映画の法則②  同じ形 同じ動き = 同じ内面

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。








ひとたび立ち止まって考えると、不可思議なことはいくらでもあります。例えば仮面ライダーですが、藤岡弘が変身ポーズを決めると彼は仮面ライダーに変身してしまうのですが、
それって突如強くなりたい、いきなり大人になりたい、という子供にとって普遍的な願望を示してはおりますけれども、
常識的に考えて、そんなことあるわけないじゃないですか。一体どういう科学的根拠をもってああいう変身が可能になるのでしょう?ありえないよな絶対、というのがまともなものの見方です。
仮面ライダーの変身シーンは水戸黄門の印籠と同じくらいお約束事化していますから、そう思って見始めると、あれはあれでいいと納得してしまうのですが、本来あんなことあり得ないことは5歳の子供でも十分承知しているはずです。
それで、藤岡弘は変身するときに、自ら声に出して「変身」と言っていたわけです。そうしないと、藤岡弘がライダーに変身したことがわからない人が絶対いたはずなんですよ、あれがお約束事としてみんなに受け入れられる前は。


ウルトラマン』も似たような問題を抱えておりまして、最初の数回分の放送では、ちゃんとナレーションで説明していたような気がします。
どう考えても、1メートル80センチ弱の黒部進の体の中に45メートルの巨人が入り込んでるなんておかしいでしょ。
それは、そうなんですが、一応そういう設定ですし、魔法の一種と思ってしまえば、ああ、そうか、で済むことなのですが、
一応画面的にはこういう説明をしています。

ライトペンを右手で掲げて点灯させると、

ハヤタ隊員と同じポーズで、右手を伸ばして飛び上がってくるウルトラマン
同じポーズですから、ハヤタとウルトラマンには同一性と継続性が感じられるわけです。
全くウルトラマンを見たことのない人に、このシーンを見せたら、一体どう思うのでしょう?
二人のポーズの同一性から、二人が一心同体であることが理解できる人もいるのでしょうか?それとも、ハヤタのペンライトとウルトラマンの出現には、因果関係があるものの、それは、ペンライトがウルトラマンをどこかから呼び寄せる機能を持っているだけと思うのが普通なのでしょうか?



スタンド・バイ・ミー
子供の頃の親友が、暴力沙汰に巻き込まれて死亡した記事を読んで、帰ってくることのない過去に思いを馳せる主人公。

映画は現時点から始まりますが、物語の舞台は主人公の少年時代です。つまり過去回想についての映画なので、回想は画面進行方向逆と親和性が高いことから、車の向きは<ーです。


しかし、ドライファスが映るとき、画面は−>に切り替わってしまいます。


子供二人が、窓の外をー>に自転車でこいでいきます。
その姿をドライファスが目で追うと共に、彼の心は少年の頃に連れて行かれ、子供の頃の物語に繋げられます。


おっさんのドライファスとこの少年が同一人物であるということは、二人の画面上の構図と向きがほぼ一致することによってのみ説明されています。
つまりウルトラマンの変身シーンになぞらえて言うならば、ドライファスがハヤタ隊員。自転車に乗った子供たちがペンライト。子役がウルトラマン、ということになります。

ウルトラマンに於いて、ハヤタ=ウルトラマン というお約束ごとを理解していない人にとっては、この二人が一心同体であることが分からない可能性があると私は考えておりますが、
映画を見慣れていない人にとっては、ドライファス=子役 の関係が見抜けない可能性もあると私は考えています。

同じポーズ、同じ向きが、何がしかの同一性を示している、そのことを理解していない人にとって、映画は分からない可能性がある、そういうことですが、
同じポーズ、同じ向きが、何がしかの同一性を示していることを当然であるとみなした場合、映画にはいろいろな表現が派生することになります。


これは、おそらくナウシカ見ている人たちがみんな好きなシーン。

どうして、この若い男の方はナウシカを撃てないのか?
普通に考えると、隣の大人と比べるに、優しそうな顔とそうでない顔に描き分けられているから、
彼はその優しさゆえに撃てなかったのでしょう。
もしくは、その若さゆえに、自分の恋人でもおかしくないような年齢の女子を撃つ事が出来なかった、とも考えられますが、
理屈っぽい解釈は、そんな見ている間の短い時間に説得力を持って心に届きますでしょうか?

