色彩、画面の向きで演者の内面を表現するという技法がありますので、時と場合によっては役者は何もしない方がいいのですね。
常に表情で何かを表現しようとやっきになっている役者は、かえって大根に見えたりするものです。

クレショフ効果モンタージュの効果についてソ連での研究ですが、

役者は何にもしなくてもその他の要因によって演技しているように見えるというのは画面の方向変換や色彩や光量の変化でも可能なはずです。
そして、私には、方向の操作というのはほとんど誰も気に止めていないという点で実にサブリミナル的な道具だと思われるのです。見れば誰でもわかる明白なことであり、右か左かの脅迫的な二項対立を提示しているわけですから。


サブリミナル的手法で登場人物の内面や未来への予感を提示し、それを無意識的に観客に了承させることで、強い共感を引き出している。謂わば映画の無意識と観客の無意識を直に結びつけているわけです。
こういうことに考えがいたると、どうして映画が効果的なプロパガンダ道具として用いられてきたのかがよくわかります。



お約束事にはどのようなものがあるか



導師
プロにしろアマチュアにしろ、映画を語る人間はやたらと上から目線なもんですが、あれはどうしてかというと、映画では登場人物の限界、欠点も提示しているからではないでしょうか。観客は登場人物が自分に与えられた駒であり、それをよりしろとして映画という仮想現実の中に入り込んでいるというように考えやすいものです。それゆえ主人公の限界を見せられると、自分に与えられた駒は自分の知的サイズに合わない、つまり「自分はこの映画自体よりも知的な存在ではないか?」などと錯覚するのですが、それって映画にそういう風に仕組まれているだけですから。
映画は、常に主人公の知的レベル道徳レベルの限界を示し、その限界に対する映画としての態度を別の人物で示しています。

とある映画の主人公をAとします。
その「映画の主張」はAの主張と同一なのか?というと、そんな単純な仕組みの映画もナカナカ無いわけでして、
大概は、
その「映画の主張」は登場人物AとBとCと…の主張をその場その場でつぎはぎしたようなものである場合がほとんどだと思います。

その主張のつぎはぎをどのようにチェックしていけばいいのか?

その問題につきましては、
登場人物の立ち位置が右側であるか左側であるかに着目していると、大体正確な答えが出てしまうような気がします。



私は、映画は赤側と青側の闘いというふうにこの文章を書いてきたのですが、その言い方だと誤解を産みそうなので少し訂正しておきます。
赤側の人物には物語の目的が見えています。青側にいるときにはそれが見えてない場合が多い。もしくは赤側の人ほど強く目的の達成を求めていない。

スターウォーズ2』
別にヨーダとルークは戦争しているわけではありません。ヨーダには見えていることがルークには見えていないのです。



スティング
まだ青二才のレッドフォード。師匠の復讐のためどうしてもドネガンをペテンにかけたいのですが、そのような個人的感情に引きずられることは青臭く、また危険であると諭される。


じゃあ、ポール・ニューマンにやる気がないのかと言われると、そういうことではなくて、もっと軽やかなチャレンジ精神で大仕事を成し遂げようという爽やかさが主体なだけです。でも、それだと個人的な情念にかけますから、どうしても主役はロバート・レッドフォードということになるでしょう。
私たち観客も、彼同様どうしてもペテンの実行と成功を見てみたいのですから、必然的に彼に共感する割合が大きくなります。

マネー・ボール


チームのスタッフに今後の方針を語るブラッド・ピット。主役ですがかれのポジションは今後採用していく確率論の主導者が側。今後の物語はこのキモオタの理論に沿って流れるのですから、彼がポジティブ側であり、ブラッド・ピットはその紹介者に徹している場面です。

≪関連≫『マネー・ボール』


地図のイメージはしばしば踏みにじられる

ドイツとイギリスの戦争映画を作るとして、あなただったら両軍の配置を左右どのように割り振りますか。普通だったら、地図のイメージ通りにイギリスー> <−ドイツという配置にするでしょう。


