生きる

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。








映画に於いて、心に残るシーン、印象的なシーンは、<−から−>へのポジティブな方向変換が用いられることが多いです。そして黒澤はこの方向変換が絶妙に上手いのですね。
蓮実重彦の尻馬に乗ったような連中には、分んないと思いますけれども。


黒澤作品で言うと、
もしかすると世界映画史上最も有名かもしれない画面の進行方向変換が「生きる」の末期がん患者が新しく生まれ変わるシーンです。


「生きる」はモノクロであり、観客の感情操作に色彩を用いる事は出来ませんし、当時の技術を考えると音響もひどいものです。そんな中で画面の流れをどう表現していたかと言うと、もう、人物の立ち位置、目線、そのようなもので、画面にさながらベクトルが出現しているように見えるのです、少なくとも自分にとっては。

常に画面にベクトルが現れ、左右のどちらに押し出すかの相撲が行われているように見えるのです、少なくとも自分には。

この頃の日本映画では、画面の流れが−>でした。ちなみに黒澤作品の進行方向が<−と現在の日本映画と同じになるのは、「用心棒」の時からです。
田切みきを連れ出して、一緒に遊び歩く場面では画面が −>に移動し、彼女が主にポジティブポジションにたって、画面を進めます。非常に軽快な流れなのですが、遊び疲れて家に帰った後の、息子の「遺産相続がどうの…」という話をされる時の、この行き場のなさ。

青のベクトル二本に対し、赤は一本。更には、基本的に画面は赤の流れなのですから、実質三対一で、志村喬は、押し出されるように部屋を出て行きます。


ほんと、画面上での陣地戦さながらです。





田切みきに最後のデートを申し込みに行く志村喬ですが、逆境のネガティブポジションです。
ただ、彼の押しの強さの迫力が小田切みきの不快感に勝るように、彼の立ち位置がよりハーフウェーラインに迫っています。


結局、彼女は付き合ってくれます。



主人公が、ポジティブポジションに位置取りしますが、客観的に見れば状況は五分五分です。
ただし、主人公は主人公ですし、基本的に話は赤方向に流れます。


非常にうまい場面のはさみ方ですが、青軍の援軍に、隣の席のカップルが移ります。これは、小田切みきの「冴えない老人連れてデートしても何にも楽しくなんか無い」という気持の代弁であり、その気持は観客にもよく分かるので、一気に青軍は赤軍を追い詰めます。


赤軍は非常に不利ではありますが、一度仕切りなおしをします。



客観的状況判断では志村喬は負けるしかないのですが、ただし、彼は主役であり、彼が癌である事を上手く伝える事が出来たら、状況は赤軍にとって一気に逆転する可能性がありますが、ただ、彼は口下手です。



本来同乗されてしかるべきなのに、あまりのキモサゆえに、ポジティブポジションから、ネガティブポジションに位置が変わってしまいました。

つまり唯一の勝利の可能性であるところの、観客の共感さえも志村喬は失ってしまったのです。
基本的に観客は、赤い流れに共感するように煽られています。

また、自分の個人的体験から考えたとしても、末期がんの患者の最後の決意がまともでなくただ迷惑なものである可能性は高いです。
そういうことからも、小田切みきの感じるキモサというのは、よく共感できるのですね。

これで、事実上志村喬は、勝負に勝つ見込みがなくなってしまいましたが、…

このウサギのおもちゃがトコトコ歩き出す場面では、逆ベクトルが画面に発生しておらず、 画面は、赤だけです。
この順行ははじめは弱い力で始まりますが、徐々に強い力になり、
最後には「ハッピーバースデーツゥーユー」の歌で強化され、
見ている者の涙腺を破ることになります。




志村喬が、末期がんでありながら、真剣に生きることを決意した時、
ベクトルの戦いでほぼ負けが確定していたのを、天使の援軍が「ハッピーバースデートゥーユー」を歌ってくれて、大逆転に成功するシーンですが、

まず、いきなり立って、走り出す。さっき「生きる」を見直して分ったのですが、小田切みき、本気で嫌がっている演技です。
映画を見ると、小田切みきの役ってのは魂の救済者ですから、嫌味なところの無いすっきりした役だと思っていたのですが、
古いスタイルの演技だから、今の目で見ると、何やってんのか今ひとつだったんですが、よくよく見直してみると、マジでキモいとか思っている演技ですわこれ。
ここで、逆転一発の正方向反転ですから、その下地つくりの為のいままでのネガティブ逆境だったことが分ります。



速度を出して、店内を正方向に走ります。速度の分だけベクトルは大きく、更に 今まで俳優の服が画面上にしめる割合が大きく、光沢のない影の多い画面が、白の多い画面に変わります


志村喬の走る方向はジグザグですが、ベクトルはあからかた正方向です。そして二階にいる天使の群れは、速い速度で、移動していますし、人数も多いので、非常に大きいベクトルです。

二階の天使は直線ベクトルなのに、志村喬のほうはジグザグであり、
この微妙な不一致が、天使たちと志村喬がアカの他人であること、そして、天子の祝福が志村喬には聞こえないことを示唆します。
天使の姿と歌声を感じるのは、観客だけということになります。


