元ネタの『魔人ドラキュラ』自体が、それまでの吸血鬼についての小説や伝承に対するパロディのようなもんですから、
後続するドラキュラ作品も必然的にパロディにならざるを得ません。
発想の奇抜さと、読者や観客を説得する細部、そして比喩の象徴性を競うことになるのですが、
クロエモレッツ主演の2010年公開作品『モールス』
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ドラキュラ関連作品は数あまたありますから、原作の『魔人ドラキュラ』から逸脱したものの方が多数派であり、実のところはオマージュ表明として「この作品はドラキュラ党内本流に位置する作品ですよ」みたいなシーンが必要なのかもしれません。
主人公の男の子の住む団地に、美少女が越してくる。
その後ろに続くのは、初老の男が抱えるトランク。それは死体でも入りそうなくらいに大きい。
『モールス』はスウェーデン映画『僕のエリ 200歳の少女』のハリウッドのリメイク版なのですが、
まあ、スウェーデン映画の邦題がどんな物語なのかをすでに語ってしまっています。
さっき、処女の生き血を吸うドラキュラの生活を10年くらいなら続けてみたいなんて書きましたが、こっちの映画はドラキュラの人生を200年引き受けた少女の悲しみとそんな少女を愛してしまった男の子の悲劇についてです。
人の生き血をすする少女の方は年を取らずに子供のままなのですが、その少女のために生き血を集めたり少女が食い散らかした死体の処理などのしりぬぐいは男の子の役目です。そして悲しいことに男の子の方は女の子と違って日1日と年を取っていく。
まあ、つらい話です。
なんで吸血鬼が1980年代のアメリカに現れるのか?については別に説明はされません。
ただ、物語りの舞台が原爆の研究所の在ったニューメキシコ州のロスアラモスで、
「そういうとこだったら、なにかお化けでも出てもしゃーないわ」と少々納得。
昨今、日本の映画もハリウッドでリメイクされることが増えました。
「なんでいちいちリメイクするわけ?アメリカ人も字幕読みながら外国映画楽しみゃいいのに」と思われる人も多いでしょう。
でもしかし、
この『僕のエリ 200歳の少女』と『モールス』を比べますと、ハリウッドリメイクによる世界普及版というのは、アリなのだという気にさせられます。
人口自体少ないスウェーデンですから、その映画界の層の薄さはいかんともしがたいところ。
『僕のエリ』の方ですが、この女の子、実際身近にいたら好きになる男の子がほとんどなんでしょうけれども、しょせん映画の中の存在でありながら人生捨てても構わないと決心させるほどには美少女ではありません。
こっちは、クロエ。
そして日本人的に分かりづらいのは、吸血鬼ヴァンパイアって、
こういう姿を第一に思い浮かべるのですが、
吸血鬼の本場のヨーロッパですと、ドラキュラって吸血鬼の内の一人にすぎず、
大方の吸血鬼って狼男のような姿をしているらしいことです。
そういえば、『モールス』『僕のエリ 200歳の少女』のどちらの方でも、少女は狼のようにすばしっこく動きますし、スーツもマントも着てません。
そして、吸血鬼ヴァンパイアって異教徒的でアジア的であるらしく、アジア人との混血が歴史的に存在しうるハンガリーとかルーマニアにはもしかするといるかもしれない、そんな風にヨーロッパ人は感じるのかもしれません。
少女が黒髪でジプシー風だと、本場のヨーロッパではより説得力があるということなのでしょう。
でも、そんなこと日本人にとっちゃ知ったことではないですから、
主人公の少女は、美少女であればあるほどいいわけです。
また、黒髪でどこかアジア風の少女は、私たち日本人にとってはどちらかというと近しい風貌なのに対して、
『僕のエリ』の主人公の男の子は、
こんな感じ。日差しの弱い北欧だから色白で色素薄くても普通なのかもしれませんが、
少なくとも私にとっては、こちらの容貌の方が吸血鬼に見える。
こっちは『モールス』の主人公の男の子。
いわゆるナード風のよわっちょろい風貌。
あと、この二本の映画見て、殺人の場面の説得力の薄さ感じなかったでしょうか?
やたらと明るいところで、残る足跡の心配もせず、すぐに足のつくようなやり方で人を殺して生き血を集めるのですが、
スウェーデンのオリジナル版では、全般的に画面明るすぎ。
さすがにこんなに明るいところでこんなことやってるとすぐに誰かに見つかるような気がするのですが。
もしかするとスウェーデンの冬の夜は本当にこのくらい明るいのかもしれませんが、そういうローカル事情って日本人にとっては知ったこっちゃないですから。
BGMの入れ方にしてもハリウッドリメイクの方はずっとこなれていて、ずっと分かりやすくなっています。
さらに言うと、ハリウッド版では随所に、過去の名作に対するオマージュが見て取れます。
望遠鏡で近所をのぞき見する主人公。
ヒッチコックですな。
これもヒッチコック。
踏切のシーンは、スピルバーグっぽい。
鏡を前に一人ぶつぶつ。
『タクシードライバー』でしょう。
これら、和歌でいうところの本歌取りですが、
アメリカ映画ですと、自国映画に本歌取りの対象が色々ありますから、やりやすいってのはあるでしょう。
スウェーデン映画が、ひたすらアメリカ映画の本歌取りしてたら、
「なんで、自国映画やヨーロッパ映画差し置いてアメリカ映画のパクリやってるわけ?」と言われるといろいろ難しい。
さらには映画のラストですが、
このブログの中心になるトピックにまつわることですが、
こちらがスウェーデンオリジナル
こちらはハリウッドリメイク
ハリウッドの方が圧倒的にすべてにおいて暗い。光量が少ないというのもありますけど、小道具のカバンの色も赤から濃青に暗くなっていますし、BGMも暗いものになっています。
そのうえ、電車の進行方向が ← とネガティブの方向。
スウェーデンの方が、つかの間たりといえども少年の成長からくるほっとした感じを見る者に与えるのに対し、
ハリウッド版の方は、少年を待つ悲劇的な未来だけを暗示しているようです。
そして、これに関しても、本歌取りのようなものでして、
『ロリータ』って二度映画化されましたが、どちらの映画かもその冒頭シーンは主人公の中年男が破滅するシーンです。
現実世界ではロリコンはそれだけで犯罪者扱いですが、フィクションの中ではロリコンにはそれなりに生きる道が許されています。でも、たとえフィクションの中であってもロリコンに幸せな結末は許されないのがアメリカ社会。
だからでしょうか、
『モールス』の方でも、映画の冒頭は顔を硫酸で焼いた男が病院に担ぎ込まれるシーンでした。そして、男の悲劇を確認してから二週間前に話が戻るといういびつな構成になっているのですが、
それゆえなのでしょう、ラストのシーンにも少年を待つ悲劇的な未来だけを暗示しているようです。
たぶんヨーロッパは、この方面にはもうちょっと寛容なんでしょうね。