イギリス軍人を主役にするならこの図の通りで何の問題もないのですが、もしドイツ軍人が主役だったらこの法則に抵触するのですが、

『ブルーマックス』




この映画ではドイツ軍 イギリス軍 と配置されています。
こういうことって言われてみないと気がつかないことなんですわね。つまり画面の左右のことなんて誰も気にかけて映画見てないんですよ。そして私がここで語っているような仕掛けにまんまとハマって情感を操作されているわけです。

映画の画面においては、進行方向がに恣意的に決められており、そこに進めるか進めないかで物語状況のポジティブとネガティブ評価を示している、ということをとりあえず了承してみてください。そうすると映画に於けるお約束というものが、芋づる式にゴロゴロわかってきます。
尚、
映画には色々なお約束事があるとは思いますが、ここでは画面の左右の方向だけに特化して語っております。

私がここでいう「お約束ごと」というのは、花火が上がったときに「たまやー」「かぎやー」みたいな掛け声をかけるようなこととは全然違います。玉屋鍵屋は花火職人と観客の間の相互了解事項ですが、
私がここで語る「お約束事」というのは、「…な場面とは、…な画面の操作とが親和性が高い」程度の意味です。
映画の観客というものは、基本的に教養を求められてはおらず、文盲で無教養でも構わないと考えられています。それゆえ共産主義ファシズムの洗脳道具として重宝されてきたのですが、
これら「お約束事」はあくまでも制作サイドのみのお約束事であって、ただ見ているだけの一般観客にとってはサブリミナル的にしか受け止めていないことばかりです。


≪関連≫『第一次大戦の映像化』


カナリア

男の子と女の子が家族をさがしに東海道を無銭旅行する話。

地図上の方向では、関西から関東の行程は → であるはずなのですが、


この映画では、東海道下りの行程は一貫して ← で示され続けます。

≪参考≫『日本映画はガラパゴス』



旧情報 → 新情報 


物語が方向に進展するということは、新しいもの新しい人は画面の向かって右側から登場するということです。

オズの魔法使い

ドロシーが旅の随伴者に出会うときは、彼らは必ず側。

主人公はエメラルドシティ目指しての方に進むのですから、その過程でばったり出くわす輩は向きであり、
新しい人物、新しい事物に出会うとき、それら新情報は向きです。



主人公とはどんな人のことを言うのだろう?と考えるとき、この画面上のポジションがひとつの指針を与えてくれます。例えばシャーロックホームズですが、ホームズは本当に主役なんでしょうか?それともワトソンが主役なのでしょうか?
通常、ホームズが主役であり、ワトソンが語り部という扱いだと思いますが、
グレナダテレビ制作のジェレミーブレット主演のホームズシリーズでは、ホームズの基本の立ち位置はであり、ワトソンの方がになります。

これはどういうことかと申しますと、
普通、私たちは映画を観る時、その物語の進展を興味深く見守っていますから、必然的に画面の進行方向に重なる向きの人物に共感しやすい状態になっています。
ところが、ホームズみたいな天才が主役だと、なかなか私たちは共感できないのですね。ワトソンくらいの知能がちょうどいいわけです。(ワトソン博士を馬鹿にしちゃいけませんよ、一応お医者さんなんですからそれなりに頭良いんです)


旧情報つまり、観客が既に知っている人物以外にも、観客にとって普通であり特に知る必要のない人物、容易に理解できる人物は、側のポジションに親和性が高く、
新情報つまり、観客にとって未知な人物、理解を超えた人物は側のポジションに親和性が高い。

つまり、物語の目的を追求しているのは主人公のようにみえはしますが、本当のところはどうなのでしょう?観客は物語の場面々々において一番共感できるキャラクターを選択して自己裁量で物語にのめり込んでいると思い込んでいますけれども、本当は製作者にほぼ完全に操られているだけなのではないでしょうか?
その場その場で観客に最も共感しやすいキャラクターを側に配置させることで製作者が観客がどのように感じながら映画を観るのかについての目論見を私たちは知ることは出来ないでしょうか?
映画というヴァーチャル空間で目的を追求しているのは、実は観客の欲望ということなのではないでしょうか。そして、観客の欲望がどのように推移するかについては、映画が始まる前から制作サイドには完全に想定されきっているものです。

