おにいちゃんの花火   イメージ


おにいちゃんのハナビ」のなかで非常に印象深い場面は、

これ

「わたしにとっておにいちゃんは、オレンジ色。あったかい、やさしい、そういうイメージ」

高良健吾谷村美月の会話のシーンですが、
映画に於いて、こういう事をやられると、見ていて疲れます。
何が疲れるかというと、人間の目は、焦点を一つに定めて、そこを中心に見ているのですから、焦点を外れたところの演技を見るのは、基本、出来ない。

細長い画面で、谷村美月高良健吾の両方が演技していますから、どっちに焦点あわせていいのかよくわからない。

ふつうは、こういうときには、片方だけが演技して、もう片方は、背景になるべく地味に演技するべきです。

こうやって二人揃って演技されると、どこみていいか分らなくて、困るんですよね。

両親役の大杉漣宮崎美子は、背景に徹しており、映画の流れを乱すような演技は基本やっていません。それが、年配の余裕というのものなのでしょう。

もしくは、高良健吾谷村美月は演技したくてしたくてしょうがないという気持ちが、伝わってきます。

谷村美月が、いちいちおにいちゃんを力づけようとします。
「ダサいじゃなくて、個性的」
そういって、おにいちゃんの反応を見ます。
「暗いじゃなくて、クール」
またおにいちゃんの反応をうかがいます。

でも
「わたしにとっておにいちゃんはオレンジ色、やさしい、あったかい、そういうイメージ」
その時だけは、谷村美月の目は、遠くの方を見ています。逆に高良健吾のほうが、谷村美月の方を覗き込んで、なんでそういったのかを確かめようとします。

この台詞、おにいちゃんはオレンジ色という言葉が、ラストの花火の色にまで影響するわけで、非常に重要な台詞であるのですが、

この台詞をいった時、谷村美月は遠くの方をじっと見ている。具体的に何を見ているかというと、空を見ているのですが、空にあるお日様の光を見ているのですね。

わたしにとって、おにいちゃんは、太陽とおんなじ。

そういう台詞であり、
太陽とそこから発散する光のイメージがそのまま、最後の花火と重なります。

実際の撮影現場では、谷村美月の右斜め上が太陽の位置であり、それ故高良健吾が、彼女の方を覗き込んだ時、彼の顔が日陰になるのですが、
それが、谷村美月の芯まで届くような明るさを表すと同時に、高良健吾が自信なさえげに妹の方を覗き込んだ時に顔に影が差し、そうでなくて妹と同じ方向を向いて感情的にも同調できている時には、顔が明るくみえるという効果を表しています。

ロケ地の選定に太陽の角度まで計算できていたのか、たまたま出来た事なのか分りませんが。

また、二人揃って演技しているので、見る側としては注意が分散されてつらいのですが、
それを何とかするようにと、谷村美月の手演技が活躍します。


ちょうど画面の中央に彼女の手が映されるので、どちらの顔の演技に注目をするのか迷うくらいなら、彼女の手演技を見ているほうがいいだろうと言う事になりますし、
だからこの場面では、彼女の手演技を見ていれば十分だと言わんばかりの、少々大袈裟な手演技がなされます。

一回目に見たときには、彼女の手演技に注目が行くのですが、何度も繰り返してこのシーンを見ると、二人の役者が同時に芝居をしている事に興味がいくのですね。

互いが互いに、相手がどう受けるかを考えて演技をし、相手がそれをどう返してくるかをみて、またそれを送り返す。
つまりのところ、演技とは、まず、共演者との間のコミュニケーションであり、その次には演出家と演技者のこみゅにけーしょんであります。そしてその次は、観客との間のコミュニケーションであるのですが、

共演者や演出家は、演技者の演技についてフィードバックを行うことが可能でありますが、観客の立場としては、演技者の演技に基本的に何も返す事が出来ない。できる事と言えば、せいぜいブログにだれそれの演技はどうだった、と延々と書き込むことくらいです。書いたところでそれが先方に届く事などほとんど無いでしょうが。

ただ、それでも、向こうは、観客のことを考えて演技をし、演出をしているわけです。それをちゃんと受けとめることは、必要な事では無いだろうか?
演技と演出をちゃんと受け止めることで、映画は一つのコミュニケーションのジャンルとなりえているのではなかろうか、ということです。

もし谷村美月が、オレンジ色をイメージしている時に、視線を太陽の光の方向に向けていて、それが、最後の花火のイメージに結びつける役目を果たしている、
そのことを無意識的であろうと、受け止めることが出来ないとしたら、彼女にとって演技とは、一方通行のコミュニケーションでしかないのではなかろうか、そうなってしまうと、自分が今ここで書いているブログの映評と同じになってしまうのではなかろうか、と感じる次第です。

あの台詞を言いながら、彼女は太陽を見ていた。
そのことは、この映画を解することにおいて、ものすごく重要な事であると自分は確信しています。


そして、どうして妹がおにいちゃんを太陽のイメージで捉えていたのか?についてですが、どうしておにいちゃんをそんなに優しいあったかいイメージで捉えていたのかですが、

自分が本来足手まといの病人で、長く生きられないことが分っており、周囲の人に何も恩返しが出来ない事がわかっていたから、周囲の人、特に家族の親切や愛情に敏感だったのではないでしょうか?

演じる側演出する側は、そのように物語を解釈し、
そういう妹の謙虚な感謝の心を描くことで、難病ものにありがちな不幸や痛みをほとんど描かなくても、死に行く人の内面を描けると確信していたのではないだろうか?


だって、不思議じゃないですか?この映画、いくらなんでも変でしょ、17くらいで死ぬ女の子自身は涙の一滴も流さないじゃないですか。いくらなんでも悲しいとかつらいとかいうべきでしょ?
いやいや、映画の中では、その泣き声は、すべて彼女の優しさとして表現されている、そういうことです。

彼女の言葉で、
「ダサいは個性的」「暗いはクール」と言い換えていたように、
彼女の優しさは、本当は泣き声なのではなかろうか、と。