「生きる」はファンタジー映画の体裁をとっていないので、いきなり場面に天使が出てきてはいけませんので、
この天使たちの役割を現実的に規定しないといけませんので、誕生日を迎えた本人が、階段を上ってくるシーンが続きます。



しかし、この女性のベクトルは逆方向であることから、
観客には、「ハピバースデー」の歌声は、志村喬のためのものとしか感じられません。
映画の中では学生のパーティーの体裁をとっていますが、上の位置から見下ろし、人間を祝福する存在というと、天使にきまっているだろう、と一般観客は感じます。


現実世界に、いきなり天使を生じさせる、
これが映画のマジックというものです。


そして、その映画史上屈指の名シーンの後の余韻は、どうなっているのか、ということですが、



田切みき が流れに取り残されたまま青ベクトルで、志村喬が去っていったはずの方向を見ています。

赤ベクトルの人物は、その目線が物語の進行方向を向いている為、必然的に、観客と目線を共有することになります。


田切みきの位置について解説すると
末期がんの患者の悲しさに同情する観客にとっては、その事情をあんまり知理解していない小田切みきは観客にとっては既に他者。  ゆえに青



一応そのように解説できますが、


本当のところはどうなのでしょう。

わたしには、この、小田切みきの取り残された場面が「生きる」の重要なポイントなのではないかと考えるのです。


一気呵成にベクトルが正方向に動いたあと、小田切みきの青ベクトル姿をみせるのは、余韻を消しているのではないか、
ある意味、迷走といえるのではないか、ともいえますが、
実際、凡百の監督編集なら、ここで小田切みきを赤向きにしたカットが入るのではないでしょうか。


まず実際的な意味で、
田切みきが青方向というのは、
物語があの段階では、一つの謎を持っているからです。
つまり、志村喬は、役所仕事の中で、どうやって生きる意味を見出していけるのかが、観客にはまだ分かっていないからです。

一体これから主人公はどうするのだろう?という謎を噛みしめさせるカットなのですね。

そして、この小田切みきによる謎をみつめるカットを受け継ぐように、その数分後には志村喬は死んでしまいます。
そして、葬式の中で、公園建設の実態の謎を探る一種の推理小説として話が進んでいきます。


よくよく見直してみると、小田切みきの役は、本気で末期がん患者の必死の形相をキモいと思っている演出なのですが、
それでも、見ている側には、それがあんまり嫌味にならない、もっとこの女の人は善人なんだ、という風に見えるのですが、
それは、この女の人の、自立した態度、働くもの食うべからず的な戦後の価値観に沿った人物像、そして、物語の中では魂の救済者、という点から離れたとしても、
もしかすると、この女の人の心根のやさしさというのは、もしかすると、

この画面の於くのパーティーの人の流れで表されているのではないかと感じられるのですね、
テマエの男女のカップルは、女のヒトの表層的な退屈感や劣等感を示しているのかもしれませんが、
於くのヒト波は実に微妙な動きをするんですよ。

だいたいこんなキモいジジイにこれだけ付き合ってくれるってだけで、ヤッパ本当は心のやさしいヒトなのではなかろうか、表面的にはずけずけきついこと言ったりしてるけど。

要は、テマエで女のヒトの顕在意識を表し、奥で女のヒトの潜在意識を示している。そして、特に潜在意識については、観客の方も、そのように明白に意識することなく、潜在意識的にそのメッセージを受け止めている。
そのように考えると、映画の仕組みは矛盾無くよく理解できるのですね。




「生きる」の中に、天使が出てくるのだから、天国も出てこなくてはいけない、もしくは最低でも天国がどこにあるか位の示唆はあってしかるべき、と思われます。



志村喬の登場シーンの中では、ラストから2番目。
「夕焼けを見たのなんて、三年ぶりだ」

無論、視線は赤ベクトル。そしてその後赤方向に進んで、画面から消えます。

画面向かって右上に夕焼けがあり、それを眺めているゆえに姿は逆光で陰だけになります。
それはある意味、生物的は志村喬がほとんど死んでいることを暗示させますし、もうすぐ死ぬ故に、天国が知覚されるともいえるでしょう。



後半の主人公の、公園建設に関わりだしてからの確信に満ちた行動は、赤方向への移動で表現されます。

でありながら、最後の登場シーン、ブランコを漕ぐシーンは、逆向きで、当然ブランコの動きも逆方向主体になります。

これは、ブランコを漕いでいる志村喬が既に死んで、天国に移動している途中と考えるもの一興でしょう。
もしくは、もう天国に着いているという見方もあるかもしれません。
とすると、この映画に於いては、この小さな公園がひとつの天国であるといえるかもしれません。そうだとしたら、ずいぶんとしょぼい天国です



役場の同僚が結局いつもの怠惰な業務態度に戻っていく中、志村喬の一番の理解者だった部下が、公園を訪れます。そして公園で遊ぶ子供たちを見てから、順方向に移動しますが、
その道のりは傾斜しており、階段を歩むようであります。

天国への道のりは険しい、もしくは、道のりは示されども行く先は遠い、
そんなイメージです。

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