吉永淳が谷村美月の引継ぎをやってくれたおかげで、
谷村美月の演技ってどんなもんなんだろうという比較の対象が出来たものですから、もういっぺん『リアル鬼ごっこ』の谷村美月の演技見直してみたんですよ。
見直してみると、脳機能障害児の演技って、かなりの神演技をしているのが分りました。
しかし、続編と比べると、『リアル鬼ごっこ』監禁、緊縛方面でのドMな映画だなと改めて感じさせられると共に、なんで谷村美月が出演すると映画もドラマもこの方向に流れてしまうんだろうと、今ひとつよく理由が分からないんですが、谷村美月も事務所のほうもこういうのに拒否感ないのか、それとも製作サイドが谷村美月を見るとこういうの撮影したくなるのか分りませんが、
なんか、変ですわ、やっぱり。
悲しさが画面から伝わる。石田卓也がもう一つのパラレルワールドで元気な妹と会うことになるので、それとのメリハリをつけるために元の世界の妹は悲しい存在として描く。
柄本明の変態ぶりが、悲しさにいい彩を添えているのが、今見直してみると分る。
それに続く石田卓也のお見舞いシーン。
背筋に力が全く入っていない様子の猫背。
そして谷村美月は、画面の−>方向、ネガティブな方を見ている。
そしてここから暫らくの谷村美月のマバタキの演技に注目。
或る意味神演技でもしかすると神演出。
このお見舞いシーンなんですけれども、谷村美月は石田卓也のいう事は分らないはずなんですけれども、彼の心の悲しみは完全に理解している、見ててそういう風に感じられないですか?
さっきも書いたとおり、次のパラレル世界での活発さと対照するために、ここではひたすら生きてない演技をしているんですけれど、
それでも、この女の子って、全てのパラレル世界の自分と交信できるという特殊能力の持ち主であり、そういう特別な人間なんですから、本当は目の前の肉親の心くらい読み取れるのが当然といえば当然なんですよね。
だから、全くの廃人の振りしながらも、微妙なしぐさで谷村美月は石田卓也とコミュニケーションをとっています。
まず、こっち向きのカットで、谷村美月二回マバタキをします。
そのマバタキがどちらも機械的なマバタキで、彼女が目に映るものに反応していない事を表現しています。
そしてそのマバタキの間隔が8秒間。普通の人は一分間に20回以上マバタキしますから、普通だったら3秒に一回マバタキしてるのが普通ですので、八秒に一回って普通に考えると、マバタキが極端に少ないんです。
ただしかし、役者って、どの間合いでマバタキするのかが演技なものでして、無駄に自分の目に注意を集めたくない場合は、延々と瞬きをしません。谷村美月なら一分くらい平気でマバタキしないもんです。
だから、この8秒に一回のマバタキって言うのは、普通に考えると間隔が長いのですが、演技の基準で考えると別に間隔長いわけでもないんですね。
しかし、これ見てて、「あっ、この女の子マバタキの回数少ないね」と思わされるのは、マバタキの速度が普通よりもずっとゆっくりだからです。
ほんと、安心しきったチョウチョが羽をゆっくり動かすような感じで瞬きをします。
そんでいいなぁ、と思うのは、石田卓也がパンダの人形を彼女の目の前に突き出して、笑わせようとするのですが、それに対して谷村美月のマバタキが入りません。数秒遅れて、機械的にゆっくりとマバタキが入ります。
これって脳の機能障害者によくあるパターンで、異物や何かから目を守る為に正しい間合いでマバタキを入れることが出来ないらしいんですね。
何かが目の前に突き出されたら、まともに脳が働いているなら、それに対して防御しようと顔を背けたり、マバタキしたりするべきなんですが、それできないくらい脳が壊れているという演技なんです。
単に演技というよりも、専門家とか大人が入れ知恵したものだと私は思います、このパンダの人形の時のマバタキの演技。
その後カットが切り替わり、
横顔のアップになります。
あんまり効果的に方向の切り替えをやる監督でもないようなんですが、
このカットだと彼女の顔の向きが<−方向なので、もしかすると、彼女は石田卓也の言っている事が分っているのかもしれないと見ている側は感じられますが、
石田卓也の台詞のどこで谷村美月のマバタキが入るかに注目してみましょう。
「あい、俺たちの母さんはどんな人だったんだろうな」
この台詞のとき、
「あい」と名前が呼ばれたときに、彼女のまぶたがちょっと動きます。
そして「母さんはどんな人だったんだろうな」の台詞の後で、ゆっくりとマバタキが入ります。
