わたしがこの映画について語るとどうなるのかといいますと、
当然この点に着目します。
トンネルは どちらの方向に掘られるのか?
トンネルは狭いですからカメラの置き場所が極めて限られます。
また薄暗く背景が存在しないも同然ですから、トンネルを掘る方向を→ ←の両方が入り乱れると、トンネルが彫られているのかいないのかわからなくなるんじゃないでしょうか?
→ か ← の方向のどちらか一方に掘られるだろう、
そして当然 ポジティブの→の一方向のみにトンネルは掘られるだろうと目星をつけます。
そうなると、トンネル堀を妨害する行為は ←方向になるはずです。
普通、映画は、9割がたの観客が分かる要素で流れを作ります。
その流れの中で、観客は、物語の進捗状況に予感を感じ、その理由から主体的に参与しているような感覚を受け始めるのですが、
映が画面の基本的流れに、もうひとつ、ふたつ、みっつと別の要素を加えていくことで、
物語をうっとりするような詩に作り替えていきます。
『大脱走』
子供の時に何度かテレビで見て、その時から大好きでした。
そして、いい大人になって見返すと、子供のころ知らなかった歴史的背景が分かってくるようになります。
史実では、この脱走はノルマンディー上陸作戦に三か月先行します。
連合軍の上陸への防御固めにドイツ軍が猫の手も借りたいくらい忙しい状況下だったわけで、その背景での後方攪乱には確かに意義があったことが分かりますし、
それから、つまり、ドイツの連合軍捕虜収容所にいた捕虜というのは、ダンケルクの撤退に失敗した兵士を除くと、
ドイツ空襲の際に撃ち落とされた飛行機乗りばかりなのですね。
それゆえ、彼らを収容する施設がドイツ空軍により管理されているという設定になるのですが、
子供のころには、
空軍の紋章なんて気にもとまりませんでしたから。
そして、これは飛行機乗りたちの物語だということに気が付くと、
空を飛ぶことのイメージがこの映画に幾つもさしはさまれていることがみえてきます。
公文書偽造班の表の顔は、「空軍野鳥の会」
「鳥のように自由に」言葉で言われると、どこまでも陳腐な言いぐさなので、
鳥が自由ったって、弱肉強食の世界で飛んだり喰ったり喰われたりを自己責任でやってるだけだろ?
とか毒づきたくもなるのですが、
鳥が自由であるというイメージ自体は、別に間違ったものでもないでしょう。ただどこにでも目にする故に、本来詩なんか絶対書く機会の内容な人でもつい口から出てしまうくらいに陳腐化しており、
その陳腐さと切り離して考えることができるならば、「鳥のように自由」とはなかなかいいイメージであり、
このイメージを言葉と切り離し、映像の物語と流れの中に組み込んでいくと、陳腐さとは別個の、万人を魅了するすがすがしいイメージが脳裏に羽ばたき始めます。
その実例がこの映画なわけですが、
「鳥のように自由に」以外に、この映画にはどのようなイメージが埋め込まれているかといいますと、
収容所の所長が言います。
「脱走のような無益なことは考えず、ガーデニングなりクラブ活動なりスポーツなりで有意義な時間を過ごしてほしい」
捕虜がトンネル堀からでてくる残土を農園の土に混ぜる場面がありますが、
トンネル堀という行為自体が、一種のガーデニングといえるかもしれません、
トンネルを掘る行為は土を耕すイメージに通ずるなら、
脱走志願者は、種といえるかもしれません。
そして、種を発芽させるための肥料や水や最適な気温というのは、
意志の力だったり、綿密な行動計画であったり、メンバーの協調だったりするのでしょう。
月のない夜に、トンネルの入り口から花開くように脱走者が四方に飛び散っていく、
ひとりの観客が、そのようにイメージをふくらませたとして、別に何の支障もありませんし、
そのイメージのふくらみを 世迷いごととして否定しうる妥当な根拠も別にないのですから、
このような解釈(というよりかは、大勢と矛盾するところのない一人遊び)は、映画の一部であると考えてかまわないとわたしはおもいます。
また、
