ガンジー 偉い人の映画

映画は、まず、ガンジーの死から始まります。
市民ケーン』『アラビアのローレンス』などの伝記を扱った映画では、死から彼らの物語を始めることがありますが、観客は彼らの死を事実として知っているので、それをネタバレと感じる必要がありません。むしろ最初に死を提示し、それでも尚残る謎について観客に興味を持たせようとします。


以下で使用する−−><−−、ポジティブポジション、ネガティブポジション等の用語は、自分の個人的造語であり、その意味が分らないと、以下の文章の意味はほとんど分りませんので、興味のある方は、まずこちらをどうぞ……「映画の進行方向



暗殺者は、−−>と物語の進行方向に沿って登場します。
これは、観客がガンジーを殺す行為に共感すべきというメッセージではありません。
われわれ、というか、この映画の主要な観客としては欧米の白人が想定されていましたので、彼らにとってはガンジーの存在は、その多くが謎でした。この映画は、ガンジーとは何者であったのかについて解説する映画であるゆえ、ガンジーは謎多き存在として <−−から歩いてきて、観客であるわれわれの視線とぶつかります。

と同時に、冒頭からスリリングなシーンを作り、観客を一気に引き込むと共に、なぜ白人と戦ったはずのガンジーが同胞であるインド人に殺されなくてはならなかったのだろう?と謎が一層深まります。



インドでガンジーの国葬が行われた後、舞台は一転、彼が最初の政治活動を始めた場所南アフリカへ飛びます。
汽車は、−−>の方に進みますが、


ガンジーは、悲しい事に<−−と流れの逆を向いています。

彼はこの後、白人の車掌から、一等者に乗るとはふてえ野郎だ、とたたき出されます。


金払ったんだからここにいる権利があるはずだ、大英帝国連邦の法律には、そんな人種差別は認められていない、
ガンジーは弁護士だから、そういう理屈っぽさがありますが、
その彼の信念と世間の在り方は大きく食い違っている、そう言わんとするかのように、<−−の方を向く彼をおいて、汽車はーー>の方角に去っていきます。

その後、彼の依頼主のインド人富豪らと会談しますが、ガンジーがこの映画の中で、主役にふさわしい−−>のポジティブポジションを確立するのは、映画開始後僅か11分目です。

その場面は、有色人種は居留許可書の携帯を義務付けられてはいないとの主張のもとに、インド人有志の居留許可書を警官の前で一枚ずつ焼いていく場面です。
彼のやっていることは、イギリスへの挑戦といえるかもしれませんが、しかし、これは本来イギリスが法的に認めている権利を主張しているに過ぎません。
つまりこの映画の想定した観客層である白人にとって、非常に理解しやすい人物像を示し始めた、
これが上映開始から11分後です。


ガンジー』はイギリス人の撮った映画であり、
イギリス人が自国の恥部についてよくもここまで真摯に描くことが出来たものだ、と感心した人も大勢いたとは思いますが、
ガンジーが主役然とポジティブポジションに立った場面では、法的に正当な広義を行っているだけであり、それは本来イギリス人により設定された正義の形であります。

つまり、ガンジーは得体の知れない東洋の英雄ではなく、洋風の倫理観と合理性を体現した人物として映画の中で取り扱われているという事です。

こういう描かれ方をすると、イギリス人が『ガンジー』を見た場合、自国史の恥部に赤面するというよりも、自分達の法体系や啓蒙主義精神が思い描いたはずの正義と公正さに畏怖するのではないでしょうか?

そして、ガンジーがあのような形で独立を達成できたのは、宗主国がイギリスだったからであり、ナチや中国が宗主国だったらユダヤ人やチベット人のような結末になっていただろうと自然に感ずると自分は思います。




また、イギリス的正義を理解する人物としてガンジーが主役然と振る舞いはしますが、それでもインド人の習慣や発想は、白人にとってついていけない部分が多く、
奥さんが便所掃除するくらいなら死んだ方がマシ、とか言うのは、傍からみていると、訳の分からない論理です。

だから、いわゆる善意の白人とガンジーが出会う時には、白人の方が、−−>の方から登場します。



結局、『ガンジー』という映画は、イギリス人が撮ったガンジーについての映画に過ぎないわけであり、善意の白人から見た時にガンジーとは何者だったのか?という問いに答えているに過ぎません。

だから、何なのだ?それで何か悪いのか?というと、
別に、それでいいんです。
インド人から見たガンジーは、インド人が撮影すれば住むことですし、日本人から見たガンジーの映画が必要だというのなら、日本人が撮影すれば済む話です。