その動きは相変わらず機械的なんですが、この三回目のマバタキの間隔が10秒ありまして、
一回目と二回目のパンダの人形のマバタキ間隔は 8秒。
二回目と三回目の間隔は 10秒。
機械的では有りますが、明らかに意図が感じられる間隔差があるのですね。
そしてパンダの人形の時は、まるっきりパンダの人形を無視する間合いでマバタキしていたのが、今度は「母さんはどんな人だったんだろうな」の台詞がきちんと喋られた後でマバタキが入ります。
「母さんがもし生きてたら親父は酒止めているぜ、きっと。お前だってこんなふうになっていなかっただろうし」
そういう台詞にあわせて、石田卓也は手の甲で谷村美月の頬に触れます。
頬を伝わる泪をぬぐうような手のしぐさです。
まともな人は顔面や眼の近くに異物が来ると、防御機能が働いてマバタキが入るとさっき書いていますが、
ここでは、石田卓也の手に彼女の脳がしっかりと反応してマバタキをしている演技です。
そんで、三回目のマバタキからの間隔が12秒。
石田卓也の溜息の後、またマバタキが入り 最後にまたマバタキが入ります。
このお見舞いシーンで谷村美月は計6回マバタキをしているのですが、
1回目と2回目の間隔 8秒
2回目と3回めの間隔 10秒
3回目と4回目の間隔 12秒
4回目と5回目の間隔 5秒
5回目と6回目の間隔 3秒
と、一見機械的にマバタキしているように見えながら、石田卓也の何を無視して何を理解しているのかがマバタキの間合いだけで表現されているのですね。
つまり、パンダの人形で妹を笑わせようとするような空元気は無視して、悲しみとやさしさ、死んだ母への想いとかに対しては、彼女はちゃんと反応しているというのが分ります。
ここまで繰り返し見て、解析しないと、
なんとなく、この女の子は兄の言う事が分っているんじゃないかとサブリミナル的に感じるだけなんですが、
ここの演技には、ものすごく論理的な根拠があるのです。
谷村美月がどこまで一人で考えた演技なのかは分りませんが、
脳機能障害者の心を表現する為にマバタキを利用するのは、続編の方でも行われています。
精神病院ですれ違う副主人公を突如押しのけます。そしてマバタキ。そのマバタキの先には、小さな花。
まあ、マバタキを利用して云々というのは監督の演出プランの中に入っていたのでしょうけれども、続編でのこの稚拙なマバタキの演技を見せられると、
『リアル鬼ごっこ』で谷村美月が見せたマバタキ演技というのは、相当の部分、彼女の個人裁量で行われたものなのだろうという気がしてしまいます。
こういう演技を見ていると、映像作品の存在価値って何なのかに着いて改めて考えさせられます。
日常世界では、人の顔見て心を読み取るなんてそんなに簡単な事じゃないですから、映画での演技での100%に近いところまで明晰な身体メッセージってのは、ものすごく見ていて気持がいいんですよね。
それに、繰り返しそれを見て、意味を考えていく、そういうのって再生不可能な現実世界の光景では無理。
そんで、その場その場でのあいての表情とかをその場の気分と雰囲気で適当に流しているのが現実なんですが、
こうやって、じっくりと表情を眺め、じっくりと考えるというコミュニケーションって、一方向に過ぎないんですけれども、
気持いいというか中毒性あるんですよ。
DVDが一般化してから、映画の見方がCDでお気に入りの曲だけ集中的に聴くのと似た感じに好きな場面だけ繰り返し見るようになってきた、とかつて私書いてますけど、そういう見方をしていると、映像作品の可能性じゃなくて存在意義について考えさせられるのですね。
演じる側は何時間も何日も緻密に考えた上で表現しているのだから、見る側もなんどもなんども見るべきなのではないか、そうした上ではじめて相互コミュニケーションが成り立っているといえるのではないか。
単に演じる側の嘘に流されるだけというのは、コミュニケーションといえないのではないか?
数日前に、『リアル鬼ごっこ』なんか堀北真希でも出来る、みたいな事書いてましたが、堀北真希はここまで出来ないでしょう。
谷村美月って、DVD普及以降の 映像作品を個人が好き勝手に切り貼り送り飛ばしして楽しむ時代に合っている、というか、出るべきして出てきた演技スタイルの人という感じがします。
だからむしろ、B級作品に出演して、彼女の出番以外は全部飛ばすみたいな見方が出来る方が都合がいいのかもしれません。