全ての映画は戦争映画

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。










私、つきづき些細な金額を支払って、このブログを閲覧した人の状況をチェックしているのですが、閲覧者の検索キーワードで意外に上位に来るのが『西部戦線異状なし』なのです。

へぇー、未だこの映画に興味持っている人が大勢いるんだ、と思うと同時に、私以外にこの映画に興味持っている人が少ないから私のブログにたどり着いてしまうのだろうな、とも思ったりします。

何はともあれ、映画の歴史にとって第一次世界大戦はなくてはならないものでして、
カメラの発達とドイツ敗戦後の光学技術の民需転換、そして共産主義ファシズムのプロパガンダ競争がなかったら、映画っていまの呈なしていないでしょう。

そんだけ、戦争に関わりの深い映画ですけど、
映画の構造自体が、戦場の光景に似通っている、もしくは元従軍者が戦争体験を基にして映画を作っていったのかもしれない、
影技師なんかほとんど戦場での撮影経験があると思うのですが、

ちなみにこれは、第一次大戦塹壕戦のあり方です。
あと数ヶ月で『坂之上の雲』のクライマックスの二百三高地の戦いが放送されますが、


こんな風に、塹壕を突破するまで軍隊は突き進むのが普通です。当然塹壕陣地には機関銃が待ち構えており、突撃する側には甚大な死傷者が生じます。
それでも、その犠牲を乗り越えて敵陣に食い込む事は可能なのですね。
二百三高地の戦いでも、なんども肉弾突撃が功を奏して敵の陣地を陥れています。


ただしかし問題なのは、敵陣にたどり着いたとしても、そこに援軍を送り込むことが出来なければ、


結局、四方八方から包囲されて殲滅されるのがオチです。
日露戦争でも、第一次大戦でも、肉弾突撃の成果はこのように空しきものとなった事例が幾多とあります。



それならばと、考え出されたのが「浸透戦術」

スポンジがその接触面すべてから水を吸い込むように、敵の前線の多くの地点で同時多発的に肉弾突撃を強行し、同時にいくつかの地点を攻略できるのならば、
敵陣内の連携は崩れてしまうので、敵陣攻略に成功した部隊は孤立する事もなく、むしろ陣内に居残った防衛側が包囲殲滅されてしまう。

同時にいくつかの戦線を開くことが勝利に繋がる、ということなんですが、
映画に於ける「天使」の存在は、これと同じ事のように私には思われます。

『タクシードライバー』

デニーロが−>方向にナンパの成功を求めて攻めあがるのですが、
その援軍として、全く関係のない人が同じ−>方向に歩いています。

この二人は劇中では何の関係もない二人ですが、単なるベクトルに変換してしまうと、「浸透戦術」のそれぞれの部隊のようにしか見えないのですね。

で、この「浸透戦術」は成功して、シビルシェパードのナンパにデニーロは成功します。

また、映画スクリーン上の「浸透戦術」の普及にはパンフォーカスの功績が甚大だったようでして、

『生きる』

主人公とその対立キャラの構図を第一戦線とすると、背景の何の関係もない人たちが第二戦線として存在し、その赤ベクトルと青ベクトルの力関係で、画面がポジティブな方向に動くかそれともネガティブな方向に動くかが納得させられるというものです。

つまり、パンフォーカスというのは、映画に於ける「浸透戦術」なのですね。

ちなみにこの「浸透戦術」考えられた当初は、大きな効果を挙げましたが、理屈が単純なもんで、防御する側もそれなりに対処できるようになると、再び戦線は膠着します。



ちなみにこちらは、第二次大戦の「電撃戦」。
飛行機による急降下爆撃、それと戦車等の攻撃車両の高速化、更には守備側のハイテク化ゆえ後方かく乱を行われた時の被害の拡大によって、
一点突破の意味が第一次大戦のときとは大きく変わってしまった。

何年やっても決着のつかなかった戦争だったはずが、二週間とか二ヶ月でケリがついてしまうようになってしまったのです。

ちなみに言うと、フランス軍がドイツ軍に敗れたとき、マジノラインを突破された後の、バックアップ用の戦車部隊がほとんど用意されておらず、戦車は各砲台の補助としか認識されていなかった。
それゆえ、ドイツの戦車部隊を食い止める事が出来なくてパリの陥落を許してしまったわけです。

東電津波で停電した後のバックアップ電源を確保していなかった話とそっくりでしょ。



私にとっては、

『檸檬のころ』

カナリア

クライマックスに高速移動シーン、それも進行方向とは逆方向の疾走の映画って「電撃戦」に見えるんですよね。

ナチがどうして「電撃戦」を立案したかというと、連合国軍に対して明らかに兵力的に劣勢だったから、一発逆転の戦術を研究していたわけです。そんで、第一次大戦のことが脳裏に色濃く在る将軍達は戦車部隊が敵陣の中で孤立し包囲殲滅されると反対したんですが、ヒトラーが強引に押し切って実行に踏み切らせるのですが、

進行方向逆の疾走というのも、画面の流れ的には劣勢挽回の意味を持つものですから、実に「電撃戦」的なものに私には思われます。


映画人が戦争に関わる中で、もしくは国民が戦争のプロパガンダ映像になじんでいく中で、
勝利パターンの映像イメージが知らず知らず脳裏に浸透していったんじゃないでしょうか、

第一次大戦後は、
多発的に侵攻をおこなえば画面上の葛藤にはカタがつき、
第二次大戦後には、
何処か一点をぶち抜けば画面上の葛藤にはカタがつく、

そんな風に撮影する側は感じていたし、そして見ている側もそう感じるように飼いならされてきたのでしょう。

たぶん、それゆえ、映画のクライマックスの画面構造って、戦争とそっくりなのですね。