以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。
朝日と共に生まれ変わったような気持ちに成る主人公を、谷村美月は二度映画の中で演じています。
皆様初日の出を見に行かれたりしていらっしゃるのですから、
朝日と共に生まれ変わるというイメージには共感できるのでしょう。
それなら、どうせ翌朝には朝日と共に生まれ変わるのだから、夕日と共に死んでみようじゃありませんか、
そういう映画があったりするものだろうか?と考えてみると、
どうやら、この『ウィッカーマン』がそうでした。
生贄を神に(キリスト教以前の土着の邪神ですけれど)ささげて、「どうせお前あしたの朝には太陽と共に生まれ変わるから、気持ちよく行っておいで」ってな感じで、焼き殺されます。
焼き殺す火の色と夏至の燃えるような夕日の色がイメージとして重なり、
この生贄の人の生命を神にささげると、それに応える形で神は秋の豊かな収穫を約束してくれるというものですが、
キリスト教以前の信仰って多かれ少なかれこういうものでしたし、日本のチンポマンコを露骨にかたどった祠とか、諸々の行事で行われる人柱とかもほとんど同じ事です。
ただし、人類は、近代化して生産力を向上させていくに伴って、こういう、夕日と共に死んでみよう、という事は止めにしたはずなんですけど、
朝日を見て生まれ変わったように感じることの心性だけはいまだ保持しているようです。
もしかすると、電気が普及して夜の訪れに対し不都合も感慨もなくなってしまったから、夕日の存在感が薄れてしまったのではないでしょうか。
山登りとか行って、日没の光景を心細く眺めていると、もしかしてその心細くありながらも、太陽とはありがたいものだなと言う心性は、『ウィッカーマン』の生贄儀式に通じるものがあるのかもしれないとか思ったりしました。
価値観の相違、
この儀式に参加する人たちは、自分達の信仰に基づいて無邪気に明るく生贄を焼き殺している。
だからみんな−>とポジティブ方向を向いている。
でも、生贄にされる男の間近に火が回り、よくよく考えてみると、いくら楽しそうでも、これって人殺しの犯罪行為だよな、ということに観客の心理が動くことと、村人の方向が<−に切り替わるのがシンクロしている。
こういう方向転換には、ものすごく知性を感じる。
イギリス人のブラックユーモアの冴えというか、人間のどろどろした暗黒部をさらりと笑顔の仮面に隠して提出しているというか、
結局人間なんて、この程度のもの、
そういう暗いユーモアですかね。