『ジョーズ』1975年
いわずとしれたスピルバーグの出世作ですが、画面の向き動きに注意してみていると、スピルバーグは相当に異常な感性の持ち主だという事が見ていて分ります。
以下の内容を読まれるのでしたら、こちらbaphoo.hatenablog.com
と、こちらbaphoo.hatenablog.com
をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
もともと映画は、主人公が目的地に向かう時、目的をかなえる方向に状況が進む時、 →に進み、そうでない場合は、←の方向に進むことに単純に決まっていました。
それがベトナム戦争が泥沼化することを契機に、アメリカ国内では政治不信、人種問題や拝金主義への批判が激化して、映画制作者たちもかつてなかった混乱状態に晒される事になります。
その結果、主人公が悪党であったり、社会的には褒められないような人物であったり、彼らの目的地や目的が何なのか分らなかったり、で、
画面が→
の方向に進めない映画が増えることになります。
それまでの美男美女スターが時代遅れになり、ダスティン・ホフマンとかジャック・ニコルソンのようなルックスの役者が主役を張るようになります。
裏方の仕事もプロにゆだねられていた照明撮影脚本が素人くさい仕事にとって代わられたり、という時代が10年ほど続いてから、
スピルバーグ、ルーカス、スタローンという連中が台頭して、ハリウッドをもう一度プロの仕事の場に作り直し、拝金主義を取り戻すのですが、
彼らの作品が、ものすごくシンプルなストーリーで安直なハッピーエンドの物語のように巷では思われているのですが、
その画面を一々チェックしてみると、
『スター・ウォーズ』にしろ『ロッキー』にしろ、そして、この『ジョーズ』にしろ、
画面は素直に→に進ンでハッピー・エンド二はなりませんし、分かりやすい善玉と悪玉という構図もありません。
ほとんどの上映時間は、主人公が←側の逆境に置かれます。
つまり、まだニュー・シネマの影響の強かった当時のアメリカでは、能天気で安直なストーリーを描くことが、どれほど苦労する事だったかということが分るかと思います。
そして今回取り上げる『ジョーズ』ですが、まず疑問に思うこと、自分のみならず、皆様もそうだと思いますが、
どうして、動物パニックというB級のど真ん中みたいな映画の制作に大金が投じられ、2時間を越える大作となったのだろうか?という事ですが、
動物パニックものというと、おそらくヒッチコックの『鳥』がその代表作であるように思われますが、
動物という自然と直結したように思われるものが人間に牙を向けるとき、なんだか、黙示録的破滅の光景が現出したように感じられるものです。上手く描けば、動物パニックは面白い素材なのですね。
しかし、カスい動物パニック物の方が遥かに多いですよ。
そして、『ジョーズ』にしても、二作目三作目が作られましたし、いろんな亜流作品もつくられました。そして本作以外のどれもこれもがB級映画として扱われています。
ところで、
主人公のロイシャイダーは、全編通してほとんど←向きです。
普通の主人公のように 物語の進行方向→に向かってどんどん進むということが全くありません。
最後の最後になってやっと、彼自身がサメを退治しますが、それ以外は不可思議なくらい傍観者に徹しています。
特に船に乗り込むまでのロイシャイダーというのは、サメが野放しになっている危険を理解しているのは彼一人ということで、周囲から孤立したひとりぼっちです。
「世界はこのままだとおかしくなってしまう。それなのに誰もそのことに対し、何もしようとしない」
60年代に若者達が感じていたような憤りが、ロイシャイダーの役の中にこめられているように見えます。
それから船に乗り込んでから、どうなるかというと、物語的には、サメ退治にむかって物語が進展しているのですから、→方向に力強く物語が進むかといえば、そうでもないのですね。
陸にいる間が、周囲からの孤立を表していたとするなら、
海に出てからは、父と息子の葛藤のようなものが描かれます。