≪関連≫『シャーロックホームズ』



ガンジー

あくまでも白人の側から見た歴史であり、東洋人には理解不能の神秘が存在する。そのような類型的な見方を残した映画ゆえ、白人と並ぶときガンジー側。

≪関連≫『ガンジー』



燃えよドラゴン

ガンジー』同様に白人の視点を通したびっくりアジア!の映画。
白人の視点から新情報=異質な存在としてのブルースリー側。
上映時間も後半に差し掛かった頃、白人観客にはブルースリーとほかの中国人の顔の区別がついてきた頃になって初めてブルースリーのポジションは側に変わる。

≪関連≫[http://d.hatena.ne.jp/baphoo/20110417/p4:title=燃えよドラゴン
]

ランボー

ランボーは規格外な存在ですから、正直私たち一般人には取り付く島がありません。彼が悲しみを背負った存在だということはわかりますし、その悲しさの正体を見つけることが、この物語の骨格なのかもしれませんが、どちらかというと、私たちはランボーに狩られる立場の警察に感情移入しながらスリルを味わってはいないでしょうか?
世の中の一般的定義では、どう考えてもランボーが主役のはずなのですが、彼の立ち位置は、どうもそうなっていません。そしてランボーが物語の目的を追求するというよりも、彼の心の悲しみににじり寄ることがこの物語の目的なのだろうか?と私は考えてしまいます。

≪関連≫『ランボー』



過去・回想
またこのようなことも言えます。画面の向かって右側に物語が進展するということは、時間経過もその方向に進むということです。

『キッド』

「そして五年の時が流れた」バックの雲の動きは
時間は目に見えないものですから、「時が流れる」というような言い方、つまり「流れる」は液体の移動を示す動詞ですが、そういう比喩的な表現を用いないと表すことができません。
このように画面をに進めることももちろん比喩の一つであります。映像的比喩表現とでも申しましょうか。

だから、タイムスリップで過去に向かう場合や、過去を回想するシーンは、向きの画面と親和性が高いです。

≪関連≫『物語を語る』

ある日どこかで

ベットで寝転がりながら、自己催眠だけでタイムスリップするという、かなりアレな設定の映画ですが、
過去にタイムスリップするとき、主人公の向きは

≪関連≫[http://d.hatena.ne.jp/baphoo/20110915/p1:title=『タイムトラベル映画』
]

『愛の嵐』

収容所時代のセックス奴隷に偶然再会。そこから過去の回想が始まる。



『ワンスアポンアタイムインアメリカ』

題名からして回想を軸にした映画と言っているわけですが、デニーロの回想が始まるときには向きと親和性が高い。←


年老いたデニーロがかつて憧れていたジェニファー・コネリーの家を覗いた穴をもう一度覗いています。これは、単に穴を覗くことではなく過去を回想する行為であり、この時点から映画も過去に舞台を移します。
それゆえ、デニーロの視線は


覗いた先には、ジェニファー・コネリーの姿。


今度は、少年時代のデニーロの目がのぞき穴の外側からのカットで映されます。ここからしばらく少年時代を舞台に話が進みますので、デニーロの視線はのものに切り替えられています。






転換・断絶
ターニングポイントという言葉があります。日本語に直すなら転換点とでも言えばいいのでしょうが、映画の画面においてはこのターニングポイントでは文字通り登場人物の向きが転換することが多いです。

ゴッドファーザー

商売敵と並びにグルの悪徳警官との会食シーン。

この後トイレにいって、水槽の中に仕込んだ拳銃を取って戻る。

の方向に進んでトイレの中に入り、
拳銃をつかむことで、方向転換。

そして、拳銃を持ってテーブルのところに戻ると…

の方向に発砲して、拳銃を現場に捨てると、そのまま国外脱出。

ゴッドファーザーは、家族愛とマフィアの残酷さの間の葛藤の物語。
これは、物語の構造としての葛藤であるだけでなく、監督を担当したコッポラの態度そのもののようで、かれは、イタリア移民の闇の部分であるマフィアの称揚に繋がるような映画を監督することに当初は反対だったらしい。

