『がんばっていきまっしょい』 研究

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。


アメリカ流の脚本術というものは、主人公の追及する目的を明確に映画の中で提示し、其の目的の追求の課程を観客に見せ続ける事で共感を生じせしめ、はらはらどきどきを感じさせるというものなのですが、

このような作劇法が唯一無比のものであるという事はないでしょうが、それなりに有効であるという事は、アメリカ映画が世界において圧倒的なシェアを占めていることからも納得できるところです。

そして世界の映画・テレビドラマは、ほぼこの手法にのっとって製作されており、
物語を目的追求のプロセスとみなす考え方は、

映像的には、画面左右をそれぞれ物語進展に於けるポジティブ方向とネガティブ方向に用いる手法に帰着しました。


それが今から80年も昔の話です。

こんな簡単で単純な事が、映像業界でにずっと企業秘密的内輪事として扱われているのですが、

ひとたび気づいてしまうと、なるほど、世の中とは単純でくだらないものなのだなと思うと同時に、物語というものは、映画というものは、面白いものだと改めて実感するしだいです。



日本映画は、この方向に向けて物語が進展します。

物語の目的の追求はこの方向の動きにおいてなされますし、この矢印の方向に目的が待っている事になります。

ボート部でがんばる事により自我を確立する、

一言で言うとそういう物語が『がんばっていきまっしょい』ですから、ボートの進む方向は映画の中では9割方<−方向に決められています。

Uボート』や『宇宙戦艦ヤマト』の回でも書いていますが、潜水艦などの乗り物は、進路変更が容易ではなく、ひたすら直線に進む類のものなので、一度右に進むか左に進むかを映画の中で決めてしまうと、最初から最後まで其のとおりになってしまう性質を持っています。

乗り物的にそういう性質を持っていますから、映画の中では、目的地をひたむきに目指す存在として表現される事になるのですが、


しかし『がんばっていきまっしょい』の中にも、例外的に

の方向にボートが動くシーンがいくつかあります。


これはそのひとつで、

ボートの練習して強くなる事自体は、目的の追求に沿う行為なのですが、其の一見したところの突飛さ、意外さが、逆向きのボートの進行として表現されています。

「わしもアメリカのコーチに始めてこのやり方を教えられたときはたまげた」


そして其の変則的な練習方法が功を奏し、艇の乗組員が一体となり、さらには自然の中に溶け込んで水に逆らう事もなくなった様子が、
<−進行にボートが切り替わる事により表現される。

物語の中のターニングポイントを、画面上の方向切り替えで表現し、そこに音楽をかぶせ、色彩をいじる事で、鮮やかな印象を観客に与える、

まさに映画の教科書のような場面。



こういう映画の進行方向を読んでいく「映画の見方」というのは、映画の監督か編集者でなかったら本来邪道な見方なのかもしれませんが、
しかし、こういう見方をしていると、映画の息遣いの深いところまで理解したような気持ちに慣れてしまうものですし、主観的な単なる感想文を超えた漢キャン的事実に基づく映画批評というものができてしまうので、なかなかやめる事ができません。


この映画、『がんばっていきまっしょい』というタイトルが示すところは、スポコンなんだけど、正面から其の事を主張するのが照れくさくて、
がんばっていきまっしょい』という方言を使う事で、言い訳にしている、という感じがするのですが、

内容的には、多少トホホ感を漂わせる工夫はされていますが
完全な熱血スポコンもの、しかも二流才能しかない人たちの熱さを描いたスポコンものです。

漫画で言うと『キャプテン』みたいな感じでしょうか。

そして、よくよく考えてみると、この映画、友達同士の間に何の葛藤もないんですね。みんな素朴におんなじ心でひとつの目標を追求している。

普通スポコン物って、互いのメンバー間の葛藤、友情、裏切り見たいなものがあってしかるべきなのですが、
この映画には、それがないのです。

葛藤が存在するのは、田中麗奈と中島朋子の間だけ、
つまり子供と大人の間だけ、
さらに言うと、
大人になった観客が自分の青春時代を振り返ったときに、そのときの事をどうやって受け止めるべきなのかについての映画なのでしょう。
この映画、10年前の映画ですが、映画の舞台になっているのはそこからさらに25年も昔のことで、
映画のBGMは臆面もなくノスタルジーをそそるような湿っぽいものです。


