無題

思うところがあって、ブログの題名を少々変えました。

このブログ、もともと、『映画の見方 主に谷村美月』というかなり痛々しいものでした。
その痛々しさというのは、私が谷村美月の映画ばかり見ていたという痛々しさに由来するのですが、

その結果、このブログを閲覧する人たちのほとんどが、谷村美月の緊縛画像を求めている、という結果になりまして、それが嫌で、

『映画の見方』と題名を変えたのですが、


昨日突如、『(中二のための)映画の見方 』に変えてしまいました。


何を思ってそのようなことをしたかといいますと、
わたしのこのブログの中にこもっている苛立ちが 中二病的なものに由来しているらしいというのが理由の一つです。


ちなみにこのブログの第一回目の書き込みに対して贈られたコメント

suzuki nobuosuzuki nobuo 2011/03/04 08:58
谷村美月さんと同じ性格のタイプだと解り、ブログに投稿したくなりました。中二病という、特別に考案された病気の性格俳優だということで、共通の悩みを持っていて、悩みを共有できると思えば、今まで誰にも打ち明けられなかったことも、平気で書き込みできる
んじゃあと希望と期待とに心が膨らんでいるところであります。彼女の出演のDVDをマニアックに買って見たいです。
baphoobaphoo 2011/03/04 15:05
いや…、谷村美月が変と言うより、変というのではなく、彼女に変な役を演じてほしいと願う大人がたくさんいるということではなかろうか、と…。
そういう変な大人の願望を淡々と叶えてあげ続けている彼女の存在感が異常だなぁと自分は思うわけで、彼女自身は、生真面目な常識人っぽい、というか、まぁ、そういう環境にいながら、普通な人を維持しているところが、異常だというか…、

あまり過大な期待をされて、登場時間一分の「蟹工船」とか「メイちゃんの執事」とか見られても、がっくりするだろうな、と…。





そして、何ゆえにこのブログにはいら立ちがこもっているのかというと、
このブログの前提となっている「虹のかなたは  の方向にあるのが映画というものです」という理屈が、世の中のほとんどの人にとっては、馴染めない事実だからなのでしょう。

そして、人間は経験を積めば積むほど、思考パターンの修正がきかなくなってくるものです。


風立ちぬ』のこのカットつなぎについて語ると例として非常にいいと思うのですが、




このように画面を繋がれたものを見て、

「飛行機が女の子に変身して、血を吐いている」と答えたとしたら、バカと言われるでしょう。
もしくは、多少気の長い学校の先生なら
「子供みたいなものの見方ができるのはいいことだね」というかもしれません。そして、それでも、いい点数はくれないでしょう。


つまり、私たちは、一般的には、飛行機が女の子に変身した、などという考え方は極めてばかばかしいものとして、ちゃんと考慮することはありません。


そして、映画の見方の核心とは、そういうばかばかしさの中に平然と入っていくことなのですね。


飛行機の色と女の子の服の色がほとんど同じであるということ、背景の空と雲の色が同じであること、

このことから飛行機と女の子に同質性を見出すこと、
もしくは、
無意識的に、そのように感じ方を操作されてしまうこと。


映画というのは、そういうものです。





ストーリーとは、時系列的に、何が起こって、そのあと、何々が起こって、さらにそのあと何々々が起こった、と叙述するもの。
プロットとは、因果関係的に 何が起こったことが何々を引き起こした、と叙述するもの。

という定義があります。『インドへの道』と『眺めのいい部屋』と『モーリス』の原作者が言った定義なのですが、

この宮崎駿作品のこの画面に関していうならば、
そのEMフォスターの定義というのは、あまり普遍性のあるものではない、少なくとも映画においては、大して意味のない定義だといえることが分かると思います。




飛行機の墜落と女の子の喀血には、私たちの日常実感的には、時を同じくして起こった二つの出来事という意味合いしかないでしょうけれども、

映画の中に潜む詩的意味合いとしては、女の子が血を流すのは、科学技術が引き起こすすべての惨劇の為であり、贖罪を小さな体一つで引き受けているヒロインがここにはいるのですね。


そのようなことを考えますと、ナウシカと『風立ちぬ』のヒロインはものすごく似ています。


わたしが、ここで言っていることは極めて簡単なことですし、どうして普通の大人にはそれが分からないのかというと、簡単すぎるからです。簡単すぎるからバカにされているように感じて、否定したくなるのです。





わたしは、このブログの中で、相当、いい言葉をいくつか書いてきました。そして、その言葉の良さというのは、私の人間性とは大して関係ありません。
言葉だけが良くて、わたしそのものはどうしようもない人間だったりします。

そして、文字はその人の息遣いや話しているときの様子をすべてそぎ落として単調な姿になってくれますから、
どうしようもない人間でも、素晴らしいことが言えてしまったりします。



ここで、もう一つ、素晴らしいことを言おうと思います。

明晰な文章を書くコツというのは、
優れた読者を想定することである。
そして、もっともすぐれた読者像とは、頭のいい中学二年生以上のものはない。