敵対するマフィアと悪徳警官を射殺する場面で、マイケルコルレオーネの人生はひっかえすことのできないポイントを越えてしまう。

更に言うと、このシーンは『ゴッドファーザー』の物語のターニングポイントであるだけでなく、アルパチーノの人生のターニングポイントでもあるのですね。当時全く無名のアルパチーノを主役にすることに映画会社が反対したので、コッポラはそれを黙らせるために早い段階でこのシーンを撮影しパラマウントの重役にみせたそうです。
結果は、あまりの迫真の演技にアルパチーノ主役のまま映画は完成しました。

『生きる』

うさぎのオモチャの動きから霊感を受け人生を意味を見つけた志村喬。とりつかれたように方向に走り出す。

≪関連≫『生きる』





車の事故
平穏な日々も交通事故により奈落に落とされる、自動車教習所に行くとそういうビデオ魅せられたりするんですが、交通事故の瞬間は、画面の向きを左右転させることと親和性が高いようです。

まあ、運転席に人乗せたまま車をクラッシュさせると、中のひと死んじゃいかねないですから、

  1. 「危ない!」ってシーンと
  2. クラッシュした車のシーンに分割して

その二つの方向が逆になるべくつなぐわけです。







映画とは、画面の向きを切り替えることで「何か」が切り替わったと感じさせる表現、もしくは画面が切り替わることで「何か」が切り替わったと感じてしまう表現です。

そして、このことに気がついている一般観客はほとんどいません。それゆえ、そのような切り替えのメッセージはことごとくサブリミナル的に観客に受け止められます。
そして、そのサブリミナル効果をより高めるために、画面の左右の切り替えにもっともらしい理屈を付けることが従来より行われてきております。もっともらしい理由付けにより、方向の切り替えはさらにカモフラージュされ、さらに無意識的に受け止められることになります。


『タクシードライバー』
映画史的に有名な場面ですが、よくよくチェックしてみますと、この場面でもサブリミナル的な演出がなされています。





デニーロが銃を購入してから、最初のうちは、ずっと向きに発砲しています。
これは、観客の視線は物語の進展方向に同化しやすいですから、の方向に弾撃ち込まれると、自分が撃たれているような気持ち悪さを感じるのですね。







自室で鏡を前に練習しているシーンから、銃の向きがに切り替わります。鏡をきっかけに胸像が左右逆だということを利用して画面の左右切替えが行われています。
これで発砲の方向が方向に切り替わることで、自分が撃たれているような気味悪さが画面から消えて、気分が楽になります。ついでに自分が撃っているようなカタルシスまで感じてしまいます。
どうして、自室で痛々しい独り言を言いながら銃の練習をしているデニーロに観客は乗せられてしまうのかというと、そういうサブリミナル的な技法が使われているからだと私は考えています。

≪関連≫『タクシー・ドライバー』『レイジング・ブル』




階段・踊り場

こちらも伝統的に多用されてきた画面の進行方向の切り替えを自然なものに偽装するための道具立てです。

太陽の帝国

戦争状態に過剰適応した少年は、空襲に出くわしても怖いという感覚が麻痺している。

ふと気が付くと自分の親の顔さえ思い出せない可哀想な子供である自分という現実を認識すると、年齢相応のか弱い子供に戻って大人に抱えられて階段を下りていく。

少年の認識の急激な変化を階段を下りるための急な方向転換になぞらえたドラマチックな表現。

≪関連≫『太陽の帝国』



移動の終了

移動のシーンでは、行程全てを映し出しているわけではありません。移動したという事実を表現したいだけで、移動しているシーンを全て映すことはまずありません。
ポイントポイントをつまんで行程を端折るのが普通ですが、移動の継続を示すには、継続した方向を画面が示し続ければそれでいいわけなのですね。
そして
→ → → →と画面が続いてが楔に入ったとき、その継続は途切れた、つまり移動が終了したと見る者には感じられやすい。

