以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
一部
評判高いんですが、なぜかアンチも多い『告白』です。
中谷美紀のインタビュー読んでたら、この監督に『嫌われ松子の一生』の撮影でものすごくひどい扱いうけた、的なこと言っていまして、
スタッフに辛く当たる人間の映画って、見る側に反感呼び起こすような冷たさとかが何処かにあるよな、絶対、と私は思っているのですが、
それ以外にもこの映画にアンチがやたら多いというのは、テクニックがやたら凝っているのに、内容薄っぺらく感じられる点ですか。
本当のことを言うと、この内容薄っぺらいのか、それとも濃厚なのかは私にはよく分かりません。
『リンダリンダリンダ』みたいな映画と違って、私の人生経歴と重なる部分がほとんどないから、頭だけで作った物語のような印象を受けるのですね。
まあ、推理小説なんて頭だけで作るのが普通なのですが、
もしかすると、少年犯罪に関わっているような人だと、リアルな世界なのかもしれませんが、
まあ私、本気でそう思っているわけではなくて、多分薄っぺらい内容なんだろうな、と私は思っています。
スロモーションを多用して観客に印象付けようというテクニックが全編に於いて使われており、それがきれいな撮影技術とあいまって、相当な効果を挙げつつも、そのサブリミナル操作的な露骨なやり方が見るものの反感を誘うという映画ですが、
そういう誰にでも目に付く部分以外はこの映画はどうなっているかと言いますと、
主人公の娘がプールサイドで気絶しているところ。実はまだ生きているので、頭の向きが「北枕」していない。
それに対して、御通夜の棺おけに入った時は、ちゃんと「北枕」している。
あと、エイズの夫から松たか子が血液を抜き取るシーンでは、夫はまだ生きているので「北枕」していない。
木村佳乃が死ぬシーンでは「北枕」
実は律儀にお約束事を守っています。
実はそれだけ律儀にお約束事を守っている映画だけに、このカットではゾッとするのです。
依然、日本映画では<−のポジティブ方向に自殺する人はいないと書いていますけれども、
この場合、自殺ではなくて、他殺なのですから、物語の目的方向に対しポジティブにプールに投げ込まれてもかまわないのでしょうけれども、
このカット、少しもひねりのない完全に真横からのカットです。
どういうことかというと、物語を展開させる為だけに小さな女の子を殺しているわけです、この映画。
この残酷な映像の理屈が、取るに足りない自己確認の理由で女の子を殺す少年の残酷さとシンクロして見える、
もしくは、物語が面白くなるならどんな事が起こってもかまわないと内心考えている観客の心理と人殺しの少年の心理って程度の違いに過ぎないんじゃないかと、ゾッとする。
画面の進行方向<−に逆らって −>と起き上がることを私的用語で「ゾンビ起床」と呼んでいますが、
『リンダリンダリンダ』より
こうやって、「北枕」で寝ている人映像文法的には「死人」でして、実際心臓や脳波が停止中であるか、もしくは心の中の何かが停止した状態の人であることを示しています。
示しています、というか、そういうお約束事が映画の中で出来上がってしまっているわけでして、
彼女ががこのまま起き上がると「ゾンビ起床」になってしまう。「死人」のまま物語に参画することになってしまう。だから適当な理由をつけて
登場人物の頭の向きを反対側にひっくり返し、それで血の通った人間として起き上がる事が必然的な成り行きに見えるように、映画制作者は実は神経すり減らしているわけです。
「北枕」というのは映像文法的にはある種の「死体」ですから、そのまま起き上がると「ゾンビ」であると言う意味で「ゾンビ起床」という私的造語が生まれたわけです。
実際ゾンビの類には、この起き上がり方が多いんですが、
この映画に、出てきます、「ゾンビ起床」。
「北枕」に関して、別のシーンではちゃんとこの監督お約束守っていますから、このシーンでも自覚してやっているに決まっていますが、
松たか子が教室で自分の娘が殺された時の話をしている時、屋上でいじめられて気を失っていた男の子が土砂降りの雨の中で目覚めるシーン。
ホラー映画でもないのに、絵に描いたような「ゾンビ起床」です。
というか、この映画ホラー映画なのかもしれません。
ここで目覚めたゾンビって、何の比喩だったんでしょう?松たか子の子供が死んだのに、それをイジメみたいな後ろ向きな方法で忘れてしまおうとしている生徒達の心の空白の事なんでしょうか?
