『時をかける少女』 映画はなぞに満ちている


先代「時をかける少女」の叔母さん。

物語の目的を見通した人物、
主人公と目的意識を同一にする人物であることを表すために、のカットで初登場。


映画の画面は右に動くか左に動くかの二者択一をすべてのシーンに於いて行っています。

どうして横の動きだけで縦の動きがないのかおうというと、

わたしたち人間は、空飛べませんから、地球の地に足の着いた生活というのは、右に動くか左に動くかでしか表すことができません。

但し、わたしたちは空間の移動以外にも、
時間を移動しておりまして、

この移動は、意志に於いて方向を選択することができません。

常に一方向に流れるものでして、
普通は 時間の流れは画面上のポジティブの方向 日本映画の場合ですと と極めて親和性が高い。


普通の映画は、時系列に沿ったものでありながらも、
時折、回想シーンなどが組み込まれ、そのようなシーンは進行になりがちなのですが、

時間をさかのぼることを物語の中心に据えた場合、

画面の進行方向は、どうしたらいいものなんでしょうか?


映画の画面は ← か → のどちらかにか進めませんので、
タイムトラベルの過去にさかのぼることを 原理主義的に方向に固定してしまうと、

結果として 『時をかける少女』のような映画だと、テーマが画面から見えてこなくなります。


この映画は、どうなっているのかというと、
無論、そのような単純な画面進行ではありません。ありはしませんが、

「この映画のテーマは…だ」ということについては、のど元まで答えが出かかっているんですけれども、
うまく言葉になかなかまとまらない。

タイムトラベル、
つまり、
特定の時間をやり直すことでして、

やり直すことを表現する際に、画面の進行方向を取り換えることが頻繁になされています。

冒頭の自転車のシーンと、小田急線に突っ込んでいくシーンでは 左右が逆になっています。
冒頭のシーンは、ブレーキが効いて遮断機の手前で停車することができましたが、その時の進行方向は

一方、小田急に突っ込んでいくシーンでは とポジティブ方向です。

わたくし的用語では、この方向に進むことは物語の目的に向かって進むことなので、
大方の映画では、この向きはハッピーな結果を生むことになるのですが、この映画では、全く別の展開を見せます。

このような見せ方をされると、わたくし的には、「へえ〜っ」と思わされて画面に引き込まれていくのですが、


電車に跳ね飛ばされるシーンでも、左向きのカットと右向きのカットの二つがつなげられています。

まあ、時間というのは現在を基準に未来と過去で左右対称の構造をしているように私たちには感じられてしまうものですから、
その理由からでしょう、
執拗に左右対称的画面進行がこの映画では為されます。



このシーンにしても、結果に不満足で、タイムリ―プをやり直す場合には、
やり直しのシーンは逆方向に走っています。


この映画が描きたかったものは、時間をとびこえることではなく、別の何かだと感じられるのですが、


やたらに怪我することの多い映画です。
そして怪我することをポジティブネガティブで区分するような映画でもないのですね。
そのことは、一回目のタイムリ―プで小田急線に突っ込む自転車の向きからもわかりますが、

物語を先に進めるための怪我なら、どんどんウェルカムな映画です。
もうちょっと体を大切にしましょうよという感じなのですが。

心の傷に関しましても、


二人乗りの自転車が土手を方向が動く時に、男の子が女の子に告白します。
そして女の子は、それが照れくさい、もしくは、その告白が導くはずの傷をひたすら回避しようとして小さなタイムリ―プを何度も繰り返します。


最後の告白を待っているシーンでは、男の子の方ではまだそこまで思いが煮詰まっていない時点に戻っちゃっていますから、なかなかいい言葉が出てきません。
んだから、
「横断歩道わたるときには気を付けろよな」みたいな台詞しか出てきませんが、

