『インドへの道』

映画とは、サブリミナル的な情報を多く扱うことで、

観客の心理を特定の方向に向かわせるものです。

 

私にとって最も興味深いのは、画面の左右の方向なのですが、

 

それ以外にいろいろなことをやっているのが映画でして、

 

『乱れる』

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橋、畳のへり、敷居、線路 その他を用いて、二人の人間関係の距離と断絶を示し続ける映画です。

 

Laundry

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こちらも同じく、橋、土手、川の両岸 で二人の人間関係を示し続ける映画です。

 

最もこのような表現上のテクニックは、文学上にもありそうなものですし、

画面の右と左がどうの、という無機的な情報と比べると、

 

わりに簡単に目につくんですね。

だから、こういうシーンは、映画ではこういう意味を担っているとか、映画評論家がドヤがおして解説したりするんですが、

 

あまちゃん

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水に飛び込んで生まれ変わる、水の中で過去の汚れを落とす、

そういう表現も定型化しています。

 

さらば青春の光

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 海に飛び込んだ後から映画が始まり、飛び込むところで映画が終わります。

 

 『シュウシュウの季節』

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ラストエンペラー』の皇后役のジョアンチュン監督作。中国女の行動原理のきつさがよく表れている映画です。

文革チベット下放された女の子が実家に帰る為に有力者の子弟にセックス提供しまくるという話。セックスするたびにその穢れを洗い落とすべく草原の中の小さな池で体を洗います。

 

しかし、だからと言って 水に飛び込む=生まれ変わる と単純に翻訳変換していいものか?それ安直すぎないか?作る方にしても、見る方にしても、とか思うんですが、

 

 

雨のシーンもかなり定型化した使われ方をしております。

映画に限らず、文学においてもそうなんですが、

 

『インドへの道』

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オープニングは雨のシーンです。

主人公の婚約者はインドの地方都市で判事をしており、彼に会いに行くため彼の母と一緒にボンベイ行の船に乗るんですが、

 

いい歳した女が彼氏と離れて一人いる。まあ、…そういう事って…そういう話しなんですが、

よくよく考えると、『インドへの道』って粗筋だけ語るとほとんど『エマニュエル婦人』と変わりません。

 

そして、インドへの道では雨、が抑えきれない感情の発露の比喩として用いられているようです。

 

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彼女の抑圧された性的欲求が引き起こしたヒステリーによって、小旅行に同行したインド人が強姦容疑で裁判にかけられる。(もっともインド人の方でも彼女に多少気が合ったんですが、)

現地イギリス人社会では、インド人を有罪にする気満々だったんですが、

最後の土壇場で、「あれは自分の勘違いでした」と主人公が訴訟を取り下げる。その結果インド人は無罪になるも、女の方はイギリス現地社会から総スカン状態で帰国。

 

このクライマックスシーンでも、裁判所の外では激しい雨が降ります。

 

女に母性はあっても性欲はない、性欲をコントロールできるのが優秀な人種のエリートの証し、

そういう欺瞞のはびこっていた時の物語ですから、

裁判所で女の人が、「私にだって性欲あります、インド人にだって魅力感じますよ」的な証言するって、結構大変なことというか、

『エマニュエル夫人』的です。

 

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ラストシーンは、主人公がイギリスの自宅で窓の外のしとしと降る雨をながめています。

無罪放免されたもののインド人の方は、かなり彼女のことを恨んでいたんですけど、

「裁判所での彼女が訴訟を取り下げる際に要した勇気のことを理解した今、もう恨んでいない」

そういう手紙を受け取った後の、女の人の心の感動の比喩としてのイギリスのしとしと雨のようです。

 

インドの雨のように激しくはありませんけれども。

 

 

 

 それこそ雨の類型的な使われ方なんて、探せばいくらでもあると思いますが、

EMフォスターと同時代で似たような話を書いていたモームの小説。

雨・赤毛 (新潮文庫―モーム短篇集)

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デビッドリーン亡き後、西洋と異国の文化の衝突のテーマを好んで取り上げたベルトルッチ

ラストエンペラー

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北京を追放され天津で西洋化された生活を楽しむ皇帝溥儀。一夫一妻制が原則の西洋的価値観の中には、第二夫人の居場所はなかった。

自分居場所を求めるように、雨の中を傘もささずに去ってしまう第二夫人。

 

ラストエンペラー』には、アラビアのローレンスを演じたピーター・オトゥールが出ていましたし、実にデビッドリーン的な映画でした。

 

デビッドリーンは

『旅情』 イタリアへ行ったアメリカ人

『戦場にかける橋』 日本人の捕虜になったイギリス人とアメリカ人

『アラビアのローレンス』 アラビアのイギリス人

『ライアンの娘』アイルランドのイギリス人

『インドへの道』 インドのイギリス人

と異文化衝突の映画をたくさん作ったのですが、

 

中国が出てくる映画撮ってませんでした。それだかでしょうか、スピルバーグが、彼の為に『太陽の帝国』という、上海で日本人の捕虜になったイギリス人の映画をプロデュースしようといろいろ奔走したようですが、結局流れて、スピルバーグの監督作品になりました。

 

 

そして私は、思うのですが、

橋を渡ることが、その人物が境界を越えることを意味している。

雨の中にいることが、その人物が感情を抑えきれないこと意味している。

そういう風に映画の中では定型的に描かれてきているのですけれども、

 

もしかすると、多少は、現実の世界で同じなのかもしれない、

ひとは、橋を渡るときとか、横断歩道を渡るときに、何かの決断をするのではないか?

(皇太子の弟君は横断歩道わたっているときにプロポーズしたという話ですし)

雨降り始めると、本当に人は感情を抑えきれなくなるのではないか。

 

そして、そういう傾向がなかったら、こういう定型化した映画の表現って、唯の言葉から場面への翻訳変換に過ぎないですよね。

 

で、もし、そうじゃない、相当に普遍性のあることだ、とするなら、

決断って、私たちの心の中にあるものではなくて、横断歩道や橋の上に落ちているものではないか?

抑えきれない感情の高ぶりとは、私たちの心の中にあるものではなく、雨の中にあるのではないか?

そしたら、私たちの心って、一体 何なのだろう?

 中身はそんなに大したものは詰まっていないに違いない。

 

もう何年も、わたしは、こんな風に考えてきました。