それとも、松たか子の心の中のどす黒い復讐への怨念の事なんでしょうか。
どっちに解釈したところで、あんまり深みがあるとは感じえません。
推理小説って、所詮ご都合主義の塊ですから、なにやったところで薄っぺらくてこけおどしなんでしょうけれども。
この映画、人の反感買う理由ってのは、ホラー濃度の高い推理小説にすぎないのに、命の尊厳とか高尚な事声高に言っていてウザい、と見ている人が感じてしまう点ではないでしょうか。
そしてそういう必然的に湧き上がる反感を、スローモーションと思わせぶりなモンタージュの完成度の高さでねじ伏せようとしているところが、ウザさの上塗りになっていて、
好きになれない人はトコトン好きになれないと言う事ではないでしょうか。
二部
画面に進行方向が存在すると言うのは、
画面上で目的地への移動を表現する場合、一方向への継続した移動シーンが必要となるわけですし、
画面上に物語の目的を暗に表示しる場合、一方向への傾斜した行為が必要となります。
更には、映画は時間をはしょるものですから、継続的なシーンの場合、ポイントポイントを取り出して、その残りを省略してしまうのですが、継続を示すには、そのポイントとポイントが共に同じ向きでなくてはならない、訳です。
こういうお約束事は、映画が発展するに従い、観客の評判を確かめながら徐々に固まっていった論理らしくて、
人間はそういう風に感じる。人間はそういう画像を提示されると納得させられるという、あくまで人間の錯覚の仕組みにそった論理であって、完璧な整合性を持った論理ではありません。
まあ、それはいいとして、
この『告白』のホラー的なところ、一箇所や二箇所ではなくいろいろな要素が複合的に機能して効果を挙げているのですが、
まず、最初の松たか子の教室での殺人事件の顛末を語るシーンの演技、怖いと思いません?
『リンダリンダリンダ』で、ペドゥナが<−−の方向に遠い視線を投げているんですが、
この松たか子も一体何見てるんでしょう?
<−の向こうに映画の目的があり、<−の向きで描かれるものが物語の原動力なのですが、
この松たか子は、一体何を見ているのか?教室での語りのシーンでは、ほぼこのように<−方向を遠い目で見ています。
ぜったい生徒の方を見ているわけではないのですね。
何か遠くを見ているわけでして、実は、松たか子が何を見ているのか、その視線にぶち当たるものは何なのかが、この映画のとかれるべき謎なのです。
この映画の宣伝文句は、「容疑者37名、全員13歳」とか書いてありますけれど、映画の20分くらいのところで誰が犯人なのかはあっさりとばらされてしまいます。
そういう宣伝文句とか予告編につられて映画見てしまうと、すごく肩透かしを食らわせられたような気にならざるをえません。
どうして、こういう間抜けな宣伝文句を考えないといけないのだろう?この映画はそういう趣旨の映画ではないのですが、
これは、宣伝担当者がアホというよりも、所詮愚民のレベルってこんなもんだよなって斟酌した上でこういうアホな宣伝文句考えているんだと思います。
まあ、送り手と受け手が互いにバカにし合っていれば、その内みんな本物のバカになって世の中終わるんだと思いますけれども。
主役の松たか子、教室を去った後、暫らく画面から退場します。
主役にしては、ずいぶん薄い存在だよなと思わせられつつも、終盤に再登場して、やたら手際よく必殺仕事人振りを発揮して物語をまとめてしまいます。
序盤の教室のシーンでの語りの中で、彼女の視線は一体何を見ていたのかと考えると、終盤まで伏せられたままの復讐とその惨劇の顛末を彼女の遠い視線は見ていたのだと考えると、納得がいきますし、
