『blue』 見えない心をどうやって見えるように表現するか、について   

『blue』2003年。 安藤尋監督作。市川実日子モスクワ国際映画祭最優秀女優賞。

新潟の女子高生二人、卒業後に東京に出ていった一人と地元に残った一人、
音楽は大友良英
全然別の世界観ですが、『あまちゃん』とすごく似ています。
「blue」予告編 - YouTube

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「『blue』(1997年4月24日 「MAG COMICS」 ISBN 4-8387-0896-3 マガジンハウス刊)全1巻。装幀は南伸坊英語版、フランス語版、スペイン語版、ドイツ語版も翻訳刊行されている。
以下のキャプチャー画像は,市川実可子と小西真奈美の『blue』より」wikipediaより。



以下の内容を読まれるのでしたら、こちらbaphoo.hatenablog.com
と、こちらbaphoo.hatenablog.com
をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。


2行程度で話をまとめてしまうと、
市川実可子と小西真奈美がレズで、小西真奈美には不倫妊娠中絶した過去があり、実はその相手と未だ切れておらず、その事実に市川実可子が傷つく、という、レズの部分を普通のヘテロ恋愛にしてしまうと、実に陳腐な物語なのですが、

一言で語ってしまえば物語なんてどれも陳腐なものです。そういうのをネタバレとかいって騒ぐのってくだらないことでしょ?


地方都市のいけてない女の子が、自分よりも一ランク上の大人びた同級生の女の子に憧れ、向こうの方も妊娠中絶の傷を癒す為に彼女の好意を受け入れてくれる。
そういう話なんですけれど、

実は昔の男と小西真奈美が切れてなかった事に深く傷ついた市川実可子。
おそらく小西真奈美からの電話にシカトを決め込むシーンですが、


その電話の受話器をとりたい、とりたくない、あんなヤツもうあいたくない、あいたくてたまらない、…という相反する思いをどう収拾して良いのか分からないシーンなのですが、
市川実可子の向きと、彼女のホースから飛び出る水の向きが頻繁に左右にジグザグする事で表現されています。

もちろん、彼女のいらいらを表現するからだの演技でも表されていますが、映画の演技とは左右への動きとしてしか表現できないものらしいです。





おそらく彼女の顔の向きが彼女の顕在意識の方。つまり自分を裏切った小西真奈美を拒否したいという意思を示しているのですが、
それに対して彼女の感情はホースから勢いよく飛び出す水のように彼女に会いたくて仕方がない。
それで最終的にこのシーンでは水の流れる方向と彼女の体の向きが食い違い、
結局、自分の体にホースの水をかけるという自己矛盾した結末を迎える事になります。


この物語は、市川実可子が小西真奈美から自立して行く過程がテーマなのか?それとも彼女に対するもう帰ってこない高校三年生の夏の想いへのノスタルジーがテーマなのか?という二択問題があるとするなら、
ノスタルジーの方がこの映画のテーマだと思います。
この映画の臆面もないノスタルジックな音楽がそれをよく表現していますし、



市川実可子が、小西真奈美への思いを断ち切って美術学校に進もうと絵の勉強を始めるとき、彼女は常に と、物語の進行方向と逆の方に向かって絵筆を握ります。


それでも、マンガ家も脚本家も映画監督も音楽監督も、みんな大人になってから高校時代を振り返ったうえで作品を作るわけで、高校生扱った作品はどれもこれもノスタルジックになるのは仕方ないと思います。
もし、主演女優が本当に高校生だったら、話はまた少し違うのでしょうが、
彼女たち二人、見るからに、ずっと大人びてますよね。