『クオヴァディス』







ロバート・テイラー率いるローマ軍団が凱旋するシーンです。
軍団の行軍は全て向きです。

ロバート・テイラーのチャリオットが方向にターンすると、


終点のローマを見下ろす丘の上に到着していました。これで実質の旅程は終了したということです。

≪関連≫『クオ・ヴァディス』『電車男』


画面方向の切り替えが、継続性の断絶と親和性が極めて高いので、物語のピリオドの代わりに方向の画面が用いられることも「お約束事化」しています。


『エイリアン』
クライマックスの20分間、唯一の生き残りシガニー・ウィーバーの方向に逃げ続けます。救命艇のなかでも向きです。


最後の冬眠のカットだけは、向きの画面です。

≪関連≫『エイリアン』


復路
行きて帰りし物語」の場合、物語は大概往路についてのものです『2001年宇宙の旅』とか『ロードオブザリング』(なんで『指輪物語』という題名にしてくれなかったのだろう?)でも復路はほとんどエンドクレジットのような扱いでほんのわずかの時間だけで描かれます。
そのような復路の場合、←進行が一般的に見られます。

何はともあれ、画面の向きを変えると、行き先が違って見えるのが普通の人間です。




天使

映画の画面は、その方向で登場人物の内面や状況を表現しているわけであります。それならば逆に、ただ画面の方向だけをポジティブに構成してみると、内面や状況の変化がポジティブであると説得させることは出来ないでしょうか?
これはいわば、原因と結果を取り違えさせるテクニックです。

私たちは、原因が結果をうむと考えており、そのことは科学の根幹であり論理の根幹でもあるのですが、日常生活的には実にしょっちゅう原因と結果を取り違えています。

代表的な例が深呼吸でしょうか。
私たちはゆったりした気分の時はゆったりと呼吸できるものです。そして深呼吸とはゆったりした気分であると自分を錯覚させるために敢えてゆったりした呼吸をしてみることなのです。


映画の画面は物語上の葛藤を左右の対立として視覚的に表現しているわけですが、それなら画面上に赤側の数的優位を作れば、勝利できるように見えるのではないか、という原因と結果を取り違えさせる手法です。

『ロッキー』

アポロとの戦いに備え、それまでの不健康な生活を改めて激しいトレーニングに精を出すロッキー。真面目にボクシングに取り組むようになってからはロッキーの向きは主体になります。
そして、ファンファーレのテーマ曲に合わせてランニングするロッキーを後押しするように煙突の煙も方向に流れます。

≪関連≫『ロッキー』

煙突の煙は頻繁に天使の役割を担わされる。煙突の煙の方向を見ていれば、どのくらい真面目に取られた映画であるかが大体分かる。




このように物語をポジティブ方向に流す為に配置された補助物のことを、このブログで天使と呼称しております。

『タクシードライバー』

デニーロは大胆にも選挙事務所で働く女性をその職場にナンパに出向きます。
普通に考えると、そんなナンパが成功するわけがないのですが、なぜか成功してしまいます。
そして、この事務所のドアをくぐる前の画面では、全く意味もなく、ロン毛の通行人が方向に歩いていきます。

この一見どうでもいい人物の些細な動きが、デニーロのナンパ成功の画面的伏線になっていると考えられます。

≪関連≫『タクシー・ドライバー』



『生きる』
おそらく映画史上最も成功した「天使」の使用例

人生の意味を見出したいと悲愴な思いの志村喬。でも女の子はそんな思惑には気づかない。隣の席のカップルが青側の数的優位を作り出し、志村喬の劣勢を表現。


女の子に自分がガンであることを打ち明けるも、その態度のキモさゆえ女の子ドン引き。志村喬単に劣勢であるだけでなく青サイドに配置替え。ほぼ崖っぷち状態。


そこに起死回生のうさぎのおもちゃのへの動き。これが私が言うところの天使です。


そのうさぎの動きで、人生を意味を見つけた志村喬。とりつかれたように方向に走り出す。


人生の意味を見つけた志村喬の背中で、ハッピーバースデーツーユーを歌う赤の他人たち。
ストーリーを現実的に見るなら赤の他人ですが、映画の仕組みを了解してこのシーンを見るなら、この学生コンパの人たちは天使の群れであり、志村喬を祝福している。