何を見ているのか分らない不気味な視線は、その終盤の展開の映像的伏線になっていると考えて間違いはないでしょう。
それはいいとして松たか子の <−方向への視線が、松たか子が画面から退場する中盤以降どのように他のキャラクターにバトンタッチされていくかをチェックしてみると、かなり簡単に、この映画のメッセージが読み取れてしまいます。
岡田将生。新任の教師。
松たか子と違い、物語の目的の見えていないキャラなので、<−−を向くことは出来ません。
また、彼が生徒達の心の闇や空白と向き合っていないことを表しているのかもしれません。
ただしかし、彼が松たか子のエージェントとなって復讐の手助けをする場合には、<−方向を向きます。
松たか子の夫の本の愛読者である事が、岡田将生が松たか子のエージェントである事の伏線になっていますが、それは何遍も言うとおり、小説的伏線の張り方で、
映像的複線というのは、岡田将生が<−向きになっているので、「実は、直樹君の不登校の理由は心の病だ」というとき、松たか子から何らかの情報を入手している、更には彼女とコンタクトを取っていることが、松たか子が序盤でひたすら<−向きで語っていたシーンと同じ方向を画面が見せている事との関連で、見るものに伝わってしまっています。
ただしかし、この物語の中では岡田将生というキャラは捨石に過ぎない脇キャラで、松たか子の<−の視線を引き継ぎ、物語の語り部の役を中盤で引き受けているのは、こっちの女の子のほうです。
ある意味彼女も、松たか子のエージェントなのですが、犯罪者である男の子の理解者でもあります。
彼女は、命の意味とは何なのかを松たか子にメールで問いかけます。
松たか子とファミレスで邂逅する場面ですが、ここで松たか子は<−方向の視線をほぼ放棄してしまい、<−方向の視線はこの女の子のものに接木される事になります。
つまりこの<−の方向とは、何によって表されているのか、この物語は何を持って<−−方向のベクトルを描こうとしているのか?ということですが、単純な松たか子の復讐のプロセスの実現ではないのですね。
もちろん、物語の中で一貫したスジとして、復讐劇と言うのはありますが、その復讐は、命の意味って何ですか?と問いかける女の子の台詞で表された通りの重いが核になっているわけです。
だから女の子が死んだ後、<−方向の視線を引き継ぐのは、犯罪者の男の子なのですね。
自分の母親を誤って殺してしまい、それによって命の意味の実感の前にひれ伏してしまった男の子は、<−とポジティブ方向を向いています。
「これがあなたの更生の第一歩なのです」最後の松たか子の台詞、マジでしょう。
あと、この映画で
非常に興味深いシーンは
女の子が撲殺された後のシーンですが
死人なのだから「北枕」が当然のシーンなのですが、にもかかわらず女の子の頭は画面向かって右側です。
いわゆるオキテ破りなのですが、
これはどういうことなのかというと、女の子は命の意味が在ることを信じたまま死んだのですが、
彼女は死んだけれど、その信念は簡単には死なないのですね。
だから、ここで死体をズルっ徒引きずるシーンでは、彼女が生きている時みたいに腕が動きまして、彼女の体は死んだけど信念は生きているし、その心は男の子の行為を許しうるというような表現になっているわけです。
まあ、血まみれの死体にそんなこと語らせるなよ、キモいじゃねえかとか思うですが、
私、よくキャプチャー画面に赤と青でベクトル書き加えたりしていますが、
この監督、画面に本当に血糊で赤いベクトル書き加えています。
「板垣死すとも自由は死せず」
まあ、そんな感じのシーンです。