映画の進行方向の話に戻りますが、
<−の方向に映画が進行するという事は、映画の目的を追求する主人公は基本的<−の方向に進む事になります。

そして主人公と相容れない要素を抱える登場人物は −>の方向で画面に現れ、
画面上で主人公とぶつかり、対話し対決し、和解できない場合は、どちらかが死ぬまで決着をつける事になります。


ぜんぜんやる気の見られないコーチの中島朋子は、ボート部で強くなって自我を確立したい田中麗奈と衝突しますから、

画面上の立ち居地は基本的に以下のようになります

「コーチ私たち強くなりたいんです」
「強くなってどうする?」
「勝ちたい」
「勝ったらなんかいいことあるん?」


こちらは中島朋子の登場シーンですが、
観客にとって未知の人物、主人子と相容れない人物は ー>進行で画面に現れる事が多いのですが、

実は主人公と同じ要素を内面に抱えており、後々に主人公と和解する事の伏線として、<−進行で登場する事もあります。



あいまいで微妙な<−
方向の動きで画面に登場。


その直後、ボート部部員のランニングに追い越される。
この二つの速度の差が、部活に対する情熱の差の映像的比ゆとして用いられているようだ。


初登場のシーンで其の人物が<−とポジティブの方向に歩いているのか、それともー>とネガティブの方向に進んでいるのかで、後々の展開が大体読めてしまいます。

強烈な実例ですが、『スターウォーズ』では、ルーク以下の後々ミレニアムファルコンに乗る事になる人物たちは、それぞればらばらに映画に登場してくるのですが、それら人物の初登場シーンは、すべてポジティブ方向に統一されています。
そうやって、今後の展開に映像的に説得力を持たせているわけです。



がんばっていきまっしょい』に話は戻りますが、

中島朋子の動く方向、向いている方向に気をつけてみていると、
道後温泉のシーンで、あれ?と思います。


なぜか、中島朋子がすたすたと<−と、物語の目的追求方向を歩いています。


そんで、座ったら、田中麗奈がいてびっくり。

「コーチよく来るんですか?」
「初めてよ…ほかにいくと来ないし」
中島朋子の白けた台詞とさっきまでの湯上りのホクホク顔の対比が面白い。

中嶋朋子谷村美月みたいに子役上がりなんですが、
中嶋朋子、天性の役者ですわ、演出というのもあるんだろうけれど、演じる役についてよく理解できている人で、さらっと自然に演技で表現できてしまう。


この道後温泉での本来主人公が進む方向で歩いている中嶋朋子というのは、どういうことなのかというと、
ここ一連の場面においては、主人公は田中麗奈ではなくて中嶋朋子なのですね。
彼女のパートな訳です。つまりこの場面で語られるべきことは中島朋子についてのものであり、それは物語を通してのテーマの一部であるということです。



「なあ、わしに東京で何があったか教えてやろか?」
「いいです、別に」


結局何があったか教えてくれないのですが、この台詞を語る中嶋朋子の視線はお遍路さんの動きを追っています。

このように映像表現されると、

彼女の心の中にある後悔というものは、宗教的な祈りでもない限り癒される事のないものなのだろうと、見ている側は感じますし、沿う感じさせるつもりで撮影編集がなされているのでしょうが、

結局秘密のままの東京での出来事というのは、

宗教的癒しを必要とするほどの苦痛 = 妊娠の堕胎中絶
あたりなのではないでしょうか?
その他の物語要素との整合性から考えるに、ボートだけの自分の青春に不満で、ボートを捨ててまで男に走ったのに、妊娠したら捨てられた。

彼女が映画の中で語らなかったことはそんなことなのではないでしょうか。まあ、たしかに田中麗奈ならずとも、聞かずにおいたほうがいいだろうという気にはなります。



わたし的には、下のシーンがこの映画のクライマックスなのかもしれません。
いや、クライマックスというと語意的におかしいでしょうから、「映画のへそ」とでも言っておきませうか。


