結局のところ、映画ってヤラセなわけで、
ビートたけしが映画の中で死んだからって、彼自身が死ぬわけではありません。
それにビートたけしが映画に出てくると、「あっ、ビートたけしだ」とすぐにわかるわけで、
これは、演技力がどうたらこうたら以前に、まともな知能持っている人だったら、
アル・パチーノだろうとロバートデニーロだろうと、すぐに当人であると識別できるわけでして、
結局何をやったところで、映画はこのことから逃れることはできません。
そうすると、映画って観客にビートたけしが何者であるかをいったん忘れてもらうよりかは、ビートたけしがどんなイメージをもたれているかについてちゃんと認識したうえで、そのイメージを利用して物語を深めていくほうがいいのでしょう。
極端な例ですと、戦後の小津作品群でして、
毎回毎回似たような役者で似たような作品を繰り返していくのですが、
それが輪廻転生しても解決されることのない人間の悲しみというか無常観というか、そういう感想に結びついてしまうのですが、
黒沢作品ではどうなのかというと、三船敏郎と志村喬がどのような関係を映画の中であてがわれているかに着目すると、いろいろ楽しめます。
『静かなる決闘』1949年
『酔いどれ天使』の次の作品です。
『酔いどれ天使』は三船敏郎が初めて黒沢作品に出演した作品であり、早坂文雄が初めて音楽を担当した作品でもあります。
戦後の混乱期の傑作のひとつですけれども、
『静かなる決闘』は『酔いどれ天使』の続編と言っていいほど設定と配役が似ています。
志村喬が前作に引き続いて町医者の役なのですが、三船敏郎は彼の跡継ぎ息子の医者という役です。
『酔いどれ天使』は、新しい日本に生まれ変わるという比喩がいくつも埋め込まれた作品で、
旧時代の毒を救いがたく吸い込んだヤクザが死んで生まれ変わるイメージのラスト。
汚れを洗い落とされた洗濯物に新しい世界への希望の比喩が見て取れる。
そして、続編らしき『静かなる決闘』では、ヤクザから医者の息子に転生したということにしておきましょうか。
結局のところ、個人が改心したとしても社会に問題は尽きることなくあるわけですから、続編においても問題は別の形で存在します。
映画を作る側からすれば、一つの作品で一つの解決を示したところで、すぐにまた問題が持ち上がるわけです。
こんな風に個々の映画がつながっているということは、作っている側も映画を単なる仕事と割り切っているわけではなく、ちゃんと真摯に悩んでその答えをそのつどそのつど考えているのだな、と観客の立場からも実感できるわけです。
『静かなる決闘』を単独の作品としてみると、
相手を思いやる善意のこころとセックスへの欲望にうずうずする思いのふたつに引き裂かれそうになっているジキルとハイドのような話で、
善人の半分についてはいやというほど描かれていますけれども、欲望の半分の部分をもうちょっと面白く描写してほしかったという思いがあります。
自分の心がジキルとハイドしているのを左右の方向転換を何度も繰り返すことで表現。
自分に梅毒をうつし、なおかつ妻と胎児も感染させた男と対峙する主人公。
二人の頻繁なポジションチェンジが、一つ上に張り付けたシーンと動き的に類似しており、
この男の持っている悪徳は、実のところ主人公にもハイド的に存在していることを暗示している。
まあ、あんまり現代に受けるような話ではありません。
このストーリー、今現在リメイクしたとするなら、
「梅毒病んで結婚できないとしたら、オナニー研究家だよね」とか
「コンドームつけて風俗いくシーンとか絶対必要だよね」とか
そういう下世話なシーンがかならず付け足されるように思われます。
リメイクやめといたほうがいいですね。
でも、まあ 戦争が終わったからと言って何もかにもが自由になったわけでもなく、
「愛し合ってるんだから、やっちゃおうよ」的な映画は、60年代まではなくて、
「やっぱ婚前交渉って不道徳よね」的な世界だったようです。
映画の進行方向は → なのですから、映画のゴールは向かって右側にありますし、主人公はその方向を目指します。
だから、希望の光の差し込む窓は、常に向かって右側。
これは黒澤作品のお約束事となっています。
この画面進行方向に関しましては、
の回についてまず読んでいただきたいところです。
しかし、『静かなる決闘』では窓も光も出てきますけれど、気持ちよく光のさす窓の無効を見るシーンを丁寧に除外しているようです。
これは『酔いどれ天使』でも同じなんですが、そっちの作品では最後に特大の窓と光と希望が出てきます。
結局『静かる決闘』では、梅毒が完治しないゆえダライラマのように清く生きる運命を主人公が選択するのですが、それってハッピーエンドではないですし、
必ず、今後問題が持ち上がるだろう気がします。
それゆえに、窓の外の光を見るシーンがない映画なのでしょう。
ラスト間際の、赤ん坊を抱きかかえる志村喬。
「あっ、羅生門と同じじゃん」
今後、主人公は聖職者のようにセックスへの欲望を捨てて千石規子とその赤ん坊を疑似家族として引き受ける、というようにも見えますけれども、
わたしには、次の作品を悩ます別の問題が生まれたという風に見えてしまいます。