文章を朗読するときに、その状況設定や人物設定を理解する必要がある、
数ページ読んで、それら設定が当初自分の思っていたものとずれていた場合には、戻って訂正して読み直さなくてはいけない、
そういう話を『花もて語れ』を読んで、なるほどと思ったのですが、
では、そしたら、ビートたけしのインタビュー記事を音読するときには、彼の音声を再現しないといけないのか、しゃべり方の演技をやらないといけないのか?
そんなことを思い始めると、まったく文章を読むことができなくなるのですが、
それ言い出したら、2ちゃんねるのまとめサイトとかまるで読めなくなってしまいます。
もしくはあれらを音読しようとするとものすごくつらい。
あれらは、音読されないことを前提に書かれているのでしょうけど、いや、音読されて門に共感されることを排したうえで初めて吐露できる心情なのかもしれませんが、声に出して読むとつらい話おおすぎ。
尤も、たんなるコピペ、おふざけ、でっち上げのホラもたくさんあるので、あまり真剣に音読とか共感とかやらない方がいいのですが。
『ロックオペラ・トミー』
ロックバンドのTheWhoのアルバムの映画化ですが、原作?のアルバム自体は、ある種の2ちゃんのまとめを読むときのBGMに妙にはまります。
アルバムでは今一つ分かりにくい状況設定も、映画ではしっかり説明されていていて、
そのあらすじを語ると、
戦争で行方不明になった父親が連絡なしに帰京すると、父親が死んだと思って新しい男とセックスしている最中だった、それで新しい男が父親を殴り殺してしまうところを、たまたま子供が目撃、
「証拠は、ないんだから、お前は何も見なかったし聞いていない、お前は誰にもなにも話してはいけない」と言われた結果、少年は何も見えず聞こえず話すこともできなくなってしまう。
その人為的に作られた三重苦のせいで、少年はその後いじめにあったり、性的虐待を受けたりするのですが、
たまたま、指の感覚だけがビビッドに生きていたために、ピンボールのチャンピオンになって有名人化。
その後、三重苦が解消して、
『私はこうして三重苦を解消しました』的なセミナーを主催して、だんだん胡散臭い存在になっていくのですが、
最後にはそのセミナーに集まった人たちから詐欺師扱いされて、すべてを失ってジエンド。
三重苦になった主人公トミーの一人が足りの物語ではなく、
こうなってしまった子供に対してどうやって付き合っていったらいいんだろう?これからどうやって生きてけばいいんだろう?という親の立場のいらだちや不安がキースムーンのどたどたオフビードのドラムに対応しているように思われました。
この物語、2ちゃんねるによくあるある種の悲しい話に似ているのですけれども、『トミー』ほど合理的に説明はできなくても、こういう状況に追い込まれた人って、多かれ少なかれこういう三重苦のトラウマみたいなものを自分の中に感じているのかもしれんな、と思いました。
昔この映画を見た時に、行方不明だった父親を殴り殺してしまう男を悪い奴だと思ったもんですが、
おっさんになってしまうと、こういう立場に立たされるとこの人も大変だよなとわりに同情的に見れてしまうもんです。