ちなみに、「天使」という私的用語はこのシーンから思いつきました。

≪関連≫ 『生きる』


(とある方が、ブックマークのコメント欄に、「煙突の煙は頻繁に天使の役割を担わされる。煙突の煙の方向を見ていれば、どのくらい真面目に取られた映画であるかが大体分かる」の一行を引用されていまして、まあ確かに普通に生きていると、映画の画面の煙がどちらの方向に流れてるかなんて気に留めることもないでしょう。
わたしが、煙突の煙に着目するきっかけになったのは、是枝監督の『誰も知らない』を見てからです。

わたしたちは、天国は空の上にあると信じている、もしくは漠然と空の上に天国を想定することを自然な考え方と納得しているところがありまして、
中国人なんか、子供銀行のお札を燃やして煙にして天国にいる先祖に送り届けるというような儀式をいまだに行っています。
天に通ずる煙という道具立て、これを天使の代役に使わなくてどういたしましょう?

そして、あんまり真面目に撮られていない煙突の煙の例としては成海璃子主演の『書道ガールズ』の煙突の煙でしょうか)






暫定的な居場所

映画の画面はこのように構成されています。

側にいる場合には、物語の目的の方向を向くことができ、側では物語の目的に近づくことができないわけです。

つまり主人公がどのような時物語の目的に近づくことができないかを考えてみると、側のポジションと親和性の高い状況がわかります。

逆境

いわゆる絶体絶命の場面です。とりあえず生き延びることが先決で、目的の追求は二の次という状況です。主人公が死んだら話続かないですから、絶体絶命の場面は暫定的ということが言えます。

宇宙戦争

父親のトム・クルーズが、頭のおかしくなったおっさんを殺しに行く場面。
女の子は、トム・クルーズが人殺しをするという事実と、もしくは彼が返り討ちにあって殺されてしまうかもしれないという二重の恐怖に側を向くしかない。

≪関連≫『宇宙戦争』


『生きる』

先ほど「天使」の解説で取り上げたカット。女の子に自分がガンであることを打ち明けるも、その態度のキモさゆえ女の子ドン引き。


崖っぷち

物語がに進むということは、その先には広いスペースがあるということです。その逆に主人公がをむいている場合は、その先にはほとんどスペースがありません。それゆえ行き場や居場所のない崖っぷち感を表現する際にはサイドを使うことが多いです。

『生きる』

若い女と遊び歩いていることを息子夫婦から叱責され、もしやの状況を考えて遺産相続の話まで持ち出された志村喬。自分が末期ガンであることを言い出す気持ちにとてもなれず、崖っぷちの気分。


嘘つきのポジション

風と共に去りぬ
自分の求めるものを自分の手でつかむ。それが金だろうと男だろうと。
風と共に去りぬってそういう話で、
一部の終わりが、「私は何をやってでも金持ちになる」で、
二部の終わりが、「とりあえず失敗続きだけど、ほしい男をあきらめはしないわよ」です。

そういう目的を追求するためなら、嘘でもなんでもつきますって女がスカーレットなんですが、




正直、こんな女勘弁して欲しいです。

ただ、許せる箇所があるとするなら、
彼女にとって嘘をつく行為は、あくまで目的を追求するための手段でして、
暫定的な状態に過ぎません。
映画の中では、スカーレットが嘘偽るときは見事なまでに向きが常態です。




入室 入郷
異国、もしくは他人のテリトリーというのは、文句なしにアウェーの状況です。
それゆえ外国入国のシーンや他家の敷居をまたぐシーンはと親和性が高いです。

『サウンドオブミュージック』

フォントラップ大佐の邸宅にやってくるも、門をくぐることに気が進まないマリア。


第三の男

旧友を尋ねにウィーンにやってきた。

『ドラキュラ』



007は、自分の身分を偽り、敵地に単身乗り込み、常に絶体絶命の危機に身を晒しているわけですから、主人公でありながら向きと親和性が高いです。


上司の部屋

日常感覚からすると上司の部屋は真にアウェーの状況です。なかなかくつろぐこともできませんし、自分のやりたいように振る舞える場所でもありません。そういう理屈からでしょうか、非常に高い確率で上司の部屋への入室は<ーとなります。