そんなことしか言わないかれを ←方向の画面の外に押し出して、一人泣いています。


小田急に突っ込むシーンにしろ、この告白が肩透かしに終わるシーンにしろ

この映画がずっと志向してきたのは、傷まみれのバッドエンドで、

「傷つくことこそが成長である」とでも言いたいのかもしれません。

そして、『時をかける少女』という題名ですが、

筒井康隆の原作にしても

大林宣彦の作品にしても
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題名に反して、女の子は走ってないんですよ。まどろむように時間を越えていたはず。
『時をかける』んならちゃんと走らなダメじゃろ、とものすごく単純に私は考えてしまうのですが、

走る、という過剰なエネルギーの放出方法で時間の枠を越えようとすると必然的に身体はボロボロに傷つくだろう、

そんな点からも、このアニメの『時をかける少女』というのは、原作が発表されてから40年以上もたって、やっと原作のタイトルにちゃんとした正当性を与えたという点では、一連の『時をかける少女』作品群の中では一目置かれてしかるべきものだと私には思われます。


物語の目的が傷だらけになることであり、

小賢しいやり方で失敗を避け続けようとするよりかは、運命と時の流れに身を任せた方がずっといい、そんな風に映画のテーマを私は感じ取ってしまうのですが、


では、そのような人生観にとって、幸福とは何か?
「人生の目的とは幸福の追求ではないのか?」というトルストイ的な問いに対しましては、


「基本、傷ついてボロボロになるはずの人生における幸福な時間とは、ボーナスステージのようなもの.勘定から外しとくべき」という回答がこの映画にはあるように思われます。








ここまでして、男の子に自分の思いを伝えるために時間さかのぼろうとしてるんだったら、
ちゃんと自分の口から男の子に告白しろよ、と私は思うのですが、


それはいいとしまして、ゲームが終了したあとのボーナスステージが画面に現れるときには 方向の逆行が画面に示されます。



最後の告白のやり直しのシーンも 男の子がの方向で画面に登場しますし。




『おおかみこども…』にもあった土手のシーン。
上下二段の歩行者と自転車の移動が、二人の心のすれ違うさまを表現している。
人の心は本来目に見えないものなんですが、実は目に見えるものこそ心であり(つまり他者に感知されるべきものこそが心であり)、そうでないなら存在しないのと同じこと。

タイムリ―プの実験のシーンで、ひとりで川に飛び込むシーンがありましたが、あそこでは超能力について半信半疑の心の様が行き違う通行人と自転車によって表現されていました。



じゃあ、そんな傷つくことだけが人生だ!みたいな世界観にどのような救いが差し伸べられているのかと申しますと、


痛いとか痛くないとか、辛いとか楽しいとか、そういう二項対立を超えた存在。人間の存在をはなっから無視した存在でありながら、根っこまでたどると、人間とどこかで繋がっている自然の存在。

ある種の神の姿としての入道雲の姿。これも『おおかみこども…』に出てきます。


夕方の土手で男の子と女の子が分かれた後、飛行機雲がの方向に
進んでいきます。
このような見せ方をされると、
あの飛行機雲が男の子が未来に戻る姿であるとしか見えないのですが、

その方向、つまり人類が進むべき方向、いわば未来のことですが、
その未来を待ち受けるかのように 仏画の方向を向いて待っています。





あの軽い作風の作品に対し手少々大げさなことを言っているように感じられるかもしれませんが、
男の子のセリフで少しだけ示唆されるのは、

未来に於いては人口は激減し、おそらく地上に人が住めないような状態になっているらしいことです。

まあ、救いの手が何らかの形で必要な未来には違いないようです。


富野喜幸が『おおかみこども…』を絶賛していたのですが、
このブログの映画を左右の画面進行で読み解くという発想は、富野理論『映像の法則』とほとんど同じです。

こういう映画の読み方をしていますと、『時をかける少女』にしろ『おおかみこども…』にしろ、非常によくできていると私には思われます。


タイムトラベルに関する矛盾点をいちいち指摘するような見方をせずに、画面上のベクトルだけ読んでいくと、映画の核の部分にすんなり寄り添うことができる、そんな気がするのですが、どんなもんでしょう?



