前回『オズの魔法使い』で少し触れましたが、映画の画面上の演技は 画面の進行方向との兼ね合いで成り立つものです。
ミュージカルでは登場人物の感情が高ぶってきた時に、歌が始まるのですが、
歌を歌っている時の演技は非常に誇張された様式化されたものであり、それゆえ、映画でのポジティブ→、ネガティブ←の方向が、あほらしいくらいはっきり見えてしまいます。
明るい歌では、→を向きながら歌いますし、つらい歌では←を向きながら歌います。
『サウンド・オブ・ミュージック』ロバートワイズ作品。1965年公開。
映画史的に考えると、アメリカ映画は、この映画の数年後にニューシネマの時代に突入し、美人を美人として映すことを拒否し、BGMを否定し、素人臭さアングラ風味を表に出した作品を連発していきます。
それで、アメリカの映画制作システムが一旦破綻することになるのですが、
この、『サウンド・オブ・ミュージック』は、その破綻する前の最後の輝きのような作品でありまして、何もかも素晴らしい、爛熟した映像文明の最後の輝きのような作品です。
予告編でも冒頭のシーンはそれなりに見ることができます。
冒頭のシーン。アルプスの山頂は雪をかぶっている。
空撮画面は→方向にひたすら流れます。
アメリカ映画の進展は、通常この方向によりなされるのですが、物語が進展するとは時間の流れもこの方向でなされます。
冒頭の空撮は、単にカメラの移動ではなく、季節の移動を表現したもののように私には感じられます。
そして、空撮は丘の上のカメラを待ち構えたジュリーアンドリュースを捉えます。
そして彼女の体はくるりと回転して、いかにも主役らしく→方向に向けて歌いだします。。
彼女の姿は、季節が冬から春に移り変わった時に開いた花のように見えるのは私だけでしょうか?
季節が変わり、我が世の春を謳歌するように楽しそうに歌うジュリーアンドリュースは当然→の方向をむいているべきなのですが、
この歌の途中で、彼女の向きが←に変わります。
明るい調子で歌っていますが、ここは少々一応後ろ向きな歌詞の箇所です。
実は、この←方向は、この映画に於いて伏線として存在しているのですね。
まあ、それはのちのち解説するといたしまして、
『私のお気に入り』
カミナリにおびえた子供たちを元気にするためにうたう場面です。
ジュリー・アンドリュースの顔の向きが、子供たちが元気になっていくにしたがって、→へと向いていきます。
映画の画面は、ネガティブさがポジティブさへと転換するときに、人物の左右の向きが変わるのが基本です。
そして、ミュージカルの場合、その方向転換がダンスのターンで示されることが多のですが、
画面の進行方向に留意してこの映画を見ますと、
実に多くのターニングポイントで、ダンスのターンが用いられていることが分かります。
そして、その楽しげな騒ぎも部屋にやってきた大佐により解散させられる。
その時の主人公 ←。
次は、歌抜きの『私のお気に入り』をBGMに
大佐がウィーンへ出かけたのをいいことに、マリアと子供たちがピクニックに向かうシーンです。
子供たちに、遊ぶための服がないので、捨てる予定のカーテンで服を縫うことを思い立つ。
→の方向に家を出てピクニックに。
行程に←方向のカットも何枚か挟まれますが、
河の流れが→であることから、
このピクニックが 基調として→方向の、楽しいものであることが示されています。
妻を亡くしたことで微笑みを亡くした父とその子供たちの関係改善のために、マリアは子供たちに歌を教えるのですが、
ここでドレミの歌を歌うことが物語前半の一番重要なターニングポイントとなっています。
いわば、マリアはこの時、物語の中の目的を発見するわけでして、
その目的とは大佐の心を変えること。
そして物語前半の目的が明確になったところで、
画面のベクトルは→方向に鮮明に出されることになる。
そして、子供たちと完全に心が一つになるに従い、
この構図が崩れます。
この映画の舞台となったのはオーストリアのザルツブルグ。
オーストリアといえば、ヨーロッパの天皇家とでも言うべきハプスブルグ家の縄張りです。
それゆえ、ギリシャ直系のヨーロッパ文化の精髄みたいなものを感じさせる場所、もしくは、そのように周囲から思われているだけに身の丈に合わない努力をしてヨーロッパの伝統センターのように振舞っている場所なんですが、
この映画を見ていても、ギリシャのパルテノン神殿に連なる左右対称の美意識がいたるところに映し出されます。
執拗にこのようなシンメトリーな構図が映画に出てくるのですが、それはオーストリアがどのような歴史の国かという事情によることなのですけれども、
