『あまちゃん』のメイン監督の井上剛とプロデューサーの菓子浩にとっては、『ちりとてちん』は他人の作品ではないので、
『あまちゃん』で都会に出ていく主人公を大漁旗で見送るシーンをパクりと言われることは心外なのではないでしょうか。
もっとも、『ちりとてちん』でこの大漁旗を振るシーンを含んだ12話は、他の人によって監督されていますが、
ある意味、この大漁旗を振るシーンは『ちりとてちん』を通じ抜けるトーンのようなものです。
「いつも心に故郷を」とか、それが『ちりとてちん』では少々くどくて、あまりもろ手を挙げて絶賛というわけでもありませんでした、私の場合。
NHK連続テレビ小説「あまちゃん」完全シナリオ集 第1部 (単行本)
- 作者: 宮藤官九郎
- 出版社/メーカー: 角川マガジンズ
- 発売日: 2013/11/30
- メディア: 単行本
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そのあいさつ文で、
『あまちゃん』製作スタッフ主要四名で久慈に取材旅行に行った帰りの電車の中で 宮藤官九郎と井上剛が『あまちゃん』の物語の大枠を決めてしまったエピソードが紹介されています。
その中には、『あまちゃん』には大漁旗で見送るシーンを二つ入れること、一つ目では子供が旗に気づかないことがすでに話されていた とありまして、
宮藤官九郎がもちだしたのか井上剛が持ち出したのかはわかりませんが、大漁旗を見送りのシーンに使うという事を井上剛が『ちりとてちん』との関係で思わなかったはずはないのですね。
また、宮藤官九郎脚本の「タイガー&ドラゴン」も落語を扱ったドラマであり、
二人とも、『あまちゃん』を作る際に『ちりとてちん』を頭においていたことは疑いようのないことでしょう。
そして出来上がった『あまちゃん』の登場人物の人間関係図は『ちりとてちん』と酷似しておりました。
これは私の勘繰りなのですが、
『あまちゃん』に於いてクドカンにとって一番の難問だったのは、
朝ドラ特有の物語リズム、1回13分半程度で話に起伏があり、しかも全部合わせて40時間近い長さ、なのではないでしょうか。
過去に朝ドラの脚本家で、途中で燃え尽きてしまった人もいらっしゃるようです。
そして、朝ドラのプロデューサーたちも、この朝ドラ特有の問題が脚本家にとって大きな負担となることを理解し、それへの対策をいろいろと講じているようなのですが、
クドカンの場合には、『ちりとてちん』をフォーマットにして『あまちゃん』を書いたらどうだ?と助言したんじゃないんですかね?
登場人物の構成図をそっくりのものにしておくことで、話が詰まった時には『ちりとてちん』からネタを引っ張ってこれるでしょ?
『ちりとてちん』第12話
『あまちゃん』では母親を泣かす役と親に殴られる役は、ユイとアキに分割されていました。
そんでも、母ちゃんたちはのど自慢の会場で、大漁旗を振って見送ってくれました。
こうやって見ていきますと、
『あまちゃん』と『ちりとてちん』は別の作品なのか?という思いを抱かざるを得ません。
ちなみに、『ちりとてちん』で主人公が故郷を離れるのが12話。
あまりにも早い回で都会に旅立っているので、主人公が捨てようとしている故郷の重さが今一つ説得力がありません。また、小浜から大阪ってママチャリ漕いでも一日で行ける距離ですから、「ふるさとがどうたらこうたら…」言われても大げさに聞こえるんですよ。
『あまちゃん』だったら、東京から北三陸まで日本縦断の半分くらいの距離であり、恐ろしく僻地で全然異なる風習があり、しかも諸々の事情から東京行きを何度も邪魔され、
やっと出ていけるとなった時、プラットホームでユイちゃんが絶叫するという展開の『あまちゃん』と比べると、
『ちりとてちん』ってぬるいよな、そして、ヒロインってあんまり苦労せず、周囲の人ばかり苦労して、棚ボタヒロイン風なのが、実はあんまり私は好きではありません。
同じテーマを別の切り口で組み立てなおすこと、これをオマージュというのなら、そこにあるのは尊敬の念ばかりとは言えないのでしょう。時によっては痛烈な批判精神さえあるはずのように思われます。
まあ、それはともかく、『ちりとてちん』には確かにもう一度描きなおしてみたくなるような魅力が随所にあります。
主人公はおひさまであり、さわやかな朝の一日を視聴者にお届けするのが朝ドラの使命なのですが、『ちりとてちん』の貫地谷しおりはかなり後ろ向きのキャラクターで自分の才能と魅力に自分では気が付かない人(それがまた、少女漫画ヒロインの一つの典型なのですが)。
主人公は太陽で太陽の光を表す黄色を身にまとう、その役はお母ちゃん役の和久井映見が引き受けていたようです。
主人公がネガティブで、母ちゃんの方が太陽。その構図、『あまちゃん』でも流用されてました。