BPM(心拍数)100くらいでしょうか?
メトロノームの目盛を見ると下限が40上限が208で、
これは一般的な音楽のBPMの範囲であると同時に、生きている人間の心臓が一分間に可能な拍動数の範囲でもあります。
椅子に座っている安静時のBPMが 70
軽いドキドキ感 〜110
ちょっとした運動 〜140
全力疾走 〜180
それから
セックスの絶頂時で 180
ちなみに ポップミュージックの平均的BPMは125くらいで、これはポップスの目的がダンスであり、
ダンスのような軽い運動の心拍数と音楽のテンポがほぼ重なっていることを示しています。
しかし、くだらないPVだねえ
今になってみると、パクったはずのPUFFYの方がずっとかわいい
直に体を動かさなくとも、ある種の気分にはある種のBPMの音楽がふさわしいわけでして、
たとえば眠気を誘発したいなら、眠っているときのBPMに近いテンポのBPM60くらいの音楽がいいわけですし、
[http://www.youtube.com/watch?v=NHwt-IOQ1nE:title=60 BPM (Beats Per Minute) Metronome Click Track
]
恋のワクワク感を表現したいのでしたら、BPM110位の曲がいいのでしょう。
恋のわくわくやドキドキを突き抜けて、一つ上の段階に至ることを示したいなら 135以上がいいのではないでしょうか
140 BPM - 140 Beats Per Minute FAST BEAT for Jamming
ちなみに全力疾走後やセックスの絶頂の直後の心拍数に近しいBPM
180 BPM - 180 Beats Per Minute TECHNO BEAT for Jamming
ここで一つ気になることなのですが、普通 日本のアダルトビデオにはBGMがつけられておりません。
一昔前のアメリカのポルノですとやたらとファンキーなBGMが性行為の映像につけられていたような印象があるのですが、
最近のアメリカのAVにもBGMはほぼなさそうです・
どうして、AVにBGMがふさわしくないかというと、
セックスを段階別に分けますと、
- 服を脱がす、
-
- キスをする
-
- 愛撫
-
- 挿入
-
- 激しい摩擦
-
- エクスタシー
とそれぞれの段階によって当事者の心拍数が異なります。
また、それを見ている人の心拍数も、大体が映像中の人物の物を模した形で高まっていきます。
だから、性行為に一定のBPMのBGMをかぶせると、高まってゆく興奮とずれてしまうわけです。
んだったら、リズムをだんだん走らせて行って、セックスの興奮状態を模したBGMを作れるのではないか?という気もするのですが、
未だそれやった人いないんじゃないでしょうか?
冷静になって考えてみると、ソフトコアにしろハードコアにしろポルノを映画館で見る行為が、今の私たちにはわからなくなってきています。
AVだったら自分の心拍数を映像中の人たちに同調させ、ともにエクスタシーを味わう(つまりオナニーのことですが)というのが主たるAVの使い方だと思うのですが、
映画館でオナニーしていた人ってあくまで少数派だったと思うのですよ。
それ故に、映画館でオナニーしたい気分を少しでも覚ますために、エクスタシーとずれたBPMのBGMが被せられていたと考えることもできると思います。
この映画セックスシーンにBGMがついています。
冒頭で挙げたシーンですが、
虚脱感あふれるBGMなのですが、
BGMはBPM的には興奮していないのですね。ドキドキはおろかワクワクさえしていない。
セックスシーンにそのようなずれたBGMを与えられると、ものすごく物悲しい気持ちになってしまいます。
どんなふうに物悲しいのかというと、ずっと昔の悦びを思い出しているようなノスタルジックな気持ち、渇望すれども手を触れることもできないような遠隔感。
同じテーマについて別の映画で語ることにします。
谷村美月&栄倉奈々主演の『檸檬のころ』のクライマックス。
好きな相手に実は恋人がいて、それを知った時に悲しくて、
でも、その片思いの気持を素直に歌詞にしたら、それを彼が学園祭で歌ってくれて、観客がみんな喜んでくれた、
そういう場面ですが、
そして曲が導入部から展開部に入ったところで、榎本明の息子が栄倉奈々の手を握り、
谷村美月が、画面を逆走することになりますが、
『檸檬のころ』の監督はPVなどを撮ってた人で、そのせいもあってか、このライブのシーンはこなれた編集がなされているのですが、
いてもたってもいられなくなって、猛然と走り出す谷村美月。いかにも運動神経のよさそうな走りっぷりに感心。
しかし、
よくよく見ると分かることですが、この体の動き、音楽のリズムと別に合っていません。音楽よりも速いテンポで動いています。
廊下を全力で時速三十キロくらいで走られると、マジで危険なんですけれども、
別にそんなわけではないでしょうが、続くカットでは、谷村美月、相当走る速度を落としています。で、よくよく見てみると、彼女の肩の動きが、音楽のリズムときっちりあっているんですね。
音楽のテンポにあわせて走る速度設定して撮影しているわけです。
で、どうなのかというと、最初のダッシュのシーンの全力疾走の感じの方が、音楽と合っているように感じられるんですよ、私には。
階段を何段か抜かして踊場にターンと飛び降りる時の足音が、ドラムと重なっています。
体育館のカーテンをバサっと開ける音がやはりドラムと重なります。
なんど見ても、このカーテンを開けるシーンは私には気恥ずかしい。
監督だけでなく、谷村美月も何本もPVで演技した事あるから、こういうの慣れているんでしょうけれども、
私は、見ていて気恥ずかしい。
この気恥ずかしさ、いわば安っぽさですが、それがどこから来るかといいますと、エマニュエル夫人のBGMの逆なんですよ。
このBPMはあくまでも登場人物の心臓の拍数であるべきで、それゆえに見ている側は登場人物にBGMを通して共感できるわけです。
それなのに、この監督はBGMに体の腕の動きを合わせてしまったのですね。
心とは目に見えないものと一般的には考えられていますので、目に見えない音楽で心を表現するのは、観客をその気にさせるには都合のいい方法です。
にも拘らず、この監督はBPMを谷村美月の心を表すことに使わず、単に腕の動きに合わせてしまったために、この画面に本来あるはずだった心がなくなって、音楽を説明しただけのやっすぽい画面に成り下がったわけです。
BGMのこのセオリーが分かってくると、
この動画でいいシーンというのは、谷村美月が会場についてから。
ほかの学生は、音楽に合わせて手拍子してるんですが、谷村美月はそれをやらず、ただ深い息を数回つくだけ。
こうなると、音楽のBPMもしくは音楽すべてが彼女の心であるかのように見え始めるわけです。