害虫

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。





アメリカの小説家サーリンジャーは、ポツリポツリと書いていた短編の登場人物たちを、実はみんな一つの家族だったということにしてグラース・サーガという枠に無理やりおしこんだ。


正直面白さとはほとんど無縁の物語であるけれど、
短編の中で単発的に語られる苦悩や悲しみ、ちょっとした哀愁みたいなものは、すべて作者の頭の中から出てきていることなのだから、それらは本来すべて繋がっているはずである。
そして、それらのつらい物語を単なる商品として売りさばいているのではなく文学として世に出したのだったら、作者は何らかの形でそのつらい物語に救いなり明るい結末なりを付け足してやる義務があるのではないか?


自分は、そんな風に考えた。

塩田明彦の「カナリア」とその3年前の作品「害虫」は全く別の作品であるけれど、主人公の女の子の退場と登場の場面が完全に繋がっている。

「害虫」は、宮崎あおい主演で、完全に暗い、暗いだけの物語であるのに対し、「カナリア」の方も絵に描いたような悲惨な境遇の話ではあるけれど、妙に明るい要素がある。
カナリア」の物語は、その映画の登場人物に希望を与えるだけでなく、その前に作った作品の暗い登場人物たちにも希望を与えるような作品であると、自分は考えた。




自分の街に居場所が無くなり、東北にヒッチハイクできた。そこで、父親のように慕っていた小学校の担任に会いに来てと連絡を入れたのだが、いつまで待っても彼は来ない。
そしたら、チンピラに援助交際で稼がない、どうせ金無いんでしょ?と言われ、仕方なく彼の車にのる。
そのとき、誰かの車がやってきて、もしかして担任の先生かと思い振り返る。
でも、振り返っただけで、彼女は結局行ってしまう。
ここで映画はエンド。



一方「カナリア」の谷村美月の登場シーン。援助交際でおっさんの車に乗っている。母親が死んだ時の話をしている時、急に振り返る。


父親代わりの男を振り返り、そのままーー>の方へと行ってしまう「害虫」
そしてそのままーー>へ向かうはずが、母親の事をキッカケに振り返り、それから<−−へと進むのが「カナリア


こう考えてみると、「カナリア」という映画はオウムに対しての救済なのではなく、塩田明彦の個人的な苦悩妄想への救済なのだろうと、自分は思った。

四枚キャプチャー画像を並べると、一度死んだ何かをもう一度甦らせたい、というのが「カナリア」なのだということで納得できないだろうか?



塩田明彦の映画の手法がどうなっているのかを説明する為に、先ず普通の表現を見てください。

「Blue」モスクワ国際映画祭最優秀女優賞 市川実日子 

自分の好きな人が、自分に隠し事してたことを、別の男の子に相談する場面。

喫茶店の窓の外を行く車は、−−> と <−− でほぼ同数。普通の現実はこういうのもので、道路が一方通行でなければ、両側から車が来るのが当然だとみんな受けとめています。だから窓の外の車の数なんかに気を留めることはほとんどありません。


それに対して「害虫」の方では、


宮崎あおいに、売春を勧めるチンピラの場面ですが、窓の外を通る車は大型車を中心に14台。すべてーー>方向です。


カットを変えてまたーー>方向の車が続きます。

今後宮崎あおいを捕まえる運命が、逃げようの無いものであり、やるせないものである事が印象付けられます。

車とは、両方向に均一に流れている野が普通であり、明らかな意図ない限り、こういう場面はとれるものではありません。

車によって、登場人物の心を表現している、そういうことなのですが、

宮崎あおいが、今後は売春するしか生きてていく方法はないのだろうと、あらかた覚悟が出来た、と観客には思われる時に、<−−に方向に進む車が控えめな映り方で三台登場します。


そして、その後、宮崎あおいの顔の演技で、彼女の覚悟が決まった事が示されます。

宮崎あおいだけでなく、車にだって、演技はできると言う事なのかもしれません。