以下の作品群は、わたしとしては中級以下の『あまちゃん』好きに推薦するつもりもありませんが、
見ると、『あまちゃん』に対して思うところがポツリポツリとあるという作品です。
「妻はいい女優なのになかなか主役の話が来ない。ならば彼女を主役にした映画を自分で撮ってしまえばよい」と故伊丹十三(wikipediaより)。
一連の夫婦コンビ作の2本目。
『あまちゃん』の演技リーダーだった宮本信子の主演作を『あまちゃん』の制作スタッフが意識してないはずもないと思います。
ラーメン屋のカウンターという狭いセットでのシーンが多く、そういう狭いところでどうやって物語を映像化するか、については、絶対参考にしているだろう、と私は思います。
これ、ほとんど、喫茶リアスですね。
それ以外にも、
食通の男(役所広司)が海女の手から直にカキを食するシーン。
あまちゃんにも似たようなシーンがありました。
さらには、役者の演技は脚本や監督に規定されるもののみではなく、特に『あまちゃん』ではアドリブや役者の自己裁量が重視されていたようで、
『スーパーの女』
『あまちゃん』でも、感極まると踊ることで夏ばっぱが喜びを表現するシーンがありましたが、こういうの見ていると、それって宮本信子のアイデアだったんだろうなと思わされます。
2 『ハゲタカ』『その街の子ども』井上剛の監督作品
『ハゲタカ』と言えば、大森南朋と松田龍平の出世作なんですが、
プロデューサーが訓覇圭、2話3話の監督が井上剛、
『あまちゃん』の一番手プロデューサーと一番手監督です。
3話
数年後には、古臭くなる、
これは、逆にいうと当時は新しい手法をいっぱい取り入れていたという事なんでしょう。
井上剛は、13分半のスペシャリスト、朝ドラの巨匠になってしまいまして、
1時間のドラマだと、リズムが違うような気がします。
そして、ドラマ全体で数人の監督が共有すべき演出上のお約束事がしっかりあって、その中で井上剛の個性をどうやって出していくかという事ですが、
他の監督の回と比べると、朝ドラの巨匠だけあって、テンポが速いですし、サブリミナル的に心理描写していく傾向も強いです。
『ハゲタカ』が、実のところ鷲頭と三島さんのラブストーリーの側面を持っていると感じられるのは、井上剛の演出の秘めたるメッセージなのでしょう。
「一緒に日本を買い占めましょう。まだまだ『あまちゃん』のこの国を」
『あまちゃん』のタイトルって絶対ここから来てるんでしょうね。
そして、そのような朝ドラ、連続ドラマで技法を磨いてきた人が、2時間弱のドラマを一人きりで演出したらどうなるのかという事ですが、
『その街の子ども』
画面の進行方向、流れ、一貫性が見えにくくなる連続ドラマ、
特に、1日13分強の朝ドラでは、相当にあざとい演出をしないと、次回につながらない。
そのスタイルを、通常の映画の時間枠でやったらどうなるかという事ですが、
わたし的には、これは、ないです。
そして、そのような画面に音楽を合わせることも、実り少ない行為でして、
大友良英のBGMを聞いて、ダメだこりゃ、と思ったのは、これが初めてです。
それに、役者のフィクションの演技が現場の現実に溶けることで物語が終わるスタイルは、正に『あまちゃん』なんですが、
わたしは、これ、『あまちゃん』の肥やしになったという以外では、まったく評価できません。
3 リドリースコット『テルマ&ルイーズ』等
ヌーベルバーグのゴダールが「男と女それに車があれば映画が出来る」といったらしくて、
それが具体的にはどんな意味だったのかは、私は知りません。そして、その言いぐさだけが面白おかしく独り歩きしているようです。
おそらく、さっき取り上げた『その街の子ども』が正に 「おとことおんな それに移動すること」だけで成り立っている映画でして、
一応地震のことが絡められていますけれど、ゴダールの発言に即した映画です。
そういう映画は何かほかにあるんだろうか?と言いますと、わたしは『テルマ&ルイーズ』ってそういう作品だな(この場合は「女と女と車」ですけれど)、と思いますし、
『あまちゃん』のラストシーンのことを思い出してみても、リドリースコットって井上剛に影響与えている(まあ、リドリースコットに何の影響も受けていない映像作家もあんまりいないと思いますけれども)んだろうな、と思います。
上野篇の撮影には、『ブレードランナー』の影響入っているでしょうね。
4 クドカンの脚本作品
私にとっては、クドカンの脚本作品は『ピンポン』を除くと、そこまで楽しいものではありません。