『ゴッドファーザー』って、実のところ、相当分かりにくい映画だと私は思っています。
冒頭の結婚式のシーンで、主要俳優の顔一通り思えるまでに、何回見ないといけなかってんでしょう。
ソニーの嫁とかトムの嫁の顔覚えるまで、何回かかったでしょうか?
初見でテッシオが何者かをちゃんとつかむことができたでしょうか?
分かりにくいというのは、深い とか、 情報が過多である とか、そういう意味でもあるのでしょうけれども、
『ゴッドファーザー』に関しては、かなり無茶な編集がなされているという気がしますし、
画面の進行方向だけで物語を語ることに関しては、コッポラってどちらかというと下手な方、
私にはそんな気がします。
映画の画面って、画面の右の奥に物語の目的が有り、そこを目指して主人公が進む、
そういうものなのですが、
複数の場面をつなげて考えますと、このようになっています。
『ゴッドファーザー』の場合、主人公がマイケルコルレオーネであるとして、
彼が追及した目的とは、何だったんでしょう?
一言にまとめるなら、「父の跡を継いで組織をまとめ上げること」なのでしょうが、
その目的に対して、映画の画面は何らかの倫理的判断を示しているのでしょうか?
そしてそれを示した時、画面の流れには淀みが生じてしまわないでしょうか?
主人公の追及する目的が、万人に受け入れられ応援されるべきものであるなら、
映画の画面は分かりやすいものになりますが、
ニューシネマの代表格たる『ゴッドファーザー』の場合、家族間の愛については肯定していても、暴力的組織の在り方については、否定的なようです。
教会での名づけ子の洗礼式でのマイケルコルレオーネ。
そして、彼の手下となって殺人を働く者たちは
←向きに発砲します。
洗礼を受ける赤ん坊も、同様ですが、
赤ん坊に関しては洗礼の儀式が済むころには、
→の向きに変わっています。
でも、司祭の前でふてぶてしくも偽誓を続けるマイケルコルレオーネは、←向きのままです。
ソロッツォを殺すための射撃練習の方向、そしてその殺人シーンも、←向きへの発砲でした。
一方、殺される立場になってみると、←向きで撃たれるなら、→向きに倒れることになるわけで、
この映画には、人は→向きで死ぬというお約束事があるようです。
邪悪な殺人が ←とネガティブな方角からなされるのですから、死者は逆の→とポジティブ側に倒れる、
それが『ゴッドファーザー』内部でのお約束事と言えばそういう事なのですが、
これは、死者と殺人の方向をそろえただけではなく、
贖罪の意味、神の許しの意味を重ねるべくキリスト教のイメージが塗り重ねられているのですね。
画面の方向をチェックしてみますと、マイケルコルレオーネが殺人を犯したり、殺人を指揮したりすることは、映画の立場としては肯定していないのが分かります。
では、何を肯定しているのかというと、
瀕死の状態で入院しているドンコルレオーネ。弱っている生命力を示すかのように、←とネガティブ方向。
ソロッツォ一味の襲撃を避けるべく、マイケルの機転で病室を移す。
「大丈夫だよ、パパ。僕がついている」
うっすらと涙が眼尻に光る。
そして、親子二人の心が通い合ったことを示すように、二人の方向は→方向にそろえられています。
この一連の画面の流れの中には、肯定的要素しか私には感じることができません。
人を殺してでも、穢れにまみれても生きていくしか方法のない世の中で、
不可侵の価値を持つもの、
それはファミリーの絆、
そういうことを言いたいかのようですが、
この点を抑えておくと、シチリア島にマイケルコルレオーネが身を隠している下りが分かったような気になれます。
ジグザグ道を行く、
求婚するときに、少しドギマギする、
車に爆薬を仕掛けられた雰囲気を察し、慌てる。
そういう幾つかのシーンを除くと、
シチリアでのマイケルコルレオーネはほとんど悩むことなく→向きですし、その勢いのまんま、迷うことなく結婚までしてしまいます。
彼がアメリカにいたときは、パパの子とも家族のことも愛しているけど、マフィア稼業には近寄りたくない。
パパが困った時には力になりたいけど、それやるとマフィアに成っちゃうし、それにパパ自体もそれを望んでいない、
そういうジレンマの中で生きていたのが、
シチリアに来ると、無政府状態である代わりにマフィアにちゃんとした社会的地位が認められていて、
結婚相手の親族一同、マフィアの存在を当たり前のものとしてとらえている。そういう環境で、ものすごく気分が楽になった、
ある意味での彼にとっての天国がシチリアだったのでしょう。
『ゴッドファーザー3』になって、かつての結婚相手のアポロニアの回想シーンが多々出てきますけれど、
画面の流れとシチリアに対する少しばかりの知識があると、その辺の成り行きも、むべなるかなという感じです。
アポロニア役の人、この時16とか17なんですよね。
「断り切れないオファー」って、こういうんだったら天国なんでしょうけど
それと比べて、アポロニアが死んだ後に帰国した時の場面。
「五年でファミリーのビジネスを合法化する」
いや、いや、それは無理というもんや。
本心隠すような黒い服、それに←とネガティブ向きですし。
シチリアでアポロニアと結婚したのは、単なる現地妻で、ケイと離れて暮らすのがつらかったから。
そんな風に解釈する人もいますけれども、
むしろ逆で、アポロニアとのことを忘れるために、無理を承知で元カノとのよりを戻した、そう考える方が腑に落ちる点は多いです。
結局、この合法化を強引に進めるせいで、不必要な摩擦を周囲との間に引き起こし、
それ故にマイケルコルレオーネはより深く苦しむのですが、
最後に虐殺の仕上げとして、妹の夫を殺す。
しかもそういう穢れ仕事を、謀反の疑いが晴れきっていない重鎮にやらせるところが、マフィア組織の嫌さ加減をよく示している。
「この砂利道を→方向に歩いていくマイケルコルレオーネの心情を簡単に記述しなさい」というような国語の試験問題があったとします。
正直、他人が何考えているか、他人が何考えて映画撮っているか、他人が何考えて芝居しているかなんて、分からないはずなんですが、
画面の方向に着目していると、それなりに、答えが出てしまうもんです。
マイケルコルレオーネ自体、命の危険にさらされていましたし、ファミリーの存亡がかかっていましたから、
敵対するマフィアを相当数殺すことは仕方ないことだったでしょうし、また、それをやり遂げてファミリーをしっかりと束ねたことに対しては、それなりに満足を感じていたんではないでしょうか?
結局のところパパもこんなことやってきたわけですし、パパの跡を継ぐってこういう事だったんでしょうね。
そして、こういう穢れ仕事して、パパの後をついでドンコルレオーネ二代目を襲名した後には、
嫁に愛想を尽かされてしまいます。
ダイアンキートンが画面から締め出されたというよりかは、アルパチーノが締め出された、そういうラストシーンですね。