蓮見重彦が 映画を見る際の「動体視力」ということを言ってまして、
わたしの解釈では、それはどういう意味かというと、
映画は一期一会的にみられるものであり、
その一期一会を想定して、撮影し、画面を編集しているわけで、
その想定された一期一会に向けて、人の視線の集中する場所と注意からそれる場所に、それぞれにふさわしいメッセージをふさわしい濃度で割り当てていくことこそが 映画の画面を作ること、
彼の言いたいことをわかりやすく言うと、そういうことなのでしょう。
それゆえ、何度もDVDでしつこく見直していると、本来、無意識的に受け止められることを想定しているのに、そういう細かい点を繰り返し見て解釈することで「鬼の首でも取った」みたいに偉そうなこと言い散らす人物、
(まあ、私も、半分くらいはそういう人なんですが)って、映画産業だめにしてるよね、ってことだと私は思います。
新作映画については、DVDまだないですから、一期一会的な受け止め方なんですけども、
それゆえの楽しさってのがあるんです。もしかすると、勝手な自分の妄想喋り散らしてるだけかもしれないってドキドキ感がありまして、
この予告篇見たときに一番印象に残るのが、
正直意味わかりませんでした。
これ、サナトリウムでの療養法らしいとは映画観てるとわかるのですが、
ただ、これ、結核の治療法であるというのを予告編4分見たときにだれが理解するだろう?
これ見た日本人の何パーセントが理解するだろう、ということを考えると、
誤解されることを前提としているとしか思えないのですね。
そして、私がこの画面をどのように誤解したのか申しますと、
死体です。それも放射能物質が降下してくる状況下での死体袋の羅列です。
わたしは、この映画を見たときに無茶苦茶泣いたのですが、その大きな理由は、
この映画が宮崎駿の最後を飾るにふさわしく、走馬灯のように過去作品のイメージがまぶされているからです。
このシーンは、あの映画のあのシーンの引用だということをボロボロ思い出すにつけ
宮崎駿、ありがとう、みたいな気持ちが高まってしょうがなかったのですが、
この映画の女の子って、やっぱり、ナウシカなんだろうなと思いました。
この映画では、関東大震災と太平洋戦争を描きながらも、画面上ではだれも死にません。
地震と戦争の死者は、すべて、たった一人の女の子の死に凝縮されているのですね。
映画って、こんな風にカットつながれてたっけ?ともう覚えていないんですが、
飛行機墜落したら、パイロット死ぬはずでして、それに対して主人公は、飛行機の残骸と自分の設計ミスしか見ていない。
本当は、死んだパイロットのために泣くべきなのでしょうけれども、
そして、代わりに女の子一人が血を流します。
日本史上未曾有の惨劇二つの死をたった一人の女の子が引き受けている。
すべての惨劇を一人の女の子が一つの体で受け止め、そして死んでいく。
そう考えると、
たった一人で世界を救おうとした、ナウシカを思い出さずにはいられないところです。
鎮魂とはどういうことなのか?たくさんの死体を見せればそれでいいのか?黒焦げや紫色に膨れた死体は、死者への愛情自体を壊してしまうのではないか?
国民的レベルでの鎮魂って、こういう形でしかありえないのではないか?そんな風に私は思ったりもしました。
最後に、イタリア人設計家とともに、風の吹く丘を主人公が →方向に振り替えると、
死んだはずの彼女が走ってきます。
それも金色に輝く草原を。
ああ、これ、ナウシカだ。そう思いました。