隠し砦の三悪人

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。





黒澤明の一般的イメージから、
ぐいぐいと太いベクトルで力強く画面を押していく作品を連発しているかというと、全然そんなことないです。

彼のキャリアが始まったのは、戦中で、それから戦後の混乱した時期にキャリアを積んできているのですが、

社会が動揺している時期に映画を作っていたため、その社会的価値観の動揺が、彼の映画の画面の進行に変な影響を与えているように思われます。

こわもてのイメージに反して、画面はすんなりと流れてくれないのですね。



滅んだ武家の姫君が家臣とともに御家再興の為の金塊をもって友好国まで逃げる話なので、一言でいえる単純な物語で、目的も目的地もはっきりしているので、

その道中で迷走せずに、一気に突っ切ったら、物語は15分くらいで終わってしまう。

それゆえ、ひたすら迷走がつづきます。
あまりの迷走ぶりより
画面のベクトルはどちら向きなのかがほとんどわからないままです。

この「隠し砦の三悪人」は「スターウォーズ」の元ネタになっている作品なのですが、
ルーカスが語っていましたが、
物語の最初の20分を脇役のロボット二人の視点で描くのは、ものすごい冒険だった。なんどもルークが最初から出てくるヴァージョンを試みたけれど、やっぱり、黒澤の映画どおりにすることにした、
とのことです。

映画は、右に進んだり、左に進んだりで、迷路のような複雑さを見るものに感じさせますが、
最初に言ったとおり、物語自体は「隠し砦の三悪人」は、ものすごく単純です。
スターウォーズ」よりもずっと単純でしょう。

そんな物語に、複雑さを呼び込むには、本来脇役の凸凹コンビに、主役並みの待遇を与え、物語の進行をぐちゃぐちゃにしてしまうと言う手法を黒澤は用いました。



高貴な身分の方々は、−>の方向に進もうとするのですが、凸凹コンビは<−の方向に物語を進めようとするのですね。

で、この二組が一つの対立を示しているのですが、その外側にははっきりとした敵が存在する、図形的に表すとそういう物語構造です。

高貴な二人と凸凹二人は、敵味方ではなく、対立軸であり、ある意味富むとジェリーのように仲良く喧嘩を続ける間柄です。

自分のように、物語が右と左のせめぎ合いという観点からみていると、これは極めて分りやすいことなのですが、
そのような事に着目せず映画を観ていらっしゃる方には、凸凹コンビが自発的に進もうとしたときには、
『嫌な予感がする』以上の感慨はもたれないでしょう。

そして、なぜ嫌な予感がするのかというと、それは確率論的に、凸凹コンビは物語の始まりからすべりまくっているのでありますから、また滑って当然だろう、と感じるのは当たり前でしょうけれども、

明確に、凸凹コンビがイニシアチブを取る時は画面が <−ネガティブ方向に動いているのですね。

見えてるもの見てないで、何が「嫌な予感がする」だよ、ボケ。とか思うんですけれど、
以前も書いたとおり、4ヶ月前には、自分も、そのことに気がついていなかったのですよ。


ある種の映画では、もしくは古館一郎のニュースとかクロ現でもいいのですが、
画面左右の対立が善悪の対立軸として提示されています。
でも、この「隠し砦の三悪人」では善悪の対立軸ではなくて、前進・後退の二つの筋としてのみ扱われています。
正直、このシーンにしても、お姫様にセクハラしてみたい、という気持は男なら誰でも持っているものでしょう、凸凹コンビの方に感情移入しているのは男としては普通の事だと思います。

そうやって、凸凹コンビの進行方向に色、欲、生きたいという本能を被せ、
三船トシローの進行方向に、物語の進行、いわゆるいかにもありそうな結末という役割を振り当てています。

こういう二項対立の画面組み立ての映画って、けっこう新鮮ですね。
ほとんどどこにも、あざとい価値観洗脳の狙いが無いです。あるのはただ物語をどうネジくれさせるかの塩飽だけです。


とにかく四面楚歌でどっちに行ったらいいかわからない。うまく行ったと思ったら、実は間違った方向に行っていた。 同行者を信じていいのか分からない。 大失敗と思ったら、そこから道が開ける。 そんなことの繰り返しの中、

物語が爽快に進行する場面はわずか二箇所のみ。



1時間半ほどのところで、三船敏郎演ずるサムライ大将の身元が割れて、その正体を知った敵を馬で一気に追って切り殺し、そのまま敵の陣地に馬で乗り込む。



もう一箇所は、最後に敵国の関所を抜けて安全の地に馬を疾駆させる場面。


この2場面がなかったら、「隠し砦の三悪人」にそもそも進行方向あるのかどうかさえ分からないくらい。

目的地に近づけない、目的地がどこか分からない、そういう映画は、進行方向に沿って動くことが出来ず、見ている側にも抑圧感がたまる。

それが、一気に赤方向への疾走の場面を見せ付けられると、
恐ろしく解放された気分になる。
しばらく我慢していた尿意を一気に開放できたような爽快感、まあ下品な言い方ですが

「隠し砦の三悪人」は限られたの爽快感に賭けた映画でして。

いかに、これが気持いいかは、「隠し砦の三悪人」のレビューをいくつか読んでみれば、よく分かるだろう、と自分は思います。だって、みんな同じシーンについて何か一言書いているでしょ。