自分は映画を見るときはほとんどDVDでみているんですが、最初の一回目はほとんど何も考えずに、自分が日ごろ力説しているようなベクトルがどうのとか画面の向きがどうのという事を無視して、虚心坦懐謙虚にみています。
そして、その時の印象と感じ方を普通の人がどのように映画を見ているかのモニター意見のように利用しつつ、二回目に見るときはそれらの印象と画面の方向とベクトルがどのように絡み合っているかに留意して見ています。
まあ、面白くないと思ったら、即早送りか、中断ですが、
『宇宙戦争』に関しては、通しで二回続けて見ることが出来ました。
宇宙戦争 スペシャル・コレクターズ・エディション [Blu-ray]
- 出版社/メーカー: パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
- 発売日: 2012/09/14
- メディア: Blu-ray
- この商品を含むブログ (7件) を見る
一回目に見たときの感想というのは、「いったいこの映画は何なんだ?」という唖然感です。
何も考えずに見るようにしているのですが、
それでも、初見の時にものすごく気になった場面が、この場面。
中盤で、車を失った後、フェリーに乗ろうとして待っている時、頭上を鳥が飛んでいく。
この後、タコマシーンが現れて、地獄のどん底に叩き込まれる事になるのですが、
以下の内容を読まれるのでしたら、こちらbaphoo.hatenablog.com
と、こちらbaphoo.hatenablog.com
をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
普通の映画だと、悪い出来事の予兆というのは、←方向に動くものです。
煙突の煙とか、関係の無い通行人とか、電車とかの動きが右向き化左向きかで、次に起こる出来事がどういうものかが予感させられるのですが、
この鳥の流れは、→と、思い切りポジティブであるのに対し、
それを見上げる女の子の様子は、
かくの如し。むちゃくちゃ悪いことが起こりそうな様子です。
そして、その不安感から、父親の手を握ります。
ちょっと待てよ、ってとこです。
そして案の定タコマシーンが出現して、人間たちを虫けらのように殺戮するのですが、
鳥の飛んでいく方向違うだろ、映画のセオリー無視しているだろ、そういうことやっちゃうと、他の場面での進行方向の技法が効果持ってこないだろ、と。
『2012』 似通った内容のパニック映画ですが、
凶兆を示すための鳥の飛ぶ方角は、←方向です。これが普通のはずなのですが、
『宇宙戦争』ではセオリー破りが、常識の壊れた世界を表現している、自分にはそう思われました。
電車とか煙とか通行人の向かう方向で、次に起きる出来事の予兆とする技法は、映画の中でしょっちゅう使われているものなのですが、
『宇宙戦争』の世界は、そういうありきたりの予兆を超えた事態が、次々と起こる世界であって、こういうセオリーをずたずたにした表現が非常に似つかわしくあるのですね。
911にしろこの前の地震津波メルトダウンにしろ、本物の大惨事というのは、こういうものなのでしょう。
この鳥のシーンの少し前に、踏み切りで待っていると、火達磨の汽車が猛スピードで通り過ぎるシーンがありますが、
これにしても「なんじゃ、こりゃ?」ってなもんです。
どうして、ここまで火達磨の汽車が平然と運行しているのか?
タコ・マシーンにやられたんだったら、もっとぶっ壊れているはずだろうに、とか
いろいろ合理的に解釈したくなるのですが、
この火達磨汽車って、正直何なのかよく分からないのですね。
そして、そのよく分からなさを助長するかのように、 → ← 何度も裏表から見たカットが積み重ねられます。
画面の向き動きも、実に混乱しています。
『宇宙戦争』は徹頭徹尾、トムクルーズとその周辺に限定された当事者目線で物語が進みます。当事者目線といえば、『ジョーズ』も『E.T.』もそうでした。
決して、地球防衛軍というような全体を把握している組織が出てくるわけでもなく、ただ限定された情報、もしかするとデマ、それからこうあって欲しいという単なる願望に惑わされるだけの個人目線で物語が進行します。
今となってみると、政府発表や東電の説明のいい加減さを経験してみますと、上から全てを見下ろしたような情報が提示されない『宇宙戦争』の当事者目線の映画というのは、ものすごくリアリティが感じられます。
そして、当事者目線にこだわるなら、こういう火達磨列車みたいなことは、別に説明されなくてもかまわないのでしょう。むしろ、こういう不合理な事が次々と起こるのが大惨事の状況なのですから。
まあ、後付の二回目に見たときの感想なのですが、この踏切の火達磨汽車のシーンで、それまでかろうじて維持されていた画面進行が、またもやずたずたにされてしまい、何が起こるのが、それに対してどう対処すればいいのかが、全く分らなくなってしまいます。
そして、その分らなさというのは、トム・クルーズと息子の離別となって、一つの収束を見るのですが、その時も、一体全体二人のうちどちらが正しかったのか?結果として息子を行かせてしまった事は正しかったのか?ですが、
タコ・マシーンに手籠めにされた後のフェリーのシーンに続いて、
このゾンビの群れのような人の流れ、これに続く場面で息子とトムクルーズは離別するのですが、それが正しい選択だったのかどうなのかが全く画面の上で納得できて来ません。
その二人が離別する丘へむけてのだらだらした行程は、進行方向が、右になり、左に切り替わりと、迷走感が漂い、決して約束の土地への行程でないことは見ていて痛々しいほどに分かります。
この映画は、そういう上から目線の判断を極力配したところで成り立つリアリティを追求しているのですから、そうなって当然なのでしょうが、こういう映画がわかってしまう今現在の私たちって、相当にもろい世界に生きているのだなと感じさせられました。