わたしは、公立中学二年生30人学級の上位7人くらいが分かるような文章を書くことをモットーとしているのですが、
今回の内容は、なるべくなら
当ブログの理屈について
この回を読んだ後に、読んでいただきたいのですが、
まあ、読まなくても大体わかります。
でも、分からなかったときに、それはどうしてなのか?という疑問が起こった場合、二つの可能性を考えてみてください。
一つ目は、わたしの言うとおりにしなかったからということ、
二つ目は、実はあなたの知力がその程度であるということ
では、どうぞ。
(で、本心言わせていただきますと、当ブログの理屈についてこの回読んだ人だったら、2013年10月10日の『あまちゃん』についてわたしが書いていることって、本当は読む必要ないはずのことです。あっち読めば、もうわかるはずのことなのですよね、公立中学二年生30人学級の上位7人くらいの知力があれば… でも私も含めて普通の大人って情けなくなるくらいに大馬鹿野郎なんですよ)
これは、夏ばっぱの家の間取り図です。
『あまちゃん』見ていればわかることとは思いますが、この家に入ってくる人は、常に → 方向です。
→ 方向でセットの中に役者が入っていく、という点に関しては、日本の伝統的な演劇舞台と同じです。
向かって 左側が下手 右側が上手で、舞台へ上がる廊下が 左手から右手に伸びています。
歌舞伎セットではこのようになります。
『あまちゃん』のばっぱの家も 通常は
このように、 左側が入口 右側が家の奥
これは、別にそちら側の壁が吹き抜けで造られていないというわけではなく、ちゃんと有るんです。
決してこのようなセットではないのですね。
実は、360度の角度からの撮影に耐えるようにセットが作られています。
にもかかわらず、その方向の壁は基本原則として映してはならないのが『あまちゃん』のルールです。
見取り図の青方向でしか家を撮影してはいけない、という『あまちゃん』のルールですが、
このルールの不動ぶりが、地震でも津波でも揺るがない家、それはつまりは人間関係の大事さのことを示しているようです。
では、どのような時に、その赤矢印方向の撮影がなされたかについてですが こちらへどうぞ
そして実際、
夏ばっぱの家は 津波を警告する石碑より高い位置にあるのがすでに示されている。
この第一話が放送されたとき、すでに夏ばっぱが地震と津波で死ぬ可能性はほぼ排除されていたことが今になるとわかります。
『あしたのジョー』も原作者と作画が違う人なんですが、
力石をジョーよりもデカい体型で描かれてしまったために、梶原一騎は力石に過剰な減量を強いる案を考えなくてはいけなかったという実話がありますが、
監督は、脚本家の部下はないのですから、勝手にこういうことやっちゃう可能性ある、と私は思います。
そういうクリエイター間のエゴの調定を行うのがプロデューサーの仕事だとは思うのですが、
また、複数の演出家がいる連続ドラマで、チーフ監督は、最初と最後の週を受け持ち物語全体のテーマを決定するのが恒例ですが、
最初の週の演出を担当するということは、そのセットの作り方を決める権限を持っているということでもあります。
セットをこのように作り、青側からの撮影が基本である、と決定されると、
家に帰る画面は、最初の二週間の井上監督分では
この方向にほぼ統一されています。
そして、この傾向は、その他の監督にも大きな縛りとして影響力を持ちます。
二時間程度の作品ですと、こういう進行方向の操作がそれなりに観客の印象に残るのですが、『あまちゃん』くらいの長大な作品になると、この進行方向の操作は見る者の脳内において機能しにくくなります。
それに、毎日欠かさず見る人は視聴者のむしろ少数派で、ところどころ飛ばしたり、見ながら隣人とだべっていたりするのが朝ドラの由緒正しい見方ですから、
最終話の灯台下でのユイちゃんの背伸びの意味が何だったかについて、138話を見ればわかる、というような言いぐさは、あまり成功しません。
