このブログ、画面の左右の方向について語る映画レビューが主体なんですが、
このブログ内で持ち上げられている監督は、
リドリースコット スピルバーグ 黒澤明 そして宮崎駿でして、
全員が国家レベルの桂冠監督どもばかりだというあたりから、私の人間性の保守的なところが露見してるようなのですが、
それはいいとしまして、
さっき『風立ちぬ』見てきたんですが、
主人公とその妻が、居候先の上司に結婚の仲人を引き受けてくれるように頼むシーンから最後まで、見ていて
ずっと涙がこぼれる映画でした。
まあ、『お兄ちゃんのハナビ』で大泣きしているような人間ですから、私の涙なんて安いもんなんですが、
確かにすばらしいです、この映画。
宮崎駿は現代の日本人映像作家ですから、画面方向を ← の人なのですが、
このことは、『未来少年コナン』のOPを見れば、だれでもわかることだと思います。
(イタリア語です、これ )
この映画の最初のシーン、兄と妹が寝ているところから始まります。
アニメは、ファンタジーの世界を描くことが多いですから、
寝ているときの夢と、ファンタジーを 画面編集でつなぐようなことをよくやるのですが、
それゆえに
寝ているところから始まるアニメ、結構あります。
『千と千尋』がそうですし、
『おおかみこども』もそうですし、
まあ、これどうなんでしょう?『コクリコ坂』もそうでした。
(まどろっこしい。このブログの前提受け入れていない人相手に書いてると、一晩かかってしまうので、映画の印象が薄れる前に、書きたいこと書ききる)
寝ているということですから、二人とも夢を見ている訳ですが、
二人の顔の向き 逆です。
まあ、兄と妹の目指すところが異なる、もしくは二人の見ている夢が違う、ということなのですが、
その夢というのは、夜に見る夢としての夢のみではなく、人生の指針となる妄想という意味での夢でもあるのですが、
この後、主人公は、家の屋根を上り、その先っぽに固定されている飛行機に乗り込んで飛び出すのですが、
その飛行機の翼の先端に指がある、ということから、「これは夢だ」ということが確定しますが、
この翼が出てくる前からすでに、
屋根を上る主人公の動きが
こんな感じで、寝顔の向きとつながっています。
移動線の方向から、この屋根を行くシーンが夢の中のことだというのは、はっきりと分かります。
そして、これが、物語の在り方についての補助線として機能してくれるんですが、
この主人公って、空飛ぶ、もしくは空飛ぶ機会を作る夢にとりつかれた男で、その夢を生きることが彼の人生なんですが、
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それって、夢遊病者みたいなもんで、いろんなところで現実との違和感がスクリーン上に表明されます。
そして、当の主人公はそのことに気が付いていない、ただ、淡々と第三者的に画面の方向が夢に生きる主人公の変さ加減を表していきます。
空飛ぶものは ← なのに、地を這う汽車は → 方向。
しばらくこの状態が続いて、
関東大震災が来る直前に、汽車の方向が ← 変わります。
この時、私が、この映画がどう進むのかが分かったような気がしたのですが、
夢と日常の間を夢遊病みたいにさまよう人間が、生き残りたいという本能によって自己矛盾を解消する物語なのだろうか?と
大体その線で、間違っていないのでしょうけれども、
ちなみに、最後のカット。
物語は ←方向に進むのに、
風は大抵→方向に拭いています。
この映画画面の構造、いかにも宮崎駿的でもして、
これゆえに、どうして彼の映画の大半が説教臭いのか?が分かるような気がします。
説教臭いとは、臭い説教が含まれているから臭うわけでして、見事な説教がモザイク状に美しくまぶされているなら、説教臭はそんなにしないはずです。
『ハウル』にしろ『ポニョ』にしろ『風立ちぬ』にしろ、宮崎駿には道徳とは無縁の表現欲求みたいなものが満ちてるはずの人ですから、
そういう人が説教言おうとすると、大切なもの7割ぐらいを捨て去ったうえでないとすっきりしたことが言えないわけです。
ポニョとか風立ちぬにお説教ってどこにもないでしょ、むしろ、その反道徳性に見ているこっち側がビビらされたりするのですが、
まあ、彼が説教しようとすると、
「人は大地から離れては生きていけない」とかそういうレベルに落ちてしまうのですね。
少し話がそれましたが、
画面を右と左のベクトルとして抽象的に解釈するという発想に関しては、宮崎駿は抜群のセンスを持っている人であり、