「マントーエいうて、境内いっぱいろうそくが並んできれいなんよ」
「ふーん」
「興味ないか…、なんやつまらんなぁ」
「うん」

この二人の会話、変なんですが、
普通に考えると、この二人の会話って成り立っていないんですね。

中嶋朋子が言った、「なんやつまらんなぁ」という台詞は、マントーエに興味持たない田中麗奈に対してのもののはずなのですが、

田中麗奈はそれ、受け流して、
「つまらない」という一点だけで中嶋朋子に完全に同意してしまっています。

論理的には互いに食い違っていますが、感情的には二人は同一性があるのですね。
この変な関係が、互いに同じ方向を見ながらカキ氷を食べるというシーンで表現されています。

もし、この台詞が同じ方向を向いておらず、互いに向き合った状況でのものだったら、この後、三次会としてバッティングセンターに行くという展開にはならず、分かり合えないもののとげとげしさだけが露呈したシーンだったはずのように思われます。


人間の共感とかってこういうもんなのでしょうね、実際の日常でも。
理屈とか状況の流れとかよりも、感情が同じ方向を向いているという事が実はとんでもなく人間関係では重要だったりします。


そのようにして中嶋朋子田中麗奈の間の共感を描いていくとどのような帰結が待っていたのかというと、

このバッティングセンターのシーンですが、

「コーチ、わたしにはボート以外なんにもないんです」
其の言葉をネット裏で聞く中嶋朋子の目線演技。
この子もかつての自分とおんなじなんだ、と悟る様が、単純でわずかな目線の動きで表現される。

ラストの大会で、試合前に中嶋朋子がする話で
「自分にはボートしかなかった、そんな自分がツマランおもっとったけど、いまになってみたら、そんでよかったんよ」
この台詞の伏線になっていますし、当然演技の中でもその流れを作り出そうと役者はがんばっている訳です。




ボートしかないはずの女の子がボートをこぐ事ができない、
其の事に対して中嶋朋子がかける乾いた慰めの言葉、

「ほら、次の球来るよ」

BGMはものすごく湿っぽいのですが、その反面演技はものすごく乾いている。演技の何が乾いているのかというと、中嶋朋子の感情表現が乾いていて、音楽との対比がいいバランスをとっているのが『がんばっていきまっしょい』の成功の秘訣でしょうか。



さっきも取り上げた、目隠し練習の場面ですが、


水に逆らうことなく仲間と一体になってボートを漕ぐ技術を体得したときに、
逆行画面で人物はすべて陰になり、個が埋没したように表されます。

そしてそのボートは

そのまま、さっき中嶋朋子が話していたマントーエのろうそくの明かりの中を進んでいきます。さっきのシーンでは田中麗奈は興味ないって言ってたんですけどね。

周りのクルーと一体になり、水と一体になっただけでなく、
中嶋朋子と完全に和解したことが、このオーヴァーラップで完全に表現されています。


青春映画なのに、同世代との葛藤って、この映画の中にはどこにも描かれていないんですね。
だから執拗に細かいやり方で年上のコーチとの葛藤を描きこんでいきます。


おそらく世の中の大人の90%以上は、このボート部員のようにすがすがしい青春を送る事はできていないでしょう。
そんな大人であればあるほど、自分の高校時代を直視したり、まじめに捉えたりはしたくならないものでしょうが、
そんでも、青春期っていいものなんですよ。どれだけバカで怠惰で現実離れした自分勝手な願望に満ち満ちていても、どこかにいとおしいものがあるのが青春というものでして、

そんなことを考えているから、私は、女子高生が出てくる日本映画を執拗にこの電波ブログで取り上げたりしているのですが、

この『がんばっていきましょい』は、中嶋朋子田中麗奈の和解というプロセスがあるからこそ、観客の誰もが自分の青春期を許せてしまう、
「そういう風にしか生きられなかった、詰まんないと思ってたけど、それでよかったんよ」
そういう流れに観客の意識が誘導されていくのですね。

この映画のさわやかさと臆面もないノスタルジーというのは、そういう映画の目論見に依拠するのだろうと私は私はまじめに考えております。