漁師のロバートショーがユダヤ的な厳格ででしゃばりな家長とすると、その息子が海洋学者のリチャード・ドライファス。
この二人の葛藤が後半のドラマの軸なのですが、ここで奇妙なほどにロイシャイダーは傍観者です。
もともと原作のある映画なのですが、そうとうに書き直したとのことで、これらスピルバーグ的な問題、父親のこと、周囲からの無意識的な孤立感は、どこまで彼が自分で書き加えたものなのかは分りませんが、その後の彼の映画へ繋がっていく事を考えると、相当彼のアイデアように思われます。
俳優の演技をあんまり重視しない監督として有名なスピルバーグですが、この映画では主役の三人は、みんな立派な芸達者で、特にロバートショーの存在感はすばらしい。
ドライファスの方が先に登場していますし、主役のロイシャイダーとの人間関係も良好ですから、観客はこの二人のうちなら、ドライファス目線になります。
にもかかわらず、このシーンでは ドライファスが←側のネガティブポジション。
最新の機材を大量に持ち込もうとしたところ、ロバートショーから宇宙旅行にでも行くつもりか?とバカにされます。
特殊合金の柵を持ち込もうとする時、「サルの檻か」と馬鹿にされますが、
「俺が中に入ってサメとやりあうんだよ」とドライファスが返すと、
ロバートショーがものすごく微妙な表情をします。
「さよならアディオス、スペインの女」と馬鹿にしたような歌を歌いますけれども、
ドライファスが→でロバートショーが←という画面上の立場の変化から、
ロバート・ショーがドライファスの度胸のよさを認め、彼に一目おいた瞬間と自分は感じました。
そして、そのバカにしたような歌を歌うロバート・ショーに対してドレイファスも実に微妙な表情の演技をするのですが、
実に微妙に、海の男二人の心が通じ合ったように感じられるのですね。
もしかすると、父親と息子の和解ってこういう繊細すぎるものでしかありえないのかもしれません。
その代り、
観客の共感のよりしろであるはずのロイ・シャイダーは、海の男二人から取り残されていきます。
サメ退治が映画後半の目的なのに、船はなかなか→方向に進めませんが、
ロバート・ショーが、サメに樽付きの弾丸を打ち込むときに、船は方向を変え、一気に物語を盛り上げていきます。
どんなもんだい、ドヤ顔のロバートショーを微妙な角度で写しつつ、船は、彼の手柄を賞賛するように→に進みます。
この後、ドライファストロバート・ショーの二人で、傷自慢を始めます。どこの傷がいつサメにやられたとか、そういう自慢を二人で始めるのですが、
ここでの演技が面白い。
二人で何箇所も傷を見せ合って自慢競争していたんですが、とうとうドライファスがテーブルの上に足を乗せてふくらはぎの傷を見せると、
「このバカ、アンヨの傷自慢する為にメシ食うところに足のせたぜ」みたいな感じで、その心情に対する同意を求めるかのようにロイシャイダーのいる方に目をやります。
そしたら、ロイ・シャイダーも、自分も傷の一つでも見せて話しに加わろうかなと盲腸かなにかの手術の後をお腹に探すのですが、あまりにもしょぼいので、止めにします。
スピルバーグが演出つけたのか、それとも役者達が勝手にやってくれたのかは分りませんが、実にいいシーンなんですよ。
ただ、このシーンからも、ロイシャイダーが主役であるにもかかわらず、ほとんど傍観者であるという異常事態がひしひしと伝わってきます。
そしてこの後、ロバート・ショーが海軍の刺青を腕から消したいきさつを語ることになるのですが、
それは原爆をマリアナ諸島まで駆逐艦で運んだ帰り、日本軍の潜水艦に撃沈され、極秘任務だった故、救助に来てもらえず、乗組員のほとんどがサメに食われていったというもの。
動物パニックは時として、黙示録的破滅感を濃厚に表してしまうものですが、そのバックボーンとして原爆での殺戮があったという構造です。
そして、サメによる血まみれの死とその奥深いところにある大量殺戮への不安、
スピルバーグの後年の映画において、それらモチーフが露骨に表面化しますが、実はごく初期から彼の映画はそれらを内包していたのですね。