それはこちらへどうぞ
それゆえに、重要ポイントとなるシーンを幾度もフラッシュバックにするとか、
アキちゃんが飛び込む、ユイちゃんが叫ぶ+トンネル を鍵と設定して、何度もそのシーンを演じ返させます。
このくどさが力強さに変わり、それがラストシーンのボロ泣け具合につながっているのですが、
そういう朝の連ドラ特有の構造を無視して 最初の井上剛監督の二週分を見直してみると、
二時間映画が通常とっている映像的仕込みを普通にやっているのが分かります。
第一話 井上剛監督
春子さんが北三陸に戻ってきた方向 →
以降、家に戻る進路は 最初の二週間は→でほぼ統一されています。
味噌汁一杯分の水を火にかけたまんま、わかめ採りに海に行くと、鍋の中の水はすべて蒸発し、鍋焼けこげると思います。
リアリズムで考えると「火災保険ちゃんと入ってます?」なんですが、映像作品って基本的にポエムなんですから、
「夏ばっぱの命は煮立ったお湯。はじけこぼれるくらいに今日も元気」
基本的にポエマー資質ない人間は映像方面に職は得られません。
「過失による失火に保険は適用されるのか?」とまず考えられた方には向いている職業ではないでしょう。
第12話 井上剛監督
最初の井上剛監督12回分のクライマックス
ばっぱとその家のことを思い続けているアキ。東京へは行きたくない。北三陸への断ち切れない思いが → と家の方向により示される。
地元に残ることを心の奥では求めているのに、それを素直に認めることのできない母親。
「どうしたいのよ、アキは」
お前こそどうしたいんだ?というツッコミが視聴者から入るはずの台詞。
娘が北三陸に残りたいとワガママ言ってくれたら、それに便乗して人生やり直したいと無意識に思っている。
その無意識の心情は、画面の向きをチェックしていると誰でも簡単にわかります。
分かるのですが、このようにしつこく画像をキャプチャーしてチェックする人間はこの世の中にはほとんどいません。
普通の人は、見ながら、なんとなく、この画面が発しているメッセージを感じ取り、無意識のうちに、春子さんの無意識的心情に同調しているだけです。
映像作品は、登場人物の無意識と見る者の無意識を同調させることにより、強い共感を引き出している、私はこのブログでそのように定義しております。
発車のベルが鳴り、二人とも自分の求めるところではなく、相手が求めているだろうこと慮って選択した結果、
今度は、位置が入れ違いになる。
この時、本当に北三陸に残りたかったのは、むしろ自分の方だったことに気づいて、
娘を汽車から引きずり出す春子さん。
あの時、東京に向かった自分を引きずり出す代わりに、今、アキを引きずり出すことで、自分の人生がやり直せると感じた。
この印象をより強調するべく、この瞬間にBGM『灯台』が挿入されます
この時、春子さんは本当に帰郷し、アキちゃんの方は自分の物語のスタート地点に立ったこととなります。
これ以降の夏ばっぱと春子さんの喧嘩は、もう別れないことを前提とした家族内の問題にすぎません。
そしてアキちゃんに関しては、次の回から本格的に橋本愛の出番です。
実家のセットが → 方向で玄関をくぐるという条件ができた為に、帰郷→ 東京へ向かう←と画面の方向が整理されているのですが、
12話の電車を見送るシーンを契機に、夢を追及することが ← 方向に高い確率で重ねられることとなっていきます。
そして、これは、のちのユイちゃんの物語の下敷きになっているのですね。
駒場と駒沢(東大と駒大か?)の区別もつかないような田舎者と一緒に行くなんて東京に失礼だ。私にとっては東京は特別な場所。
田舎者を表した痛い台詞のようですけれども、
夢を語ることと将来の職業選択の区別もつかないようなバカ相手に、将来の夢なんか語りたくない。
わたしが翻訳すると、そういう台詞です。
クドカンのような脚本家になりたいというのは夢という言い方でしか表せませんが、国語の教師になりたいは職業選択という方が正しい、
