夢オチって言いますけど、映画って、監督と脚本家を軸とする小集団の妄想の集合体みたいなもんでして、
その妄想に観客がのれるかのれないかでギャーギャー言ってるだけのものです。
もともと夢見たいなもんなんですよ。
だから、オチとしてそこに
「これは夢でした、チャンチャン」みたいなこと言わなくてもいいはずなんですよ、ほんとは。
『スターウォーズ』にしてもそうでしょ。
誰だってチュバッカーとかダースベイダーがいるわきゃないことくらい分かっております。
荒唐無稽な夢物語であることくらい分かっているんで、最後に「ルークの冒険譚はじつは一オタクの妄想でした、チャンチャン」みたいなエンドクレジットって必要ないわけです。
そう考えりゃ、『おおかみこども〜』もありえねえ、こんなの!とか思えてもいいじゃありませんか。
おおかみこどもよりチュバッカーのほうが変だと思いますよ、わたしは。
じゃあ、この映画に夢オチを示唆する要素が一切ないかというとそんなことはなくて、
このブログでさんざ書き散らした『映画の北枕』のはなしですが、
[『風の谷のナウシカ』 映画の中の北枕
]
この「北枕」の観点から見てみますと、
この映画の冒頭のシーンですが、
宮崎あおいは、物語の進行方向と逆に上半身を起こします。
だったら、あのお花畑を大沢たかおが歩いてくるカットは、
こうあるべきなのでしょうが、
画面進行のセオリーに合わせて、
まず、「北枕からのゾンビ起床」を主人公にさせることで、
これは夢物語であることを画面に語り、
次に、画面の進行方向の向こうに大沢たかおを登場させることで、
この物語の目的は、愛情であるというメッセージが示されます。
それゆえに、最初のシーンで半身を起こす宮崎あおいにわざわざ後ろ振り返らせるわけです。
わたしの言ってることって、冨野よしゆきがすでに『映像の原則』という本の中でほぼ語りつくしてますが、
その冨野よしゆきが、この映画を絶賛してますので、
画面の進行方向の法則的にも、この映画の演出と編集は確かなものなのだろう、とわたしは思うわけです。
アンサリーの歌、有名役者の声優への選択なども、抑えるところをしっかり抑えている感が強い。