『日本海大海戦』

以下の内容を読まれるのでしたら、こちら(映画の抱えるお約束事)とこちら(映画の抱えるお約束事2 日本ガラパゴス映画)をどうぞ。当ブログの理論についてまとめてあります。





日露戦争を題材にした映画はいくつもあります。
『敵中横断三百里』みたいな局地戦を描いたものでなく、日露戦争を俯瞰的に見下ろしたような構成の映画と申しますと、
東宝嵐寛寿郎明治天皇を演ずるシリーズ。東映が制作した『二百三高地』と『海ゆかば』それと東宝の『日本海大海戦』、それ以外はというと、テレビですけれどもつい最近放送した『坂の上の雲』位でしょうか。

面白いことに、『日本海大海戦』以外、全ての画面進行です。
こちらの方向だと、明治天皇の位置が、舞台演劇の上座に配置できます。

明治天皇と日露大戦争』1957年

天皇が上座に配されますと、



天皇陛下の下に戦う日本軍兵士も側にまとめられ、

ロシア軍 ←/span>日本軍 と画面上に整然と配置することができます。

戦争映画というものは、大量のエキストラを出演させなくては戦場シーンを描くことができないものです。そして引き画面の戦場の光景ではエキストラ一人一人をしっかりと映すわけなんかありません。遠目で見たとき両軍の軍服の違いさえはっきり見えないのですから、どちらがロシア軍でどちらが日本軍であるかというのは、それぞれの軍のむいている方向で区別するしかないわけです。


東宝の映画では、当時としては極めて異例な進行の映画でした。

80年代になり公開された東映日露戦争シリーズでは、既に進行が主流になっており、天皇陛下の上座については、何の問題もありませんでしたが、

1967年公開の『日本海大海戦』では、映画の進行がですから、日本軍が向きで画面に配置されるのは当然としても、そうした場合、天皇陛下を画面上の上座に位置することができないことになるのですね。



天皇陛下の左右ひっくりかえしが行われています。
普通は、天皇は恐れ多いので、その演じる役者の顔を映さないとか遠景で画面の中央に配置したりするもんですが、
こうやって左右の切り返えを行なった場合には、天皇の心の内面を映画の中で描くことになってしまうわけです。
これは、なかなか珍しいことです。

映画の進行方向は であり、その方向によって戦争での勝利を描いていくのがこの映画なのですが、
天皇を上座に配置するという問題を解決するにあたり、戦争を決断した時には 平和を志向しているときは天皇の左右の切り替えの意味づけにしています。

序盤の御前会議を見ただけで、映画の全体的なトーンとテーマが分かってしまう。

ラストシーンは、戦争を終えた東郷元帥が方向に歩いて、戦勝の意味の大きさに恐れ入り平和を祈念して靖国に参拝しているというものでした。
つまり、イケイケで戦勝に突き進む映画ではないんですね。
ただしかし、反戦の匂いを仕込めば映画として正しいのか?と言えばそういうわけでもないとは思いますけれども、この映画の公開当時は左翼が飛ばしていた時代ですから、その影響もあるのかもしれません。


この映画−>方向によって 戦争の勝利を描くのですが、それに対立する<ーはなんなのかというと、
当然的であるロシア軍が<ー向きであるのですが、
それ以外にも<ー向きで描かれるものには
死であり、敵であり、または平和主義であり、平和な過去や家であったりします。


映画に主役はいるでしょうが、常に出ずっぱりというわけではありません。いろいろな人物が出てきて、それぞれのシーンではその場その場の主役のように振舞っては消えていきます。特に群像劇である戦争ものはその傾向が強いのですが、

広瀬中佐が幸せなロシアでの過去を回想するときは<ー向き
東郷夫妻が息子をなくした盲目の老婆の駄菓子屋に行くと老婆は<−向き
スウェーデンロシア革命勢力に武器を流していた明石大佐は、斜に構えた余裕ある態度で<ー向き。
敵を粉砕する以前に、このようなもろもろの要素を画面上でなんとか−>方向に束ねないと、勝てる戦も勝てない、というよりかは海戦以前に物語が破綻してしまいます。

つまり、この映画はロシア軍と日本軍の戦いを描いているというよりかは、戦場の勝利と銃後の平和の争いを描いている、つまり戦場の勝利と十五の平和はどちらがより価値があるだろうかという視点で映画を進めてしまったわけです。