この二つをごちゃ混ぜにするな、と私はいつも思っていますし、これを混乱させることでビジネスしてる連中は、ほんと社会悪です。
家のセットには、もう一つ重要な意味があります。
実際の日本建築には、上座と下座があります。
掛け軸や床の間、仏壇を背にした奥まった方の席が上座であり、そこに座るのは立場の上のものです。
2話 井上剛監督
囲炉裏部屋には上座がはっきりと存在します。家の奥側が上座で玄関に近いほうが下座です。
そして、現実ではだれが家の奥まったところにいるかで人物の力関係は一目でわかってしまいます。葬式の時などの席順で殴り合いのけんかが起きるのはよくあることだそうですが、
映像作品で伝統的に行われている手法はこれとはちょっとちがう形で、ドラマにおいて立場の強い人が上手側に位置し、弱い方が下手側に位置します。
12話 井上剛監督
奥の茶の間にも 力関係の位置の法則が当てはまります。
家の奥の方にいる人が優位であるのが基本です。
この時の会話
「八個で4000円 家族割引で3000円」
変な言いぐさです、
「言ってることとやってることが違うけどどちらも本当なんだよ」という尾美としのりの台詞が後々出てきますが、
これは、『あまちゃん』世界の原則の一つです。
家族相手に金請求するなよ。金請求するんだったら家族とみなしてないはずなのに、家族割引あるってどういう理屈だよ ということです。
「そりゃねえべ、娘に向かって。心配して東京から飛んできたんだ、なあ春ちゃん」
「それにしちゃあ、荷物がやたら大きいが」
くそ田舎呼ばわりしてすぐにも東京に帰るといってる春子さんですが、
「言ってることとやってることが違うけどどちらも本当なんだよ」の原則どおりです。
そしてまったく無駄のない話の流れにクドカンの能力の高さが遺憾なく示されています。
第3話 井上剛監督
「どうしても帰るんだったら北鉄さ乗って帰れ」
東京へ向かう小泉今日子が ←
それをブロックする杉本哲太が →。
「わざわざ来たんだから、わざわざ帰れ」
杉本哲太の台詞で最もかっこいいものの一つです。
最初の二週間分のテーマを要約すると、これなんではないでしょうか?
『あまちゃん』に「めんどくさい」という言い方が多く出てきますが、
ちゃんと人とかかわることを「めんどくさい」とツンデレ風に表しているのが『あまちゃん』世界の原則の一つです。
東京に家出する時に、多くのものを悩んだ末に捨てたのだったら、戻ってくるときにだって悩むはず。
東京から戻る今ぐだぐだ悩むことは、東京に行く前にぐだぐだ悩んだことを証明することでもあり、今悩む姿を見せることは、捨てたはずの人たちへの誠実さの表明である、
「めんどくさいやり方で行っちまったんだから、めんどくさいやり方で戻ってこい」
それしか戻る方法なんかないんだよ。
そういうことなのでしょう。
第三話
東京の家のセット、もやしが床に落ちる音さえ聞こえる静寂。
パパの位置を見ると、 実家のセットとは「上座」の方向が異なる。
これでは、東京の家には、人間関係のゆるぎない基盤がないということの表れのように見えてしまう。
この話を聞くときの美保純のうれしそうな表情。
地元一の美人が結婚生活に失敗していた、他人の不幸は蜜の味。スキャンダルメーカーの美保純は他人のスキャンダルも大好き。
何べんも繰り返してみていると、こういう細かい描写に気が付き始めるのが『あまちゃん』
カウンター内が ←
客席が →
この点からも、リアスは夏ばっぱの家の一室だということが分かる。
もっとも、家のセットとは異なり、10%くらいの確率でリアスの方向は左右ひっくり返る。
夏ばっぱにとっても彼女より上の立場のものがいる、
それは、神棚と仏壇。
上座上手に着目しておくと、『あまちゃん』はとても神仏、特に仏壇を大切に扱っていることがよくわかる。
だから、仏壇に死んでもいない人の遺影を飾っておくはずがない、つまり、忠兵衛さんは海で死んだ人の比喩、というイメージが見ている人のどこかに巣食ってしまうのではないでしょうか。