画面を→ にすすむか ←に進むかのベクトルとして脳裏で抽象化してみると、
トンネルを掘り進む以外にどのような動線が →方向を描いているのかと申しますと、
映画序盤にマックイーンが、ばんばんと左手のグローブに向かって → 方向にボールを投げ込みます。
この映画には、→方向を描くものがほかにもたくさん出てきます、飛行機だったり、汽車だったり、バイクだったり、走る人だったり、
それでも、画面上での速度に関してなら、この時のボールより速い →方向の動線はこの映画にはありません。
ここに私は、檻の中に閉じ込められた苛立ち以上に、マックイーンの内面の →方向の向こうにあるはずの自由への渇望と脱走を実現するための過剰なエネルギーを感じてしまいます。
この映画では マックイーンのボールは → 方向にのみ投げられます。
断想の経路であるトンネルを掘る方向と マックイーンがボールを投げる方向が同一であることは、私に、脱走は攻撃側と守備側に分かれたフェアプレーのスポーツであるという印象を受けてしまいます。
この映画の敵役は誰なのかということですが、収容所長は、このゲームがフェアプレーの精神でなされるべきことが分かっています。
ハイルヒトラーの挨拶に対し、自然に敬礼ができない所長。
それと比べると、ゲシュタポの職員は、脱走がフェアプレーの上でなされるべきゲームであるとは理解していない。
故に、所長とは顔の向きが別だし、更には所長とゲームを競う連合軍捕虜とも相容れない立場であるので、左右どちらもむけない微妙な角度で画面に映る。
脱走の翌日の朝礼。攻める側と守る側が後退したことを示すかのような、
所長→ 捕虜←の画面。
→ の方向の向こうにゴールがあり、
敵は、←方向に押してくる。
汽車という敵側が管理しやすい交通機関に頼ったものはことごとく捉えられてしまうのですが、
そのゴールへの夢を乗せて走る汽車は → 行き。
それに対して、脱走捕虜狩りの任務を帯びたドイツ軍がその汽車に乗り込む際には、
わざわザプラットホームと逆の線路側から汽車に乗り込んで、 ← 方向のベクトルを作り出しています。
そういうルールのスポーツが『大脱走』であり、→方向のタッチダウンに成功しないとするならば、失敗したものは←を向いて倒れることになります。
『大脱走』というゲームのルールがこのようであることを了解してみてみると、
主要メンバーが捕まるシーン、最後のシーンの演技には、実に味わいある魅力があることが分かります。
アテンボローが捕縛されるシーンの演技。
体を半ひねりして → 方向に駈け出したいのですけれど、銃を突きつけられていますのでそれができません。そして、 → 方向に駈け出したいという心の欲求は、右手に持った新聞の微妙な動きによって示されています。
アテンボロー最後のシーン。
山の向こうにあるはずだった自由を遠望し、
捕虜生活を耐えるには、自由になれたときのことを考えているしか方法がなかった。失敗したけど、それ以外方法がなかったんだから後悔していない。
まさにゲームが終了した後の、敗者による爽やかな弁明です。
子供の頃には、この爽やかさしかわからなかったのですが、
この映画には、捕虜収容所に生きることの耐え難いストレス、絶望があふれかえっています。
爽やかさを前面に出すことで物語を万人向けに作っています。そして、精神の荒廃を極力少なく描写し、
彼一人の役にその描写を押し付けていますけれども、
映画の細部を気を付けてみるにつけ、どの捕虜たちも多かれ少なかれ、彼と同じ精神状態だったのだろう、とこの映画は語っているようです。
それに、男だけしかいないのですから、ホモ臭さも漂っています。
日本軍の捕虜収容所物語だと、捕虜はみんな重労働と食糧不足に熱帯病でゾンビみたいな要望しているはずなんですが、
いくらドイツ軍の捕虜収容所はましだったとしても、
この筋骨美しい肉体を収容所で維持することは、絶対ないでしょ。
「お前は何やってんだ?」
「ライフガード。彼が溺れたら困るんでね」
実際、見張り番として、エアポンプ係として、ブロンソンの命を守っているのですが、
