『桐島、部活やめるってよ』

絵画もそうなのかもしれませんが、特に映画は、
人物たちの心を、その画面の中の背景で表現します。

主人公の気持ちがブルーなら、画面を青い色が目立つ発色にしてしまう、というのが一番わかりやすいでしょうか。

それから、画面を見ているとき、人の注意が行くものは、画面の中心付近にいる人物の顔だったり、前の画面からつながっている物体の動きだったりします。
そして、そういう注意から外れやすいところに、意味深なものを置いて、それを登場人物の心の奥の象徴としたりするのが常套手段です。

たとえば、登場人物の思想を解説してくれるような本とか映画のポスターが、少々ピントから外れた形で画面に映っていたりするとかですが、

あまちゃん』でいうと、妻子が北三陸に返ってしまった尾見としのりがタクシーの中から電話を掛けるシーンで、さりげなくバックミラーに「家内安全」と書かれたお守りがぶら下がっています。
家内安全っていっても、妻子に逃げられた男に家庭なんてもうないんですが、この人、それでもしつこく幸せな家庭を心に思い描いているって、尾見としのりが演じた役の内面をそのような形で表現しているのですが、

小泉今日子が高校生の時に使っていた部屋の内装なんて、彼女のキャラの内面を見てわかるように作りこんだものでして、そういうのを一一ちまちまと読み込まなくてはいけないのがうざかったり、楽しかったりするのですが、



『桐島、…』の場合ですと、物語のほとんどが学校の敷地内に限定されていますし、みんな高校生ですから着ている服も大差ありません。
唯一作りこまれた空間といえば、映画部の部室くらいなのかもしれませんが、それにしたところで、わりにありきたりなものであり、

この映画を見る際に、彼らの内面を理解しようとしたら、演じる役者の生身の姿を見て、そこから何かを感じるべきなのでしょうきっと。


そして、学校の風景というのは、本当にどこ行っても大差ないもののようです。

こういう構図を見せられても、私の視線の行き所は役者の演技しかありません。
ほんと、学校って退屈なところなのだな、と。



わたし、『桐島、…』何回も見たんですが、残念なことに最初の一回目は、三十分以上を早送りしてみたんですよ。その為、主人公ってなんで橋本愛のこと好きになったのか、いつから好きになっているのかが、よく分からなかったんですね、

そして、なんで、この片思いが始まるのかについては、自分、まったく疑問感じなかったんですよね。
そりゃ、美少女でてくりゃ、登場人物が恋するのは当たり前だろ、と何の疑問も感じなかったんですよ。



女の子四人並んでいて、日本男子の全部が全部橋本愛をいちばん好きになるかって、たぶん違うわけで。

これだと、片思いの説明理由にならないはずです。
それでも、山本美月は設定上一番の美人ということなんですが、その彼女を観客が好きになってしまわないように、このシーンでは顔が映らないようにしています。

他の三人、オタクのこと馬鹿にしますけど、橋本愛だけ笑わず、別のところ見ている。
この目線が、思わせぶりで、だれに対して思わせぶりなのかというと、主人公ではなくて、見てる観客に対して。


「君よふけ、熱い、俺の…」
「なに、それ、AV?」
橋本愛が笑うのは、ここだけ。

たしかに、わらった、私も。
でも、なんで笑ったんだろう、
「AV?」とかぬけぬけいえる女の子のメンタリティーに笑ってしまうのだろうか、それとも
橋本愛への同調圧力だろうか?




主観カメラって、何なんだろう?
だれだれ目線の描写って何のことなんだろう?

わたくし思うに、このことについてすらりと語れる人ってあんまりいないと思うのですよ。実際私の学生時代、そういう話出来た人って教壇の上にも下にもいませんでした。
そして、これって、読者なり観客なりに、共感を生じさせる最も有効な手段の一つのはずなんですが、

まあ、分かっている人はいるところにいるとは思うんですが、

何度も繰り返される金曜日。
恐らく主人公目線のシーン。

主人公の顔が映ってますから、これって 主観カメラとは言えないんですけど、
後ろに映っている女の子に着目すると、松岡美憂映ってないです。
この場の会話しきってたのは彼女なんですが、主人公にとっては、彼女の存在って、かなりどうでもいい。
重要なのは、橋本愛が、この会話の中で自分のこと笑ってるのかどうなのかについて聞き耳そば立ててる様子が、この画面からわかります。



そして、こういう画面って、主人公目線と、観客の目線を あえて混線させる類のものです。



共感って何なのか? 混線のことなのか?と思ったりもします。
発展途上国に行くと、電話ってすごい高い確率で混線しますね。
全然知らない人の話が聞こえてきたり、時には、自分の話してることに全然知らない人が答えたり、


自分は、電気の配線とかすっきりまとめないと気が済まないんですけど、映画や小説の作者って、あえて配線ぐちゃぐちゃにしてるって感じです。





「好きなだけ言ってろ、俺が監督だったらあんな女ども絶対使わない」
それに対して、あいまいな態度の主人公。

おそらく、心中は、橋本愛主演で映画撮りたい。




対照的なシーン。
Jリーグはいるんじゃなかったら、何点取っても無意味」
「それ直接言ったのかよ!」

基本的に二人の波長はそろっているシーン。


私は思うんですけど、
どうして、下のシーンでは、二人が同じ事考えてると見えて、
どうして上のシーンでは、二人の心中がずれていると感じてしまうんでしょう?

画面の進行方向の角度が違うってのはありますけど、
そして、前後の文脈が異なるってのもありますけど、

演技、神木隆之介の演技、何か違うんでしょうね。
胸より上しか映ってない画面だから、そんな大した演技はさむ余地はないんだろうけど、
上の画像と下の画像では、神木隆之介の心中が異なってるってのが、見てると感じられるのですね。

どこまでが演技のテクニックであり、どこからが映画の編集の力なのかが、見ててもよくわからないんですよ。


私の考えとしましては、
男だったらみんな橋本愛のこと魅力的と思うはず、
そこが一番大きいんだと思います。
何べん見ても、この廊下を歩くシーンの神木隆之介の演技の違い私にはわかんないんですよね。


そして

こういう動画を見せられると、橋本愛松岡茉優のどちらが好きか?というアンケートとったら、たぶん松岡茉優が7:3で勝つような気がするんですよ。
わたしは、変態ですから、橋本愛一択なんですけど、
考えれば、考えるほど、
映画って不確かなもんに支えられているような気がしてきます。