この画面一枚からそのことは十分わかるのですが、
余りに抜群なので、セオリーをぶち破る方向に進みがちなんですよね。
宮崎駿、記者会見までして引退への決意の強さを表明しましたが、
その引退宣言が、今回で五回目だとか七回目だとか言われています。
私が思うところでは、二年前の地震がなかったら『ポニョ』以降はなかったのかもしれないですし、
『もののけ姫』の時は、かなりマジだったのかもしれないと思います。
『もののけ姫』以降の作品って、明らかに外面の進行方向のセオリーがくるった世界です。
画面進行方向のセオリーを崩すだけならバカでもできます。そして一般人から存分にバカにされるのですが、
セオリーを崩して、なおかつそこにセオリーが存在しているというのは、乱調の美学といいますか、ものすごく高度な表現なわけです。
その崩れ具合が、ファンタジーに完全浸食された現実世界を表現するに向いていたということなのでしょう。
まあ、もっともそれが本当に面白いのか?好きになれるのかというのはまた別の問題ですが。
ピラミッド
人間がその夢を追及していく中で引き起こされる災い、
その厄ゆえに夢見ることをやめてしまうべきなのかというと、それやった瞬間にデストピアしか来ない訳で、
私たちの世界って 夢を見ること というデモーニッシュな推進力に乗っかって今まで生きてきたのでしょう。
というか、この映画、そういう風にしか見えません。
そして、風、大地の倫理は それとは逆方向のベクトルなのですよ。
やさしさ、自然と寄り添う調和、
そういうものに気づかないふりして、前に突き進んでいくことをやめることができないのが文明社会なのですが、
その人間の原罪みたいなものを許してくれる瞬間としての紙飛行機の飛翔曲線、
単調な線を描けず、左右にうにょうにょ蛇のように曲がりくねり、それでもなおかつ風を捕まえ、それに乗ろうとする。
そんな風に私は映画を見ていました。
町山氏、言ってること正しいんですけど、このその他バカ二人演出って、お昼のワイドショーレベル。
「映画の解釈には、一定レベル以上の教養が必要という主張の人であり、
その教養は、そんなに敷居が高くないけど、裏話的な作家研究が含まれる」
わたしがきっとこうだ思い込んでいる、町山氏の映画の語り方。
じゃあこの辺はどうなのだろう?といろいろと考えたりもするのですが、
ジェラルミンの部品が小包で届くのですが、そのパッキング材として使われている古新聞に、上海事変の記事。
これで、戦争まであと何年かが分かるのですが、
日本国民の半分以下でしょ、上海事変が何年かとか事変について知っているのって。
今どきの普通の小学生が知るようなことではないですね、これ。
ドイツによるヨーロッパ戦線は39年夏に始まっているとか、
私の周囲にいる普通の日本人のレベルから考えると、
この辺のタイムリミット感、
「僕たちにはもう時間がないんです」という台詞の背景になっている戦争までの残り時間って、
この映画観る観客の半分以上はよくわかっていないだろうなという気がします。
まあ、それわかんなくても、あんまり問題ないんですけど。
(とか偉そうなこと書いていながら、わたし、映画のラストのゼロ戦の初飛行って、1940年だと思ってたんですよ。実は、1939年が初飛行で、運用開始が1940年だそうです。
つまり、初飛行のシーンでは、ドイツ軍はまだ戦争始めていないんですね)
町山氏も言ってましたが、中盤に出てくるデモーニッシュなドイツ人、ゾルゲということなんですが、
彼がホテルの食堂で山盛りのクレソンを食べてるシーンが二回ありますけど、
そこから、彼がベジタリアンであり、 ベジタリアン=アドルフヒトラー ―> 悪魔
わたしは、そう思って映画観ていました。
まあ、一般教養的には、ゾルゲ知ってるよりヒトラーがベジタリアンだったことを知、ものgってるほうが敷居高いんで、
「映画観るのに、教養と知識のストックが必要なんじゃ、ボケ」的な主張には、わたしもどっぷりですね、実のところ。
細かい話詰めていけば、ゾルゲの事件が発覚するときのことを考えると、
あのドイツ人は、ゾルゲ的な人物だけど、史実のゾルゲではありえないわけで、
主人公に戦争の恐ろしさについて囁くデモーニッシュな人物と解釈する方が正しいのではなかろうかと思うのですが、
あのドイツ人に対して、史実のゾルゲのイメージを重ねることで物語にふくらみを感じることは結構なことなのでしょうが、
それ以上に、彼のデモーニッシュな存在感をちゃんと受け止めることのほうが大切に思われます。
じっさい、あのキャラの目の描かれ方、怖いですしね。