2013年7月28日
「映画の解釈は個人個人によって違うものでしょ?」といういい方もあると思います。

究極的には「人生の意味の解釈って心の持ち方次第で書」というのと同じだと思います。

ただしかし、映画のスクリーン上の光景は、私たちの日常の目の前の光景とは違い、製作スタッフによって解釈の幅の限定された光景であるわけでして、

あまりにも自己勝手な解釈のあり方というのは拒否されてしかるべきであろうとは思われるのでしょうけれども、

それにしたところで、映画の解釈って、
解釈する立場の観客には、点と点しか与えられてなくて、その点を強引に線でつなぐのが解釈とでも言ったらいいんでしょうか、
では、その線とは何なのかというと、物語の合理的な解釈だったり、世の中の一般常識だったり、映画スタイルの伝統だったり、するのでしょうけれども、
わたしの場合は、画面の左右の方向を恣意的に操作することで観客の心理を誘導しようとしているはずの制作側の目論見、でしょうか?

ただそれにしたところで、点と点をつなぐということ、いわばかなりあやふやなことをやっている訳ですから、違う人がやれば違う結果に至ることも当然でしょうし、同じ人間がやったところで、別の時にやれば別の解釈に至ることもあります。

同じ映画なのに、時には全肯定だったり時には全否定だったりって誰でもあるんじゃないですか?
そこまで極端でないとして、


ただ、単に、シンプルに、この画像、時間の可逆性について示したものでもあり得る、といえるわけでして、

それなら、

これも時間の可逆性についてのもので、
「いま、言い出せないことを言ったら、別の未来が待っているんだろうか?」
「あの時、別の言葉を言っていたら、今の自分たちは別の在り方しているんだろうか?」
という、人生上の無数の分岐点について、なのかもしれません。

まあ、何にしろ、この画面、歩行者と自転車だけが動いていて、二人全く動きません。

こうやって、一画面に動く要素を一個に限定するやり方、ガンダムに多いんですよね。
演技って、相手にどう絡むか、ということですから、二要素が同時に動くと仕掛ける側と受ける側に演技のやり取りが発生するわけです。
これを絵で表現するのは、けっこう大変で、ガンダムみたいなしょっぱい作画だと、二要素同時に動かすと、演技が破たんしてしまう。

こういうの、私はガンダム演技と内々命名しております。


そして、更には、映画から動きを取り去って、

この画像だけしばらく凝視してみるとわかることなんですが、

「そういやあ、わたしは、この映画を恋愛映画として見たことがなかった。なんか面白い映画としてしかとらえていなかった」ということに気がつくわけです。

大林宣彦作品では、恋愛という要素から映画の軸がぶれることを許さない的な覚悟があったのですが、こちらの作品では、主人公の態度と同じで「恋愛という関係が息苦しくてそれよりも友達関係の方が可逆性が…」というノリに見ている側も嵌ってしまっておりました。

まあ、現役で女子高生やっている方なら、おっさんとは違う見方されているかもしれないのですが、


この画像、男の子は帰るはずの未来の方向に体を傾けていて、女の子は彼と左右対称の姿勢を取りたいはずなのだけど、本当はあったはずのこの後の展開を知っているだけに、男の子と幾何学的な左右対称の角度を作ることができない。
女の子は本来右側に傾いているはずなのに微妙に真ん中寄りを向いている。

結局男の子は、女の子が体験したはずの本来あるはずだった未来を理解しないまま画面の向かって左側に消えていくんですが、


おそらく、泣いている女の子の後姿を見て、男の子は本来あるはずだった未来、本来いうはずだった言葉の重さに気がついて、
引き返して女の子に慰めの言葉をかけるのでしょうけれども、

「恋愛という関係が息苦しくてそれよりも友達関係の方が可逆性が…」というノリを強くして、恋愛から逃げた分だけ、この『時をかける少女』はそれ以外の時をかける少女よりも、ラストシーンが分かり肉理屈っぽくなっているという感は否めないところです。