非常に面白いことに、この映画で示される、画面上のベクトルというのも、これら画像になぞらえるようにシンメトリーな図柄に収まっているのですね。
そして
これは一体何を示しているのかと言いますと、『ドレミの歌』でマリアと子供たちの心が一つになった場面から
大佐が帰ってマリアに解雇を言い渡すシーンまでを、赤をマリア 青を大佐で ベクトル変換した図です。
まさにヨーロッパの美意識にそぐう構図ができています。
① マリアと子供たちの帰宅
左と右方向のカットが交互につながれる。
② マリアと子供たちの帰宅
主として正面への移動構図。
画面の方向に留意しますと、『サウンド オブ ミュージック』は正面方向への移動シーンがものすごく多いことに気が付きます。
もともと、このミュージカルは舞台劇ですが、舞台では左右に走ることはできても、前後の距離は短いのでほとんど走れません。
舞台劇を映画化し、独自性を出す方法として、この正面向きの移動が意図的に取り入れられたのでしょう。
④
婚約者と右往左往、そして娘の恋人がナチ党員で←向きに怒るシーン。
①と④ ②と③ が相似形であり、 マリアと大佐が 絶妙な距離感をたもって関係を維持していることがベクトルだけからでも感じ取れます。
また、婚約者の台詞から 大佐が相手は自分かどうかわからないけれども結婚を決意していること、
マリアを自分の死んだ妻と間違えて読んでしまう事が 言葉上の伏線としてかなり唐突に挿入されていますが、
画面がこのように構成されていますと、それら台詞は単なるご都合主義という感じはあまりしません。
相似形を描いた二者のベクトルが正面衝突するシーン。
この映画の緻密な画面構成についてですが、
④のパートで大佐が右往左往するのですが、その最後は娘の恋人のナチ党員に対して激昂し、そのまま、マリアとの衝突につながるのですが、
このように繋がれると、マリアに解雇を言い渡したところで、さっきのナチへの怒りが尾を引いているだけという解釈も成り立ちますし、
大佐が非常に気骨のある人間であることが示されていますので、
たとえマリアをどんなに理不尽に扱おうと、観客は大佐のことを憎むことができません。
そして、大佐が婚約者をチャラい口調でくどく画面ですが、
画面の方向に留意してみていますと、
湖の対岸の道路を 自転車が ←方向に何大も走っています。
もしかすると、帰宅中の子どもたちの自転車なのかもしれませんが、
大佐の向きが←であること、そして更に画面上にその流れを強化するような動きが挿入されていることから、
この二人は、結ばれないだろう予感が画面から伝わります。
そして、子供たちの歌声を聴いたとき、大佐は妻が生きていたころに感じていた悦びを取り戻し、マリアへの愛情を自覚し始めるのですが、
はじめの方の話に戻りますが、どうして、この映画の冒頭のテーマ曲のシーンは、気持ちのいい場面なのに、歌の途中でマリアはネガティブ方向←に向き直って歌うのか?の疑問はこの場面で解決します。
子供たちのコーラスに心を動かされ、その歌声の中に参加する大佐。その歌詞は、丘の上でマリアが←方向をむいて歌っていた箇所と全く同じです。
サッカーの画面的に解説するなら、ゴールが決まった瞬間です。
マリアのチームメイトの子どもたちによって大佐が陥落し、もうこの二人が結婚する可能性は画面上のどこにもありません。
人形劇の後、大佐に一曲歌うように所望する場面。
二人の女性の画面上のポジショニングに着目すると、サッカーで言うところの「チンチンにする」という感じです。
ダンスのパートナーを取り替えるみたいに恋の相手を取り替えている訳ですけれども、消え去る方に対する画面上の処遇としては、ちょっと悪意があり過ぎるように私は感じます。
→と←の画面の向きを単純にいい・悪い←→明るい・暗い 程度の二項対立に済ましている映画の画面と比べると、『サウンドオブミュージック』は二人の人間関係をダンスのステップのように軽やかに描いています。
そして、二人が結ばれることがこのワルツのシーンで確定されるのですが、
あたかも複雑なステップを踏み続けてこんがらがりそうな二人の心の描写を、
ここで一度俯瞰的に見て整理している、そんな印象を受けるシーンです。
二人はずっと画面上でワルツを踊らされていたのですが、それは観客には無意識的にしか受け止めることのできないダンスであり、
劇中の二人にとっても恋の予感を引力としてワルツを踊っていたのは、無意識的な領域でのことです。
つまり、映画が、観客の注意の当たりにくい部分を利用して、観客の無意識と登場人物の無意識を繋いでしまう非常にわかりやすい例が、『サウンド オブ ミュージック』の一部であります。