アラビアのロレンス


お祈り

ある意味、人にとって究極の上司というべき存在が神であり、神に祈るシーンの方向の親和性は高いです。
『十戒』



≪関連≫ 『おもひでぽろぽろ』



戦士の休息

このブログの中では、便宜的にポジティブ・ネガティブという言葉を使っていますが、それは物語の中で設定された目的に対してポジティブであるかネガティブであるかということです。
別に、世の中で一般的に言われている前向き後ろ向きという意味とは直接g関係ありません。
もし、映画の中で語られることが戦争の悲惨さであり、主人公が戦場で痛ましく倒れる悲劇的瞬間がその映画のゴールだとすれば、映画において血まみれなのはの方向と親和性が高いということになります。

西部戦線異状なし



第一次大戦塹壕戦で兵士が死ぬ映画です。厭戦映画であり、勝利を目的とし他映画とは思われません。
人の死ぬ流れは


戦場から離れて一時の安楽を貪るときには、が普通です。

明日に向って撃て

有名な『雨にぬれても』の自転車シーンですが、これも方向です。最終的に血まみれとなる物語において、ほのぼの心温まる「戦士の休息」の時間ということです。





いかんともしがたいこと


自動車
車の運転席と助手席に座っている人物を撮影するとき、一番簡単なのは、それぞれ反対側の席にカメラをおいて映すことですが、そうすると

『テルマとルイーズ』


二人の顔の向きが食い違ってしまいます。
撮影的にはこの構図を選ぶのが一番簡単なはずなのですが、それをすると二人の内面が食い違っているように見えてしまうのですね。

それで、二人の心が通じ合っているとしたら、
車外にカメラを置いて撮影して二人の向きが揃った画面が必要になることがあります。

もしくは


このように助手席側の人にそれとなく後ろを振り向かせたりして、画面の向きを揃えます。

車の運転手を撮る場合、カメラの置き場所は、基本5箇所しかありませんから、ロードムービーはいろいろ大変です。


汽車 電車 船    

自動車、バイクそれに飛行機は、乗った人の顔は必ず進行方向をむいています。それらと比べると、これらの移動手段には面白い特徴があります。
進行方向と人物の顔の向きが食い違っていても問題ないのです。
乗り物の進行方向を状況に例え、その状況と主人公の内面の食い違いを表すときに便利な道具です。

そして、進行方向を向く必要のない移動手段というのは、登場人物が自ら運転席に座る必要のないものです。そういう乗り物の場合は特に、主人公の内面とはべつに状況に流れというものを乗り物の移動方向に仮託しているような場合が多いのです。

ガンジー

汽車はの方向に向かっているのに、ガンジー向きです。
長いものに巻かれろ、易きに流れろ的な生き方を拒否して、革命的人生を送るガンジーを表現しているものと思われます。
そして、この直後のシーンでは、人種偏見から汽車から放り出されることになります。

  
自転車、バイクの二人乗り

日本の青春映画には自転車の二人乗りのシーンが必ずと言っていいほど出てきますが、自転車バイクの二人乗りというのは、二人が同じ方向をむいているのですけれども、前に乗って運転している人には、後ろの人の姿が見えません。
それゆえ、後ろに乗っている人の恋心にあまり気がついてくれない前の人という状況をあらわすのに便利です。
もしくは、自分の本当の心を偽ったまま明かせない女の子を後ろに乗せてツンデレのシーンを演出することもよく行われています。

日本映画はこういうシーンすごく多いんですが、アメリカ映画ではあんまり見たことがありません。

私、日本人について思うんですが、好きな相手に好きだといっても、損する人も損することもないんですよね。ダメもとでも好きだと言えば活路開ける場合多いし、例えどんな相手からでも好きだと言われりゃ嬉しいはずなんですよ。

