『ジ、エクストリーム、スキヤキ』

よくわからない題名の映画です。まあ、演劇人って勢いだけでこういう題名付けてしまうもんだ、と私は偏見持っていますが、
だったら他にどんな題名だったらよかったのかと言われると、別に何も思い浮かびません。


あまちゃん』ファンの中級以上の人にとっては、『ピンポン』の窪塚洋介井浦新が11年ぶりに共演し、15年ぶりに再会した友人を演じているのがまず注目すべき点。

無論この映画、窪塚&井浦コンビにキャスティングした時点で、『ピンポン』と比較されることは避けて通れないのですが、

まあ、この映画、ストーリーほとんどありません、ただ役者がだべるシーンが延々続いて、そのあたりも『あまちゃん』の喫茶リアス、スナックリアスのシーンをほうふつさせるものがあります。

そういえば、クドカンも基本演劇人ですね。


ストーリーと言いますと、ほんの一つか二つです。


『ピンポン』では窪塚が橋の上から飛び降りますが、こちらの映画では井浦新が陸橋から飛び降ります。


水の中に飛び込んで、今までの自分を洗い流し、生まれ変わった姿で再び地上に戻る。
そういう意味での飛び込み、入水なんですが、

人って、そんな簡単に生まれ変われるもんではないでしょう?という思いがこちらの『ジ、エクストリーム、スキヤキ』を見るとふつふつと湧き起ってきます。

あまちゃん』で主人公はいったい何回海に飛び込んだのだ?そんな簡単なことで生まれ変われたりするわけないだろ?全然説得力無いだろ?
言われてみると、確かにそんな気がしてきました。

一連のクドカン作品では、あくまで水に飛び込むので、怪我しないですんなり陸に戻って来るんですが、
陸橋から飛び降りると、この映画みたいに無茶苦茶大けがするわけで、

生まれ変わるというのは、死ぬことと同じくらい大変なことで、
あまちゃん』みたいな簡単なことじゃないですよ。



この映画では、冒頭で井浦新が飛び降り自殺し、そこから脈略もなく窪塚洋介が居候しているアパートに彼が訪ねてくる場面につなげられます。

なんで飛び降りたんだ?飛び降りたこととどうでもいいことをしゃべくり散らして二人でぶらぶらしているシーンの間にどんなつながりがあるのか?

一切説明されないまま、映画は終盤に至ります。


結局、自殺しようとしたんだけど、死ななくてその場で昔の友達のところに電話したのを編集により時系列ぐちゃぐちゃにしただけなのか、それとも死にかけた男のみた一炊の夢だったのか、
もしくは二つの世界は、完全にパラレルワールドなのか?

私にはよくわかりません、『ジ、エクストリーム、スキヤキ』という題名が何を表しているのか?スキヤキという料理にどんな含みを持たせたかったのかも分からないままでした。


そして、再開した友達の人間関係のキーポイントになる人物のことも、ほとんど何も語られませんでした。たぶん、死んだか、大学中退して二度と戻ってこなかったかのどちらかなのでしょうけれども。




まあ、そんな映画なんですけれども、わたしには、この映画がすごく面白くて、
窪塚洋介井浦新がアホみたいな会話を延々と続けているだけで、見ててすごく楽しいのですね。

魅力のある二人ですから、普通にしてるだけで十分魅力的なのですが、この映画の構造の上手いところは、
観客は、ほとんどが11年前に共演した『ピンポン』のことを念頭に置いてこの映画を見てしまうわけです。
15年ぶりに再会した二人という設定を見ながら、11年前にみた『ピンポン』のことそしてその頃の自分の姿を思い起こしている訳で、

この映画の再開のなかに自分も一枚かんでいるような気になって、とてつもない親近感を持ってしまうのですね。


自分は口下手で面白い冗談もいえないから黙っているけれど、ちゃんとグループの仲間の一人として受け入れられている、そんなことを妄想しながら映画をみていました。

倉科カナは少し劣りますが、市川実日子も主役の男二人に負けず劣らずの魅力を発散していて、ほんと素晴らしかった。


デボン紀がどうの、という会話、ほんとどうでもいいというか、ぴんとズレてるのがまたおかしいんですが、
この調子で三日くらい映画観てても別に わたし的には 全然かまわない、というか、もうちょっと続いてくれよ、という感じでした。

魅力ある人間に喋らせると、ほんと、面白いんだな、という事ですね。


それが、ARATAが陸橋から飛び降りたこと と ひたすらゆるい友達同士の会話 の間にどのような理屈の整合性があるのか?を映画が説明し始めると、
見ている私は、無心にこのアホらしい会話を楽しむことがだんだん出来なくなってきて、もうそろそろいいかな、と思った時に、
唐突に映画は終わります。


こんな映画の見方をしている私にとって、この映画のメッセージ、それはあくまでわたしというフィルターゆえの受け止め方のメッセージなのですが、

もし、天国があるとしたら、
天国にいる人たちは、自分が天国にいるなんて気が付いていないんだろう、というものです。


死のうとした男が、痛みをこらえ必死に縋り付こうとしたもの、もしくは痛みと死の恐怖の内に夢想したものは、こうもゆるくパッとしない見栄えのものだった、

こんな映画が成り立ってしまうというのも、あくまで役者の存在感あってのものでしょう。

窪塚と井浦の入浴シーンではお二人のほとんど全裸の姿を10分ぐらい堪能させられてしまいました。ついでに高良健吾までお風呂に入ってきます。
そういうの好きな人には、おすすめな映画です。



もう一つの物語の解釈としては、

この友人同士のゆるい会話やドライブのシーンは、すべて死にかけた男の夢想であり、
痛みをこらえて車から電話した相手というのは、名前が出てくるだけで詳細は語られなかった人物なのではないか?
その電話が通じるのか通じないのか、相手がこの世にいるのかいないのかも定かではありませんけれども。

こういう風にストーリーを解釈できると、なんか知的な人物になれた様で、悪い気もしません。