それまでは常に子供たちとは向かい合っていた大佐が、エーデルワイスを歌う時から→のサイドに変わる。
このシーンから、大佐はマリアと子供たちのチームメイトとなります。
そして歌い終わった大佐の視線の先にあるのは、
マリアの姿
主人公として目的を追求する存在だったマリアが、別の人物が追及する目標としてはっきり示されたシーン。
決定的な追加点です。
『サウンドオブミュージック』の一部はこれ以上語る内容は無いはずです。
そして、完全に勝負がついたにもかかわらず、婚約者を敗残兵にしていつまでも画面上にさらし者にしているようなところが、私はあまり好きになれないのですが、
一部のラストを飾る金色の広間での舞踏会についてですが、ここを考えるにあたり、
マリアが大佐の家にやって来た部分を解析してみましょう。
丘で気持ちよく歌って遅刻したマリア。
彼女の生活態度は問題に満ちています。そしてそのことについて、彼女を弁護する側と非難する側で二項対立の構図を作ります。
弁護する側が→、避難する側が←になります。
この場面に飛び込んできたマリアの態度があまりにもひどいので、
全会一致で厳しいペナルティーが課せられることになります。
それはフォントラップ家の家庭教師を九月まで務めるというもの。
そして、修道院を追い出されフォントラップ家に向かうマリアですが、
その行程は、これが彼女の意に反したものであるだけに、どうしても→に進めず、←向きなになりがちです。
元気を出そうと、歌を歌うんですが、←方向であることが、彼女の内面を表現しています。
本来主人公は 赤側のポジショニングで、赤の矢印方向に目的を追求すべく動くのですけれども、
巨大な馬の噴水でブロックされていて、それができない立場になっています。
わたしたちは画面の構図から、マリアの気持ちを容易に読み取ることができます。
一応バスは→と目的地を目指すのですが、彼女の顔はまっすぐその方向を見ることができません。いやいやながらフォントラップ家に向かっていることが示されます。
バスの→の流れを 降りた後に継続することができません。かと言って引き返すわけでもなく大佐の家に向かうのですが、その辺の心のあり方を右向きでも左向きでもない正面向きの移動で示しているようです。
しかしながらも、フォントラップ家の前に着くと、やっぱり気が重いので、←。
いつ、この流れが終わるのかといいますと、
そこでの舞踏会を妄想して、くるりと回転するマリア。
ターニングポイントという言葉があります。何かが回ることをイメージしたうえでの言葉なのでしょう。日本語なら転換点でしょうか。
そして、映画におけるターニングポイントでは、本当に、主人公が画面上で回転します。
映像で物語を語るとは、そういう事なのです。
そして、本来、言葉というものは、明らかな図形的イメージに由来するはずのものがほとんどのはずです。
こういうシーンを見せられるにつけ、私は言葉が先祖返りしたと感じずにはいられません。
この転換点は、
いやいやこの家にやって来たマリアが、主体的に追求できる目的を発見したことによるものです。
尤も、その発見は無意識なもので、マリアが無意識理に見つけた目的とは、玉の輿に乗って、この金色の部屋で踊ること。
このあと、大佐に、「勝手に人の家をのぞくな」と叱責され、来ている服装をチェックされるために、一回転させられます。
まるで、この犬でも扱うような一回転で、さっきの金の広間での方向転換で見つけた目的を無化されてしまったように見る者には感じられます。
そして、金色の広間の舞踏会の夜、マリアは自分が大佐を愛していることを婚約者から気づかせられ、修道院へ逃げ帰ってしまいます。
シスターは、神のみを愛し、人間の男に恋してはいけないものですから。
画面上に物語の目的追求の方向を規定すし、
その手法を突き詰めていくと、
最終的には、『サウンドオブミュージック』のように映画はなってしまいます。
ミュージカルは、様式的であり、ダンス体の動きで多くを表現することになっていますから、
必然的に普通の映画以上に画面上の方向や動線が強調されるのでしょうけれども、
しかし、果たして、このような画面上の無意識的なメッセージは、普通の観客に受け止めることができるものなのでしょうか?
一時間以上離れた箇所で 大佐とマリアが同じ向きを向いているカットの意味を感じ取る、
そういうやり方は本当に有効なんでしょうか?
この映画のわずか4年後に『イージーライダー』が公開され、アメリカ映画はニューシネマに席巻されることとなります
『イージーライダー』の画面上には、なかなか方向が見えてきません。そして物語の中にも方向が見えてこない、ような気がするのですね。