やっぱ日本人陰湿ですわ、と思う。


バッターボックス
通常の野球中継ではピッチャーの背中越しにバッターを撮す構図が用いられます。
無論、ピッチャー、バッターのアップもありますし、ネット裏からバッターの背中を撮す構図も取られますが、基本となるこの構図で、ヒットを打って出塁しようとすると、

方向に走り出さなくてはいけません。これは映画のお約束事的にはネガティブな方向への移動ですから、打つ側が主役の場合には、厄介な問題なのですね。
だから、バットがボールを捉えた瞬間に、バッターを後ろから撮す構図に切り替えられることが多いです。

『ナチュラル』
左利きの野球選手の物語であり、天才でありながら人生全然上手くいかない人の物語でもあります。

左打者がバッターボックスに入ったとします。彼の顔をアップで撮そうとすれば必然的に、顔の向きがになってしまいますから、

バットがボールを捉えた瞬間に、背中からの視点に切り替えての方向を作り出します。

ロバート・レッドフォードブラッド・ピットには親子説まで流れるくらいで、まあ顔が似ているんですけれども、ブラッド・ピットの『マネーボール』でも同じテクニックが用いられています。


この人は、何の因果か左利きでして、そうなると通常の画面映りは常にとネガティブ方向になってしまいます。それが、何をやってもうまくいかない天才選手を画面に表現するに実に都合のいい条件建てとなっています。



北枕と蘇生
 
物語はの方向に進展するのですから、必然的に方向への動きが多くなります。それゆえ画面上には方向への残像がちらついているような感じがあり、進行方向に起き上がるのはスムーズに見えるのですが、方向に起き上がるのは負荷がかかるように感じられるものです。


この性質を利用して、生きているときはの方向をむいているのですが、息を引き取るタイミングに合わせて方向に頭の向きを切り替える手法が一般化しています。
人が死んだあと、枕を北向きにする私たちの習慣とそっくりですね。

勝手にしやがれ

イントレランス』1916年


バビロニアの女弓手が射殺されるシーン。
96年前には既に「北枕」という手法が映画に用いられていた。

塹壕にて』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm10342341
これは、映画ではなく、コスプレ愛好家が撮影した自主フィルムです。


アマチュアの短編作品だけあって、爆発シーンを撮影することができていないのですが、それでも、「お約束事」である臨終場面での頭の向きの切り替えを行なっています。
興味深いことは、この「北枕」で臨終を示す手法は、その他の血糊とか爆発とかのもっともらしい要素にサポートされていないと、見ている人には意味がわからないのですね。
この兵士が、爆発で死んだことが見ていて分からない視聴者もいるというのがコメントから分かって面白い。

逆に言うと、臨終の場面ではとりあえずこのように頭の向きを変えた画面をつなぐことがそこまで「お約束事化」しているのかということでもあります。

インディージョーンズ 最後の聖戦』
臨終のシーンはいくらでもありますが、よみがえるシーンはあんまりありません。現実では死ぬべき時に人は死ぬだけですから。

銃弾を受けて瀕死のショーン・コネリー


ところが、聖杯から水を傷口にかけると、あら不思議。


傷は治って、すっかり元気です。そして頭の向きもいつの間にかひっくり返っています。


画面を傾ける

根底から間違っている。

第三の男



間抜けな素人探偵による謎解きの物語なのですが、主人公が間抜けなため情報収集能力とその解析能力が低く観客に正しく謎解きの材料を提供することができません。
これでは『アクロイド殺人事件』と同じくアンフェアな状況です。

それゆえ、主人公の観察力に問題があり、容疑者やキーパーソンから正しく情報を引き出せていないことを観客にサブリミナル的に知覚させるために、実は胡散臭い人物が映る時には画面を傾けています。


更に言うと、主人公自体が誤った情報の発信源であるので、彼が酒を飲んでいるシーンでは、彼自体が激しく傾いています。

恋する惑星

金城武は酔っ払ってまともな話が出来ていません。電話の向こうの女の子にはもう相手にされていませんが、観客の我々も同様に彼のことをまに受けてはいけないというメッセージです.


以下のエントリーにつづきます。
1960年代以降の日本では画面の進行方向がこれとは逆になっているという事実についてです。baphoo.hatenablog.com

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