そういう事情知らないドイツ看守からすると、
この二人はガチホモにしか思えないはずです。
そして、ドイツ看守役の立場に立って映画を見ることができたなら、そのことはすぐにわかるはずなのですね。
さりげない会話で相手の気を引き、俺の部屋にコーヒーを飲みに来ないか?と誘惑するシーン。
婦女子が悶絶しそうな要素満載。
こういうことは、さりげなく描写するからいいわけであって、
実際どうだったかをリアルに描いてしまうと、
『大脱走』も『戦場のメリークリスマス』的なホモ映画に成り代わってしまうのでしょう。
敵への精神的肉体的屈従のホモSMだったり、自分と全く異なる異文化の性へのひとめぼれとツンデレだったり…。
そういう点を踏まると、飛行機でアルプス越えに挑んだ二人の関係も、なかなかイイ感じのものなんですが、
二人の逃飛行をチェックしてみると、面白いことに気が付きます。
もっとも条件的に有利に見える逃走方法なのですが、
彼らにかぎって、←方向に進んでいるのですね。
飛行機ぶんどったのだから、こりゃ、もうこの二人は大丈夫だと思ってしまいがちなんですけれども、
それに対して、「世の中そんなに甘くはねえよ」と諭すための伏線としてのこの←ネガティブ方向。
次に起きうる悲劇に対して、それなりの必然的予感を観客に与えてやらないと、うまく物語の流れに乗れないんですよ。
「連れ出してくれて、ありがとうな」
感謝の言葉を口にして死んでいくドナルド・プレザンス。
逃避行に失敗したメンバーの捕縛射殺のシーンの中では、彼一人だけ →方向を向いていた。
このことを考えるに、
脱走の後の目的地とは、
国に帰ることではなく、国に帰って再度軍隊に参加し戦場に送られることでもなく、戦争が終わった後に家に戻って九時五時の公務員生活と住宅ローンの40年を過ごすことでもなくて、
もう一度、鳥のように自由に空を飛ぶことだったのではないか、と私は考えてしまいます。だって、彼らは飛行機乗りなのですから。
だからドナルド・プレザンスは、空をもう一度飛ぶことができたので、彼にとっての脱走は成功だったのでしょう。
そういう風に思ってこの映画を見てみますと、
収容所所長の背後にある写真が気になって仕方なくなります。
画面を → と ← のベクトルであると認識したうえで映画を見るようになると、
ある種の小道具が目について仕方なくなるのですね。
彼の背中には 飛行機の写真があります。そしてその飛行機は ← を向いています。
脱走した捕虜たちがひたすら目指していた方向は → であり、その行先は空の上だったのですから、
所長の背後の飛行機は ←向きであるゆえに、空を飛ぶことはないだろうと私には感じられます。
彼は、地に縛り付けられた飛行機乗りであり、それゆえ、鳥のように自由になることを憧れている捕虜たちと同じです。
コーラス部隊の隊長がベットを突き破るシーン。
クリスマスにウズラがどうの小鳥がどうのという歌を歌って二段ベットの板をぶち抜くのですが、
これも、ある意味の飛翔なのでしょう。
ベットを壊しはしましたが、→を向きのカットです。
逃げることの目的は、どこかに行きつくことではなくて、鳥のように自由になることなのですから、この人にとってはこれでよかったのです。
そして、今後衰退を続けるだけの映画表現をのことを考えると、このシーンは映画が終わるまで残るはずですが、
ほんの高さ数メートル、時間にしてほんの数秒ですが、マックイーンのバイクは空を飛びます。
なぜこれが感動的なのかというと、全編通して、「鳥のように自由に」というイメージで観客を延々と説得しているからなのですね。
マックイーンは、脱走の目的=空を飛ぶことを一応叶えたのですから、
成功者として何ら恥じることなく収容所に → 向きで戻り、→ 方向で独房に入って、そこで映画は終わります。
捕虜収容所がいかに人間の精神をむしばむのかを、この映画はちゃんと暗示していますが、
そのことは成功者マックイーンの精神を破壊することは出来ないこともちゃんと暗示されて この映画は終わります。