それっぽい理屈はいくらでも後から考える事は出来るでしょうが、それはあくまでも後からつけた理由でしょう。

この場面では、極めて短い時間内で彼がナウシカを打てない理由を観客に納得させなくてはなりません。


ナウシカの進行方向は<−ですから、彼女を迎撃するにはガンを−>の方向に向けるのが筋というものです。
しかし、彼のためらう心を表すように、ガンは<−の方向を向き、ナウシカの移動線に同調しています。

心とは目に見えないものですし、たとえ言葉にしたところで何か嘘のように感じられるものですが、
映像化して心の流れを銅線として表現すると、妙な説得力が見るものに感じられます。

画面の線の向きと流れで、ナウシカと若い男の心がシンクロしていくのが分ります。


気を取り直して、ナウシカを撃とうとしますが、その向きは中立であり、


ナウシカの向かってくる向きも完全に中立です。

もう二人の心は同調してしまっているんですから、これでは戦闘になりません。


迫ってくるナウシカの表情はなぜか無表情です。自分の行うことの価値を理解し、それをとってつけたような元気で奮い立たせようとしていないのならば、どれだけ危険を冒しても人間は淡々としているのがリアルだ、そう私には思えます。

何でこのシーンが感動的なのかというと、観客はこの若い射撃手に共感してみているからではないでしょうか。彼女を撃てない撃てるわけがない、そう感じてみているのですが、それに対するナウシカの方のリアクションは完全に予測と期待を越えたものでしょう。体を十字にして、なんの機械も使わず身一つで空から降りてくる。
若い射撃主の感じる意外性に、観客の方もまんまと乗っけられている、そしてそれゆえの衝撃を感じるのではないでしょうか?

この若い射撃主、あんまり出番ないですけれども、いないとこのシーンの印象ってありきたりなものでしょう。

ナウシカは丸腰で飛び込んできますけれども、
ナウシカにシンクロしている射撃手に共感している観客の心も同時に、ナウシカに対して無防備であるのではないでしょうか、それゆえに、やたらとこのシーンは印象深いのです。

そういえば、宮崎作品には、いきなり飛び込んでくる異性がよく描かれます。




撃つ気のない若者を年配が押しのけます。
そして年配の射手の敵意に対応するように、ナウシカの体が<−にずれてゆき、


射主は−>の方向に発砲します。
戦争シーンと同じく−><−の対立が画面に現出しました。

このように画面を見ていくと、人間の心の動きというのは、実は単純な二項対立で十分説明できるのではないか?人間の心の複雑さというのは、その背景となる現実や状況との兼ね合いの中にのみあるのであって、心そのものは本当に二項対立的なものなのではないか?そのくらい単純でなければ無意識という獣じみたものに人の心が統御できるわけはないだろう?と思えてきます。

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『ナウシカ』 
檸檬のころ



現在主流の映画の技法では、人間の内面とその葛藤を画面上の動きで表現しています。似たような人物は画面上に似たようなベクトルを描くものですし、対立するキャラクターは、画面に於いて左右対称のベクトルを形成しやすいものです。

『サウンドオブミュージック』の前半部でのマリアとフォントラップ大佐の画面移動方向を図示すると

のようになります。

対立するキャラクターをいちいち対立する方向で描くことで、その葛藤が噴火するまでの様子に説得力を持たせているのですが、逆に、ここまで互いを意識したように左右対称にしてしまうと、実は二人は運命で結び付けられているように感じられてしまうものです。
コインの表にとってコインの裏は真逆の存在ですが、それと同時に、一番近しい存在でもあることに似ています。

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『サウンドオブミュージック』 
E.T.